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下中八幡宮

伝承ごた混ぜで混乱気味

下中八幡宮

読み方 しもなか-はちまん-ぐう
所在地 名古屋市中村区押木田町1丁目1 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十等級
祭神 誉田別尊(ほむだわけのみこと)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
アクセス 地下鉄東山線「中村公園駅」から徒歩約13分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 いくつかの伝承がごた混ぜになった神社で、本当のところがよく分からない。
 社伝は鎮西八郎が創建に関わったとし、一説では加藤清正が中村に勧請した三社の八幡社のうちの一社とする。あるいは、秀吉の母が安産祈願をした神社とも、秀吉の氏神だったともいう。
 けれどそれらの話はどれも矛盾や無理があって、そのまま信じるわけにはいかない。

 鎮西八郎こと源為朝(みなもとのためとも)が創建したと伝わる神社が他にもある。中区にある闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)がそうだ。下中八幡宮から見て4キロほど南東になる(地図)。
 伝承ではどちらも平安時代後期の保元元年(1156年)に為朝が創建したとしている。
 しかし、闇之森八幡社のところでも書いたように、この時期、為朝は伊豆大島に島流しにされているから、尾張国で神社を建てることなどできない。
 島を脱出して平家打倒の兵をこの地で集めていたのだという話をまともに信じる人は少ないと思う。もちろん、そういった史実はない。
 ただ、為朝の子供が後に尾張の古渡(ふるわたり)にやってきて尾頭を名乗ったという話があり、そこにはいくばくかの信憑性がある。
 尾頭次郎義次は土御門天皇の命で紀州の悪党を討伐して、褒美として鬼頭の姓を与えられたという。
 名古屋には鬼頭姓が多く、尾頭橋などの地名も残る。
 何の根拠もなく下中八幡宮に源為朝の名前が出てくるとも思えないので、鬼頭家が創建に関わったという可能性は考えられる。

 加藤清正が勧請したという話と、秀吉の母が安産祈願をしたという話は完全に矛盾する。清正は秀吉よりも年下なので、そんなことは両立しない。
 そもそも、清正は八幡社を勧請したりはしていないと思う。熱心な法華経信者であったというのもあるだろうけど、神社創建には関わっていないはずだ。修造くらいはしたかもしれない。
 清正は3歳のときに父が死んだため、母と一緒に津島に移っている。
 12歳のときに長浜城城主になったばかりの秀吉と対面して、そのまま小姓になった。
 その後は秀吉の家臣として各地を転戦した後、25歳のときに熊本城に入城した。
 激動の十代、二十代の中、中村に神社を建てている余裕などなかったはずだし、中村は生まれた地ではあっても物心ついたときには津島にいたわけで、中村への思い入れはそれほどなかったのではないか。それに、この地の領主というわけでもない秀吉の一家臣が勝手に神社を建てられたとも思えない。
 秀吉ですら、故郷の中村に神社のひとつも建てていない。

 秀吉の母が安産祈願をしたという話については可能性がある。
 ただし、その場合は、秀吉の生まれは中村公園(地図)があるあたりではなく、そこより南の中中村だったということになるかもしれない。
 弥助屋敷があったとされる場所が今の中村中町2丁目にある。秀吉の父の別名が弥助だったことからそう呼ばれるようになった。秀吉はそこで生まれたというのが異説としてある。
 何故、下中八幡宮に参ったなら生まれが中中村になるかというと、中村公園があるあたりは上中村で、そこにも八幡社があったからだ。自分の村に八幡社があるのに、わざわざ隣村の八幡社で安産祈願をするとは考えにくい。 
 産土神(うぶすながみ)というのは自分が生まれた土地の神様で、その神社とは一生の付き合いになる。いくら霊験あらたかという評判だったとしても、あえて隣村の神社に願掛けに行くようなことは当時しなかったのではないだろうか。
 中中村と下中八幡宮はわずか200メートルほどの位置関係にある。
 秀吉の母は、現在、下中八幡宮の境外摂社となっている日之宮神社地図)に男子を授かりたいと願って日参したと伝わる。そして、懐妊したなかは安産祈願に下中八幡宮にお参りをしたという話になっている。
 日之宮神社は当時、日吉権現と称していたことから、秀吉の幼名を日吉丸にしたのだともいう。
 秀吉の母なかの参拝祈願云々というのが作り話であれば、秀吉の中中村生まれ説の根拠とはならない。

『愛知縣神社名鑑』から得られる情報は少ない。
『尾張志』に下中村に八幡ノ社があると書かれているということと、昭和58年に八幡社から下中八幡宮に改称したということくらいだ。
 境内の由緒書きには少し気になることが書かれている。
「寛永十三年(1636年)の検地帳によると神田供田の定めがあったといわれる由緒深い宮である」
 この神社に納められる神田(しんでん)があったということだろう。
 続いて一時衰退した後、寛永20年(1643年)に再興され、延宝3年(1675年)と、それ以降の棟札が数枚残っていると書いている。
 これを信じるなら、江戸時代前期にはすでにあったことになる。
 ただし、『寛文村々覚書』(1670年)では「社内年貢地 村中支配」となっているので、江戸時代以前にはさかのぼらないのではないか。

 最初から八幡だったかどうかは、創建年代次第だ。江戸時代前期ならそうだろうし、もっと古ければ違う可能性もある。
 やや気になるのが祭神名だ。應神天皇、神宮皇后とせず、誉田別尊、息長帯姫命としているのは何か意味があってのことだろうか。
 宇佐神宮(web)や石清水八幡宮(web)では誉田別尊(應神天皇)、比売大神、神功皇后の三柱を八幡大神として祀っている。應神天皇と神宮皇后の二柱を祀っているところもあるけど、下中八幡はどうして神宮皇后を入れたのだろう。あえて息長帯姫命という祭神名にしたのだろうか。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、下中村の西端に神社があったことが分かる。神社より西は田んぼが広がっている。
 区画整理されて田んぼが住宅地に変わったのは戦後のことだ。神社横の押木田公園は1949年(昭和24年)に開園した公園で、そのとき境内も今の細長い形になっただろうか。
 日之宮神社を境外社としている他、石神社(中村本町)も飛地境内神社としている
 秀吉、中中村生誕地説については日之宮神社のページでもう少しくわしく書きたいと思う。

 

作成日 2017.6.4(最終更新日 2019.4.26)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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