かつて呼続を鎌倉街道と東海道が通っていたため、今も旧街道沿いに寺や神社が多く点在している。この呼続3の秋葉神社もそんな道沿いの寺社のうちのひとつだ。 社の前を東西に走っているのがかつての鎌倉街道で、神社の西を南北に通っているのが旧東海道だ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、当時の様子がある程度分かる。 秋葉社の創建はおそらく江戸時代だろうと思うけど詳しいことは分からない。
社の東にある黄龍寺(おうりゅうじ)は室町時代中期の応仁2年(1468年)に創建されたと伝わるお寺だ。創建時は龍玄寺と称していた。 江戸時代中期の宝暦8年(1758年)に今の寺号にあらためられた。 『尾張名所図会』(1844年)でも紹介されているくらいだからよく知られた寺だったようだ。 熱田にある圓通寺(web)の末寺とある。 圓通寺は熱田社(熱田神宮/web)とのゆかりが深く、白山を開いた泰澄や弘法大師が自作の仏像を納めたともされる古刹で、秋葉山の三尺坊が修行僧に姿を変えて現れ火の秘儀を会得したということで秋葉権現の寺となった。秋葉つながりということで、呼続3の秋葉社は黄龍寺と関係があるかもしれない。 黄龍寺は菅原道真が描いた自画像とされる絵が伝わっており、境内には天神社(天満宮)がある。もともとは熱田の誓願寺にあったものをこちらに移したという(誓願寺を源頼朝の生誕地とする説がある)。『尾張名所図会』は「世に名高し」と書いている。 黄龍寺にはマハヤナ幼稚園が隣接しており、敷地内と思われる場所にマナ第2保育園もある。秋葉社はこの保育園のすぐ南にあり、ここも黄龍寺の敷地内のように思える。 神社のすぐ西には湯浴地蔵(ゆあみじぞう)がある。 これについても『尾張名所図会』は紹介している。 「浴地蔵(ゆあみじぞう) 山崎村にあり。修験地蔵院これを守る。長(みたけ)五尺の銅像にして、何れの作なる事をしらず。元久二年乙丑五月、同郡北井戸田村の海中より出現し給ふを戸部村に移し、又慶長年中今の地に移す」 地蔵が出てきたとき、どこからともなく老人が現れ、泥土の汚れを湯を使って洗い、里人にこの像に願うときは湯を掛けて恩に報いよと告げて老人は消えてしまったという。 その後、里人たちはその言葉を守り、いつしか浴地蔵と呼ばれるようになったのだとか。 旧街道から少し西に入ったところには白毫寺(びゃくごうじ)という寺もあり、源頼朝が上洛したときに立ち寄ったという言い伝えが残る。 白毫寺は笠寺台地の高台にあり、年魚市潟(あゆちがた)を眺める景勝地として古くから知られる場所だった。境内には勝景の石碑や年魚市潟を歌った万葉歌碑などが建てられている。
鎌倉、室町の時代にこの秋葉社はなかっただろうけど、江戸時代はこの前の道を大勢の旅人たちが行き交ったと思いながら歩いてみると、なかなか感慨深いものがあるんじゃないだろうか。
作成日 2017.12.5(最終更新日 2019.8.12)
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