小さな規模の神明社で、外観からするとさほど歴史のあるところには見えないのだけど、思いのほか古い神社のようだ。頼りなさそうな細い木造の鳥居や、神明社と手書きされた木の板に惑われた感がある。社もごく小さなもので、神明神社というより神明祠といった風情だ。 無格社とはいえ、十五等級からひとつ昇級して十四等級になっている。かつてはもっと大きな神社だったかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「社伝に慶長十三年(1608)伊奈備前守、国内検地の際、地鎮祭を執行せられたという。明治6年、据置公許となる」 意味がよく分からない。 1608年の備前検地のときに地鎮祭が行われたというのだけど、そのときはすでにこの神明社があったということなのかなかったということなのか。この地鎮祭は何のために行われたものだったのか。通常、地鎮祭というのは建物を建てる前に行うものだ。検地のときに行ったとして、それは誰がしたことなのか。
このサイトにもよく出てくる前々除や備前検除は、この備前検地のとき、神社の境内地を除地(じょち/よけち)としたということを意味している。前々除というのは、備前検地より前から除地だったということだ。 除地というのは年貢や諸役が免除されることで、除地にならないと年貢地になって年貢を納めなければならない。歴史のある神社は除地になることがほとんどだったのだけど、たまに古い神社でも年貢地だったりするので、その基準はよく分からない。 尾張国における検地は備前検地が最初ではなく、信長も行ったし、本能寺の変(1582年)の翌年には信長の跡を継いで尾張国を領した信雄も行っている。その後、秀吉が全国規模で行った太閤検地は有名だ。 備前検地は担当者である伊奈忠次の役職が備前守だったことからそう呼ばれるようになった。 幕府の代官頭だった伊奈備前守は、1590年の伊豆国に始まり、1591年の武蔵国、1594年の相模国、1603年の遠江・駿河国などでも検地を行い、1608年の尾張国の検地が最後になった。2年後の1610年に61歳で死去している。 ただ、備前検地の責任者は伊奈備前だったには違いないのだけど、実際に現地で指揮に当たったのは部下の家老などなので、伊奈忠次が老齢にむち打ってというわけではない。 検地の目的は取り立てる年貢の量を増やすためというのがあったとしてもそれだけではなく、田畑や農夫をきちんと管理して、荒れ地を農地にして、地方の農地行政を安定させるためというのが主な目的だったとされる。
伊奈忠次は三河国幡豆郡小島城(愛知県西尾市小島町)の生まれで、父親の忠家が三河の一向一揆に加わったことで三河を追われるように飛び出したものの、1575年の長篠の戦いに勝手に参加して武功を挙げ、三河に戻ることを許された。家康嫡男の信康の家臣とされるも、信康が謀反の疑いをかけられて切腹させられるとまたもや三河を出奔。その後は大坂の堺にいたようだ。 1582年に京都で本能寺の変が起きたとき、堺にいた家康を伊賀越えで三河まで逃すことを手伝ったことで再び許され、以降は家康配下の奉行方として活躍することになる。 秀吉の小田原征伐や文禄・慶長の役では兵糧を運ぶなどの兵站を担当し、活躍を認められる。 家康が関東移封されるとそれに従い、江戸幕府では大久保長安などとともに幕府を支えることになる。 戦で活躍したわけではないので一般的な知名度は低いものの、検地だけでなく新田開発や河川の修理、用水路の開発などで多大な貢献をした偉人といっていい。
ところで備前検地が行われた1608年という年は尾張国において重要な意味を持っている。 このとき尾張国の首府は清洲城(web/地図)がある清洲で、名古屋城(web)はまだない。名古屋城が築城されるのは1610年からのことで、清洲から町ごと引っ越しをした清洲越しは1612年以降のことだ。 つまり、江戸期の書に前々除とあるということは、名古屋城築城前の尾張国(名古屋)にあった神社ということになる。その意味は小さくない。 尾張国の初代藩主は家康の九男の義直で、1607年に兄の松平忠吉(家康の四男)が亡くなったのを受けて継ぐことになった。まだ6歳のときだ。備前検地のときは7歳なので、当然藩政には直接関わっていない。 義直が名古屋城に入ったのは家康が死去した後の1616年のことだ。 名古屋の神社を考える場合、名古屋城築城と清洲越しの以前・以後という視点が必要で、備前検地が行われた1608年時点での除地というのもひとつの手がかりとなる。
江戸期の書の稲生村の項を見るとそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「熊野権現壱社 社内年貢地」
『尾張徇行記』(1822年) 「熊野権現一社界内年貢地 府志曰、伊奴神祠在稲生村(後略)」
『尾張志』(1844年) 「天神ノ社 神明社 天道社 水神ノ社 稲生村にあり」
神明社が載っているのは『尾張志』だけなのだけど、ここにある神明社が今の稲生にある神明社のことと決めつけていいのかどうか分からない。 『愛知縣神社名鑑』がいうところの1608年に地鎮祭が行われた云々ということと神明社創建に関わりがあるのであれば、『寛文村々覚書』以降にも神明社が載っていてもよさそうなのだけど。
今昔マップの明治期のものを見ると、稲生村の集落の中にあって、庄内用水の北、道が三叉路になっている角地あたりに位置している。 最初からここに神明社があったかどうかは分からない。他から移されたかもしれない。 式内社とされる伊奴神社(地図)とは横並びで、250メートルほどしか離れていない。 神明社北170メートルほどのところにある妙本寺(地図)との関係が少し気になる。 妙本寺の南あたりに丹羽長秀の兄の丹羽長忠の屋敷があったと伝わっている。 丹羽長秀の屋敷は児玉の白山社の南(地図)にあったとされる。
稲生の地名は、伊奴神社があることから伊奴村だったのが稲生に転じたという説がある。 伊奴神社は天武天皇に稲を献上したときに創建されたという話があり、そこから稲生の地名が生まれたともいう。 稲生という地名自体は古く、稲に関わりがあることは間違いないだろうから、そこにアマテラスを祀る神明社を建てることは自然なことだ。 『尾張志』にある天道社は現在残っていない。天道は「おてんとうさま」ということで太陽神を祀ったと考えられる。天道社と神明社との関係はどうだったのか。どんな神を祀っていたのかなども気になるところだ。
作成日 2018.6.13(最終更新日 2018.12.20)
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