神明社(天塚町)

屋根神様から神明社に?

天塚町神明社

読み方 しんめい-しゃ(あまづかちょう)
所在地 名古屋市西区天塚町4丁目 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明(おそらく天照皇大神)
 アクセス 地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 民家と民家の間にこそっと収まっている小さな神社。このスタイルは秋葉社が多いのだけど、ここは珍しく神明社だ。こういうロケーションで、この規模の神明社は他に見た記憶がない。
 鳥居こそないものの、玉垣で囲っており、灯籠があって、社は小さいながらも神明造で、神社としての体裁は整っている。
 社の奥の建物には「天塚集会所」と「いきいきふれあいサロン」の看板がかかっている。
 屋根神様のたぐいだとは思うのだけど、情報がなくて詳しいことは分からない。元は屋根神様だったとすると、熱田・津島・秋葉の3社セットの代わりに伊勢の神宮が入れ替わっているパターンだっただろうか。火の用心の幟が立っているから秋葉社は入っているかもしれない。
 玉垣はだいぶ古びているから、昭和30年代か40年代には今の姿になっていただろうか。

 天塚町(あまづかちょう)は昭和17年に稲生町(いのうちょう)・西志賀町の各一部より成立した。
 稲生町は西区で西志賀町は北区に分かれているのだけど、江戸時代までは西志賀村だったところだと思う。
 町名は、織田信長軍と弟の信行軍が戦った稲生原合戦のときに、戦死した大将を祀るために天塚をつくったことが由来になっているという。
 更に歴史をさかのぼると、このあたりは縄文時代から弥生時代にかけて人が暮らしていた土地で、一帯から西志賀貝塚、船人夫町貝塚が見つかっている。天塚町遺跡もそのひとつで、これらを総称して西志賀貝塚遺跡群と呼んでいる。
 天塚町遺跡からは弥生時代後期から古墳時代にかけての土師器(はじき)などが見つかった。しかし、黒土層のみで貝層が出ていない。本格的な発掘調査が行われれば更に遺跡が見つかるだろうといわれている。
 古代は海だった場所で、海面が下がるとともに庄内川や矢田川が運んだ土砂によって陸地化して人が住めるようになった。弥生時代の人たちにとっての新興住宅地といえるかもしれない。
 志賀の地名は福岡県の志賀島(しかのしま)の人たちが舟でやってきてこの地に住みついたことから来ているという話がある。志賀島にある志賀海神社(web)は綿津見三神(ワタツミ)を祀っており、全国の綿津見神社系の総本社とされている。北区元志賀町にある綿神社地図)はその人々が建てたとしている。
 北区、西区の庄内川左岸では古墳が見つかっていない。ヤマト王朝とはつながりのない別の集団がこのあたりを本拠としていたと考えていいだろうか。

『尾張志』には江戸期の西志賀村の神社として綿神社、四十八所ノ神社、児御前ノ社が載っている。どれも古い神社だ。
『寛文村々覚書』は、八幡宮と四十八社之宮が二社あると書いている。
『尾張徇行記』も基本的には同じで、戦で命を落とした48人を祀ったのが始まりとしている。
 八幡宮と児御前ノ社の成り立ちやいきさつについては八幡社(児子社)のページに書いた。
 四十八社がその後どうなったのかは把握していない。そのまま残っているとは思えないから、名前を変えたか、どこかに合祀されたかしたのではないだろうか。

 このように歴史の古い土地ではあるけれど、この神明社は新しいもののようだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

民家の横並びで天塚町神明社

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