西八幡社(軍水)

中根銅鐸発見の地

軍水西八幡社

読み方 にし-はちまん-しゃ(ぐんすい)
所在地 名古屋市瑞穂区軍水町3丁目1番 地図
創建年 不明
社格等 村社・十二等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス

・地下鉄名城線「瑞穂運動場東駅」から徒歩約20分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 瑞穂区南東エリアに3つの八幡社が固まっている。東の中根に東八幡社地図)、真ん中の丸根に北条八幡社地図)、西の軍水に西八幡社(地図)と、これらは東西に並んでいる。
 かつての中根村には3つの中根城があった。主城が南城(地図)で、中城(地図)、北城(地図)と、そちらは南北に並んでいた。
 そして、これらの八幡社はいずれも中根城にゆかりがある。

 西八幡社の創建は不明となっている。中根村の枝郷(えだごう)である仁所(にしょ)の氏神として祀っていたというのだけど、中根城があった時代からあったのか、それとも江戸時代以降の創建なのか。
 枝郷というのは、新田開発などで分離独立した村のことだ。元の村を本郷や元郷などといい、枝分かれした村ということで枝郷という。
 中根村の場合は、集落の人口が増えたことで西と東に分かれたようだ。仁所が西側で、西八幡は仁所の氏神ということになる。
 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1655-58年)にも西八幡社があるから、戦国時代にはすでにあったと考えていいのではないか。中根城の守護社だったという話もある。
 文政5年(1822年)に本殿を修復したという棟札が残っているそうだ。
 同じ敷地内に
宝蔵寺が隣接しているから、かつては宝蔵寺の鎮守だったかもしれない。
 寺の創建は戦国時代の天文12年(1543年)で、山号は中根山、宗派は曹洞宗で、本尊は薬師如来という。熱田円通寺の末寺とのことだ。

 神社は小山の上にあり、階段を上まで登っていかないといけない。ここは古墳ではないかという話がある。瑞穂台地は古墳が多いところなので、その可能性はある。
 中根村ではひとつ重要な発見があった。中根銅鐸という名前を聞いたことがあるだろうか。その銅鐸が発見されたのがこの軍水町2丁目の西八幡社あたりなのだ。
 明治3年(1870年)、農家の丹羽利吉さんが道路工事に借り出されているとき、宅地内を掘り返したところ銅鐸が出てきたという。
 里人と一緒に掘り出してみると、全高約83センチのほぼ完全な形の銅鐸だった。銅鐸は人為的に破壊されて埋められていることもあるため、完全な形のものは貴重だ(中根銅鐸は下の部分が少し壊れている)。
 弥生時代後期のもので、袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)という種類のものだそうだ。
 役所に届けたところ、後に中根村に戻され、村の倉庫で祀ることになったという。
 明治7年に東別院で開かれた博覧会に出品、奉納したところ行方知れずになってしまう。
 それからどこをどうめぐったのか、現在は兵庫県の辰馬考古資料館が所蔵しており、国の重要文化財に指定されている。
 西八幡社が建つ小山が古墳かどうかはわりと重要で、もし古墳だとしたらこの銅鐸との関係はどうなのかという問題が出てくる。
 弥生時代は3世紀中頃までで、古墳時代がそれに続くわけだけど、銅鐸が造られたのは紀元前2世紀から2世紀までで、それ以降造られていないとされる。
 名古屋の古墳は古いものでも4世紀末なので時代的な開きが大きい。埋められた銅鐸に気づかず古墳を築くなんてことがあっただろうか。

 銅鐸はこれまで500個ほどが見つかっており、その分布は西日本に偏っている。
 一番多いのが兵庫県の56点で、以下、島根県、徳島県、滋賀県、和歌山県と続く。東は静岡県あたりまでのようだ。
 弥生時代後期のもので主に大和、河内、摂津で生産されたものを近畿式、濃尾平野で生産されたものを三遠式(さんえんしき)と分類している。中根銅鐸は三遠式に属する。
 名古屋で見つかっているのはおそらく2点だと思われる。中根銅鐸と、もう1点は名古屋城築城の際に見つかっている。
 祭祀に使ったものなのか楽器なのか、それ以外の用途のために造ったものなのか、はっきりしたことは分かっていない。
 初期のものは小型で、ベルのように内側で鳴らしたと考えられ、1世紀以降は大型化して鳴らした形跡は見られないという。
『扶桑略記』や『続日本紀』に発見したという記述があり、わりと古くから掘り出されていたらしいのだけど、何故か『古事記』、『日本書紀』には銅鐸に関する記述がない。
 発掘場所というのがまた謎で、多くが集落から離れた山の麓や丘に埋めらたと考えられている。そこは墓ではなく、住居跡でもなく、土器や石器と一緒にも埋められた形跡がない。祭祀に使った後に壊したという説もあるけど、なんともいえない。
 場所と時期を考えると、中根銅鐸は2キロほど西にある瑞穂遺跡と関係があるかもしれない。弥生時代中期から後期に栄えた集落と考えられている。

 八幡社と古墳と銅鐸は直接は関係がなさそうではあるけど、歴史の点と点が結びついて線となり、それが現在までつながっていると考えると、すべては偶然ではなかったとも思えてくる。
 現代の我々には分からないことを古代の人たちは知っていた。そのかなりの部分を中世や近世の人も知っていたかもしれない。八幡社を建てたのも、中根城を築いたのも、ここが古墳と知ってのことだったかもしれないし、あるいは銅鐸を埋めるような特別な場所ということを意識していた可能性だってなくはない。
 銅鐸とは何かを追求するのは私の役目ではないので研究者に委ねるとして、いつかその真の役割が解明されるときを楽しみに待ちたいと思う。それが分かれば、この西八幡社がある土地の意味について意外な事実を知ることになるかもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中根銅鐸が見つからなければただの西八幡社だった

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