1696年(元禄9年)に開発された甚兵衛新田に建てられた神明社で、新田の開発者は福田村の豪農、西川甚兵衛吉蔵だった。 1647年(正保4年)から1649年(慶安2年)にかけて尾張藩が開発した熱田新田の南を更に干拓で拡げたのが甚兵衛新田だ。御為金200両を藩に納めて開発が許可された。新田完成までに8年の歳月と自己資金1,100両を要したという。 この後、海東郡大宝新田の堤改修を藩に命じられて完成させたことから苗字帯刀を許されている。 しかし、1722年(享保7年)の暴雨府による高潮で大打撃を受け、民家を熱田新田に移した。 1750年には吉蔵の孫の甚兵衛吉誠(吉成?)が甚兵衛後新田を開発している。 甚兵衛新田は名古屋の豪商、関戸家に渡ることになるのだけど、それがいつだったのかがちょっと調べがつかなかった。 1821年(文政4年)に当知新田と改称しているから、そのときかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「この地は元小碓村大字当知新田字用西と称した。寛延三(1750)に開拓せられた新田にて移住者ら村内の安全を祈り奉斎する。明治5年、村社に列格した。昭和53年5月造営する」
1750年は甚兵衛後新田が開発された年なので、これは間違っている。甚兵衛新田が開発されたのは1696年だから、神社の創建はそのときか、もしくは甚兵衛新田が完成した1704年あたりではないかと思う。
『尾張志』には、「神明ノ社 當知新田にあり」とある。 『尾張志』が完成したのは1844年なので、すでに當知新田(当知新田)となっている。 『尾張徇行記』の完成は1822年だけど、調査自体はそれ以前に行われているので、まだ甚兵衛新田として載っている。甚兵衛新田の神社についての記載はない。
甚兵衛新田の神明社が最初に建てられたのは現在地よりも西の庄内川の堤防近くだった。明徳橋の東南だ(地図)。 今昔マップの明治中期(1888-1898年)を見ても、その場所に鳥居マークがある。今の場所に移されたのは昭和52年(1977年)、または昭和53年のことのようだ。 ただ、今昔マップの1976-1980年を見ると、旧地と新地の両方に鳥居マークが描かれている。単に地図上のことだけなのか、旧地にも社を祀っていたのだろうか。旧地の鳥居マークが消えるのは1992-1996年の地図からだ。 そのあたりの事情が掴めていない。 境内に「八等級 幣帛供進社」と彫られた石碑が建っている。『愛知縣神社名鑑』では十四等級になっているから、近年昇級したようだ。
当知新田の当知(とうち)は、大乗仏教の経典のひとつ『無量寿経』の中に出てくる「汝自当知」から来ているとされる。 法蔵菩薩が自分の仏の世界を作るためにいろいろな仏の世界を見せてくださいと世自在王仏に頼んだとき、「自分でそれを見つけなさい」と教え諭されたときの言葉が汝自当知だ。 甚兵衛新田開発者の西川甚兵衛は浄土真宗大谷派の熱心な信者だった。 神社の少し北東にある大音寺(地図)は甚兵衛新田を開発した西川家(宗春)が1848年に西川家の菩提寺として建てた寺だ。 もとは天文年間(1532-1555年)に熱田に建てられた曹洞宗(臨済宗とも)の寺で、妙音院と称していた。 1802年に焼失したものを西川宗春が熱田から移し、真宗大谷派の大音寺として建て直した。 室町期に彫られたとされる阿弥陀如来像を本尊としている。 空襲で焼けて、戦後の昭和29年(1954年)に再建された。
境内社の当知天神社は平成25年(2013年)に合祀されたものというから新しい。どこか別のところに独立してあったものだろう。 1847年(弘化4年)に錺屋佐助が作った神楽屋台が伝わっており、名古屋市民俗資料文化財に指定されている。これも名古屋まつり(web)に参加する。 夏祭りでは茅の輪くぐりも行われているそうだ。 見た目は白塗り鉄筋コンクリート造のありふれた町の神明社といった風情でしかないのだけど、歴史を知ったうえであらためて訪れてみると、また違った感慨を抱くことになるだろう。 広大な農地を所有していた西川甚兵衛一族はその後どうなったのだろうか。
作成日 2018.7.17(最終更新日 2019.7.25)
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