名古屋市北部に6つの六所社がある。 北区の上飯田六所宮、下飯田六所社、成願寺六所神社、東区の矢田六所神社、西区の比良六所神社、そしてこの北区金城の六所社がそうだ。 この六所社以外にも、北区の味鋺神社、大乃伎神社、大井神社、別小江神社は江戸時代には六所明神と呼ばれていた。 六所明神とは何かということについては成願寺六所神社のところで書いた。奥州の鹽竈神社(web)から勧請したものという可能性は考えられるけど具体的にそうだったという話は伝わっていない。 ひとつ確かなことは、名古屋市北部である時期、六所社(六所明神)が流行ったことがあるということだ。名古屋市内では北部エリア(主に庄内川流域)以外に六所社はない。 六所明神の正体もよく分からないのだけど、どうして北部エリアだけだったのかが最大の謎であり、謎を解く手がかりでもある。
現在、金城と呼ばれているところは江戸時代は光音寺村(こうおんじむら)といっていた。金城の西隣に光音寺町として地名が残っている。 もともと光音寺村は現在の光音寺町よりも東にあって、森綱郷といっていた。光音寺が建てられた後、集落を寺のそばに移して光音寺村と称するようになった。 光音寺は万松寺末寺の曹洞宗の寺で、1597年(慶長2年)に創建されたと『尾張徇行記』(1822年)は書いている。 『北区の歴史』は室町時代の応仁年間(1467-1469)に足利尊氏が創建したという話が伝わると書く。 かつては100メートルほど東にあり、矢田川の氾濫で現在地に移されたという。森綱郷が移ったのは光音寺が現在地に移った後ということになる。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではないが、天文十六年(1547)富野左京亮高友により社殿再建の棟札が残る。明治11年村社に列格し、大正6年指定社となる」
『尾張志』(1844年)にはこうある。 「六所社 光音寺村にあり当社に古き狛犬あり(人物の條に記す)末社天道社白山社天王社山神社神明社あり」 人物の項に「富野在京亮高友」とあるのだけど、これは富野左京亮高友の誤りだろう。 それによると、六所社の旧跡に古い狛犬があって、台座の裏に「尾州山田ノ荘森綱ノ郷六所大明神旦那富野在京亮高友敬白天文十六年九月吉日」と彫られているとある。 続けて、村の東北の田んぼの中に富野左京亮屋敷跡と言い伝えられているところがあって、『信長公記』などに稲生の戦いで信行側について戦って信長側に討ち取られて戦死したと書かれているといっている。 稲生の戦いはここより少し西の稲生で1556年に起こった戦いで、実の兄弟である兄・信長と弟・信行の家督争いが原因だった。このとき、信行側には林秀貞や柴田勝家などもいた。富野左京亮(富野左京進)も信行側の有力武将として名を連ねている。 戦いは信長の勝利に終わり、信行は末森城に逃げ帰った。母の土田御前の取りなしによっていったんは許されたものの、翌年謀反の計画が発覚して結局殺されている。 その富野左京亮が天文16年(1547年)に再建した棟札が残っているということはそれ以前には確かにあったということが分かる。
『北区の歴史』は平安時代末に今の鳩岡町あたりに創建され、応安五年(1372年)に現在地に移ったと書いている。 どこからの情報か分からないので鵜呑みにはできないのだけど、平安末にあったという話があるというのは無視できない。鳩岡町のあたりということは森綱郷があったところということだろう。 平安時代、そこに集落があったかどうかというのが問題となるのだけど、少し南の西志賀からは弥生時代の遺跡が見つかっているし、周辺は伊奴神社、羊神社、川向こうに味鋺神社、大乃伎神社といった式内社が固まってあることを考えると、森綱郷が古くからあったとしても不思議はない。 もしかすると、今の大曽根の北の山田に本拠を置いていた山田重忠か、もしくはその一族が神社創建に関わっているかもしれない。 東区矢田の六所社は鎌倉時代前期の1190年代に山田重忠が神皇産霊神(カミムスビ)を祀る社を創建したのが始まりという話があり、この森綱郷の神社はそれ以前に建てた神社とは考えられないだろうか。ひょっとすると最初から六所明神を祀った可能性もある。そうであれば、北区一帯だけに六所社が集まっている理由の説明がつく。山田重忠は鎌倉幕府の御家人となり、このあたり一帯を支配していた。 これは私の思いつきで、根拠となる史料があるわけではないのだけど、ひとつの可能性として提示できる説だと思う。
『愛知縣神社名鑑』には10月10日に特殊神事の神幸祭が行われるとある。どういった内容の神事なのかは分からないのだけど、他ではあまり聞かない祭りだ。赤丸神事を行っていることからしても古い神社を思わせる。
現在の金城六所社は鉄筋コンクリート造のこぎれいな神社になっている。ここも空襲の被害に遭っただろうか。 境内の雰囲気はとても明るく、陽気という言葉が合っている。変に暗かったり締めっぽかったりしない。なかなか好感が持てた。 過去の歴史は歴史として今はこの町の神社としてすっかり馴染んでいるように思う。 六所社とは何かという謎は残ったけど、それはもしかするとあまり公にされたくないことなのかもしれないと、ふと思った。
作成日 2017.5.1(最終更新日 2019.1.8)
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