橘神社

オトタチバナヒメの物語を今に伝える役割

橘神社

読み方 たちばな-じんじゃ
所在地 名古屋市緑区大高町平部高根8-80 地図
創建年 1955年(昭和30年)
旧社格・等級等 不明
祭神 弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)
 アクセス 名鉄名古屋本線「左京山駅」から徒歩約16分
駐車場 なし
その他 例祭 元旦祭 左義長 春の大祭 秋の大祭 秋葉山祭り
オススメ度

 橘神社という名前に惹かれるものを感じつつ訪ねてみると、それは意外な神社だった。
 昭和30年(1955年)創祀で氏神として弟橘姫命(オトタチバナヒメ)を祀っているという。なるほどその橘なのかと納得はしたのだけど、昭和30年にオトタチバナヒメを祀る神社を何故この場所に建てたのかは謎だ。創建のいきさつなどを記した説明書きはない。
「火鎮神 秋葉三尺坊大権現」、「権属 龍丸竜神」と書いてある。
 秋葉社は本社の隣の小さな社だろうけど、「権属 龍丸竜神」はよく分からない。神の使いとしての眷属(けんぞく)のことを言いたかったのだろうか。
 謎が謎を呼び、参拝しながら、うーんと、頭を悩ませてしまった。

 拝殿を兼ねた四阿(あずまや)のような建物の屋根の下に三鱗の紋がある。手作り感溢れる木製で、丸の中に正三角形をピラミッド状に積み上げた形で、鎌倉北条氏一門の家紋としてよく知られているものだ。
 初代執権の北条時政が江ノ島弁財天(web)に子孫繁栄を祈願したとき、美女に変身した大蛇が現れてお告げをしたあと三枚の鱗を残して消えたというエピソードがあり、そこから北条家が家紋にしたという。
 オトタチバナヒメと北条氏は結びつかないから、龍丸竜神の紋という可能性はあるのか。
 後年、三鱗紋を家紋にしていた有名人はけっこういて、山県有朋、正岡子規、川端康成、高倉健などもそうだったそうだ。何故かモンゴル人の白鳳も三鱗紋を使っているのだけど、これは相撲部屋と関係があるのかもしれない。
 尾張と三鱗紋を結びつけるものが何かないか調べたところ、尾張津島出身で秀吉に仕えて賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた平野長泰の名前が引っかかった。関ヶ原の戦いでは東軍につき、江戸時代は徳川秀忠の旗本だったというから、やはりこことは関係がなさそうだ。そもそも平野長泰が三鱗紋を使ったのは執権北条氏の庶流、横井氏の流れ(母系)を汲んでいるからということのようだ。

 オトタチバナヒメ(弟橘姫)は『日本書紀』によるとヤマトタケル(日本武尊)の妃のひとりで、穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじおしやまのすくね)の娘としている。ヤマトタケルとの間に稚武彦王(ワカタケヒコ)がいる。
 ヤマトタケルの東征に付き従い、一行が相模(神奈川県)から上総(千葉県)に渡ろうとしたとき海が荒れて渡れなかったため、海神の怒りを鎮めるべくオトタチバナヒメは自ら海に入ったところ暴風雨はおさまり、ヤマトタケル一行は無事に海を渡ることができたという。
 玉浦でヤマトタケルはオトタチバナヒメを祀る社を建てたのが橘樹神社(千葉県茂原市)で、ここは上総国二宮であり、『延喜式』神名帳では「上総国長柄郡 橘神社」として記載されている。
 尾張国でヤマトタケルの妃といえばミヤズヒメ(宮簀媛)との物語がよく知られていて、氷上姉子神社などにその伝承が伝わっているのだけど、千葉県など関東一円ではオトタチバナヒメに関する伝承が色濃い。吾妻神社や走水神社など、オトタチバナヒメやヤマトタケルを祭神とする神社
が一帯に分布している。
 ヤマトタケルは東征からの帰路、碓氷峠(足柄峠とも)でオトタチバナヒメのことを思い出し、「あづまはや(吾が妻よ)」と嘆いたことから東国を「あづま」と呼ぶようになったともいう。
 尾張におけるオトタチバナヒメというと、熱田神宮(web)の末社の水向神社がオトタチバナヒメを祭神としている。しかし、痕跡としてそれくらいで、他には知らない。
 熱田神宮の境内摂社となっている孫若御子神社の祭神はオトタチバナヒメとヤマトタケルの子のワカタケヒコ(稚武彦王)ではないかという説がかつてあったけど、現在の祭神は天火明命(アメノホアカリ)とする。

 一体誰が昭和30年にこの場所でオトタチバナヒメを祀る神社を建てたのか? という最初の問いかけに戻る。
 しかし、その問いの答えは見つけられなかった。建てられてから60年以上の歳月が流れているから、建てた人はもうこの世を去っているだろう。子孫の方かお世話を引き継いだ人なら創建のいきさつを知っているだろうか。
 個人的な信仰から発しているようにも思えるのだけど、なんともいえない。
 橘はかつて聖なる木とされていた。垂仁天皇が不老不死の力を持つという非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を取ってくるようにと田道間守を常世の国に遣わしたという話が『古事記』、『日本書紀』にある。その非時香菓は橘の実だったとされる。今でいうミカンがそれに当たる。
 その橘の名を冠したオトタチバナヒメは巫女だったのではないかという考えがある。ミヤズヒメも宮主姫とも書き、巫女的な存在とされる。
 オトタチバナヒメは東征に従い子供を産み、ミヤズヒメは連れていってもらえず子供もいない。その違いは何だったのか。

さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

 海に入る前にオトタチバナヒメが歌ったとされる歌だ。
 焼津で火攻めにあったヤマトタケルが天叢雲剣で草を薙ぎ払って助かったとき、一緒にいたオトタチバナヒメを案じたヤマトタケルのことを歌っている。
 相模の野に燃える火のその火中に立って私の身を心配して呼びかけてくれたあなたよ、といった意味だ。

 この神社とオトタチバナヒメがどう関係しているのかは分からない。ただ、こうしてオトタチバナヒメの痕跡を残しておいてくれたおかげで、今の私たちはオトタチバナヒメの物語に思いを馳せることができる。
 本の中にだけあるお話では遠く感じるけど、こうして神社の祭神として祀られているところに参拝すると何かしらの実感が沸いてくる。
 神社は記憶を伝える装置の役割も果たしているということはこれまでに何度も書いているけど、この神社も同じことが言えそうだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

名古屋で弟橘姫命を祀る橘神社

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