瑞穂区南東エリアに3つの八幡社がある。東の中根に東八幡社(地図)、真ん中の丸根に北条八幡社(地図)、西の軍水に西八幡社(地図)で、これらは東西に並んでいる。 かつての中根村には3つの中根城があった。主城が南城(地図)で、中城(地図)、北城(地図)と、それらは南北に並んでいた。 そして、これらの八幡社はいずれも中根城にゆかりがある。
西八幡社の創建は不明となっている。中根村の枝郷(えだごう)である仁所(にしょ)の氏神として祀っていた。 枝郷というのは新田開発などで分離独立した村のことだ。元の村を本郷や元郷などといい、枝分かれした村ということで枝郷という。 中根村の場合は、集落の人口が増えたことで西と東に分かれたようだ。仁所が西側で、西八幡は仁所の氏神ということになる。 『寛文村々覚書』(1670年頃)に「西八幡社 前々除」とあるので、1608年の備前検地以前からあったと考えられる。中根城の守護神だったかもしれない。
文政5年(1822年)に本殿を修復したときの棟札が残っているという。 同じ敷地内に宝蔵寺が隣接しているから、かつては宝蔵寺の鎮守だっただろうか。 寺の創建は戦国時代の天文12年(1543年)で、山号は中根山、宗派は曹洞宗で、本尊は薬師如来という。熱田圓通寺(web)の末寺だった。
神社は小山の上にあり、階段を上まで登っていかないといけない。ここは古墳ではないかという話がある。瑞穂台地は古墳が多いところなので、その可能性はある。 中根村ではひとつ重要な発見があった。中根銅鐸という名前を聞いたことがあるだろうか。その銅鐸が発見されたのがこの軍水町2丁目の西八幡社近くだった。 明治3年(1870年)、農家の丹羽利吉さんが道路工事に借り出されて宅地内を掘り返したところ銅鐸が出てきた。 里人と一緒に掘り出してみると、全高約83センチのほぼ完全な形の銅鐸だった(下の部分が少し壊れている)。銅鐸は人為的に破壊されて埋められていることもあるため、完全な形のものは少ない。 弥生時代後期のもので、袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)という種類のものだ。 役所に届けたところ、ほどなく中根村に戻され、村の倉庫で保管することになった。 明治7年(1874年)に東別院(web)で開かれた博覧会に出品、奉納したところ行方知れずになってしまう。 それからどこをどうめぐったのか、現在は兵庫県の辰馬考古資料館(web)所蔵となっており、国の重要文化財に指定されている。 西八幡社が建つ小山が古墳かどうかはわりと重要で、もし古墳だとしたらこの銅鐸との関係はどうなのかということになる。関係があるのかないのか。 弥生時代は3世紀中頃までで、古墳時代がそれに続くわけだけど、銅鐸が造られたのは紀元前2世紀から2世紀までで、それ以降造られていないとされる。 名古屋の古墳は古いものでも4世紀中頃なので時代的な開きが大きい。埋められた銅鐸に気づかず古墳を築くなんてことがあっただろうか。
銅鐸はこれまで500個ほどが見つかっており、その分布は西日本に偏っている。 一番多いのが兵庫県の56点で、以下、島根県、徳島県、滋賀県、和歌山県と続く。東は静岡県あたりまでのようだ。 弥生時代後期のもので主に大和、河内、摂津で生産されたものを近畿式、濃尾平野で生産されたものを三遠式(さんえんしき)と分類している。中根銅鐸は三遠式に属する。 名古屋で見つかっているのはおそらく2点だと思われる。中根銅鐸と、もう1点は名古屋城築城の際に見つかったとされる(個人所蔵)。 祭祀に使ったものなのか楽器なのか、それ以外の用途のために造ったものなのか、はっきりしたことは分かっていない。銅鐸は測量器具だったという説もあるけど、それなら銅鐸の前後は何で測量していたのかという話になる。 初期のものは小型で、ベルのように内側で鳴らしたと考えられ、1世紀以降は大型化して鳴らした形跡は見られないという。 『扶桑略記』や『続日本紀』に発見したという記述があり、わりと古くから掘り出されていたらしいのだけど、何故か『古事記』、『日本書紀』には銅鐸に関する記述がない。 発掘場所というのがまた謎で、多くが集落から離れた山の麓や丘に埋めらたと考えられている。そこは墓ではなく、住居跡でもなく、土器や石器と一緒に埋められた形跡もない。祭祀に使った後に壊したという説もあるけど、なんともいえない。 場所と時期を考えると、中根銅鐸は2キロほど西にある瑞穂遺跡と関係があるかもしれない。そこは弥生時代中期から後期に栄えた集落と考えられている。
八幡社と古墳と銅鐸は直接は関係がなさそうではあるけど、歴史の点と点が結びついて線となり、それが現在までつながっていると考えると、すべては偶然ではないとも思えてくる。 現代の我々には分からないことを古代の人たちは知っていた。そのかなりの部分を中世や近世の人も知っていたのではないか。八幡社を建てたのも、中根城を築いたのも、ここが古墳と知ってのことだったかもしれないし、あるいは銅鐸を埋めるような特別な場所ということを意識していた可能性だってなくはない。 いつかこの西八幡社がある土地の意味について意外な事実が明らかになる日が来るかもしれない。
作成日 2017.9.4(最終更新日 2019.3.22)
|