包里村の下の方 ![]() | |
読み方 | しも-しんめい-しゃ(かのさと) |
所在地 | 名古屋市中川区かの里1丁目2001 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・東急等 | 旧村社・十五等級 |
祭神 | 豊受大神(トヨウケ) |
アクセス | JR関西本線「戸田駅」から徒歩約13分 |
駐車場 | なし |
祭礼・その他 | 例祭 10月5日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) かの里下神明社は不思議な状況 |
かの里にある2社の神明社のうち南側にある方で、下神明社と称している。
かの里がもともとは包里村と書いて”かねさと”と呼んでいたことなどは上神明社のページに書いた。
上神明社で天照大神(アマテラス)を祀り、下神明社では豊受大神(トヨウケ)を祀っている。伊勢の神宮(公式サイト)の内宮と外宮に見立てたものだろう。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張志』に”神明ノ社二所包里村にあり”と記るす。東郷の氏神として崇敬ふかく、明治5年7月、村社に列格し、大正7年5月28日社務所を新築する。昭和57年7月7日社殿を改築した」
上神明社が西郷の氏神で、下神明社が東郷の氏神というから、集落は南北ではなく東西で分かれていたようだ。
明治5年7月にどちらも村社に列格した。
昭和57年7月に社殿を改築したというのも同じだ。
尾張の地誌を見ても、江戸時代を通じて包里村に二社の神明社があったことは変わらなかったようだ。
ただ、再建時期だけは違っていて、上神明社が寛永16年(1639年)で、下神明社が元和7年(1621年)だった(『尾張徇行記』1822年)。
創建についてはどちらも不明としている。
それにしてもこの神社の現状はどういうことなのか。
社殿は南向きで道路は北と東にあり、東側に入り口があるのだけど、南側が不自然な荒れ地になっている。そのエリアには大きな石碑(旧陸軍の杉山惣焏)が建っているものの、草がぼうぼうで近づけない。その南側の一段低い土地にアパートが建っている。
もともとどういう状況だったのかが想像できない。本来あったはずの南入口はどこにあったのだろう。
今昔マップでこの神社の鳥居マークが初めて描かれるのは1932年(昭和7年)の地図からで、それ以降は場所は動いていない。
昭和57年の社殿改築のときに土地を切り売りしたのか、それとはまた別なのか。
町の北側に近鉄名古屋線が通り、東側には環状2号線が南北に走っている。西は戸田川が蛇行して流れている。
区画整理されないまま家屋や建物が建てられたものだから、その間を縫うように細い道が作られていて東西南北がちゃんとつながっていない。神社がある一角は特に複雑なことになっている。
通りでいうと、神社の東側の道が古くからあった道だ。
江戸時代の包里村だった頃は、下神明社から上神明社が見えていたんじゃないかと思うけどどうだろう。直線距離で150メートルほどしか離れていない。
たくさん神社を見てきた中で、状況の不思議さという点で印象に残った。
都会化しなくても町は大きく様変わりする。神社も変わらないようで変わっていくものだ。
作成日 2017.12.3(最終更新日 2025.8.9)