古墳に下に眠るのは誰で古墳の上に建てたのは誰か ![]() | |
| 読み方 | しんめい-しゃ(とりす) |
| 所在地 | 名古屋市南区鳥栖1丁目18-10 地図 |
| 創建年 | 不明 |
| 旧社格・等級等 | 旧村社・十二等級 |
| 祭神 | 天照御大神(アマテラス) 速玉男命(ハヤタマノオ) 応神天皇(おうじんてんのう) 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ) 倉稲魂命(ウカノミタマ) 五男三女神(ごなんさんじょしん) |
| アクセス | 地下鉄「桜本町駅」から徒歩約3分 |
| 駐車場 | なし |
| 祭礼・その他 | 例祭 10月10日 |
| 神紋 | |
| オススメ度 | * |
| ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 古墳の上の鳥栖神明社 | |
380メートルほど東にある鳥栖八劔社(地図)と対のような関係の神社だろうと思う。
ただし、その創建のいきさつや年代などには大きな違いがある。
どちらも古墳の上に乗っている神社という共通項はあるものの、古墳の築造年代についてはかなり差があるようで、鳥栖八劔社古墳は尾張最古級、鳥栖神明社古墳は古墳時代後期のものとされている。どちらも詳しい調査が行われていないため、詳細は不明のようだ。100年から150年くらいの時間差があるかもしれない。
境内の説明板では箱型前方後円墳としているけど、おそらくは円墳だろう。
昭和58年に土どめ工事をした際、黄褐色の粘土を敷いて、その上に黒土を挟み、さらに砂と粘土が混じった熱田層の土が盛られていることが分かった。掘り返したわけではないので出土品などは出ていない。
大きさは直径約30メートル、高さは約3.5メートルで、尾張の円墳としては中規模のものだ。
笠寺台地はかつて松巨島(まつこしま)と呼ばた台地で、年魚市潟の海が満潮になると海に浮かぶ巨大な松の島のように見えたことからそう名づけられたとされる。
この台地も早くから人が暮らし始めたところで、古墳の他、長い年代にわたるいくつかの遺跡が見つかっている。笠寺の見晴台遺跡からは、約2万年前の旧石器時代の角錐状石器なども見つかった。
古墳時代は南の火高(大高)や北西の熱田とは海を隔てていたから、尾張氏とは別の勢力が拠点としていた可能性がある。とはいえ、この地の古い神社の創建には熱田にまつわる話がよく出てくるので、まったくの無関係ではなかっただろう。
この古墳の上にいつ誰が神社を建てたかは分かっていない。
境内の説明版には創建明和八年(1771年)とあるけど、これは明らかに間違っている。
『南区の神社を巡る』には1771年(明和8年)の社殿修復の棟札を所蔵するとあるから、1771年は修造または社殿再建の年ということだろう。
1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』の新屋敷村の項に「社弐ヶ所 内 神明 劔大明神 村中支配 社内二反九畝拾歩 前々除」とある。前々除ということは、1608年の備前検地以前に建てられた(すでに除地だった)ということだ。
古墳の上ということを考えると、最初は天照大神(アマテラス)を祀る神明社ではなかったのではないか。
『尾張徇行記』(1822年)の内容も同じようなもので、『尾張志』(1844年)には「神明ノ社 西之切の本居神也」、「八劔ノ社 東の切の本居神」とある。
本居神(もといがみ)というのは、集落ができて他から勧請した神ではなく、もともとその土地にいた神といった意味だ。この神社の始まりは思いがけず古いかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「創建は明かではない。古くから戈仙の氏神として崇敬あつく明治5年7月、村社に列し、明治42年村内鎮座の熊野社、八幡社、八王子社、白山社、稲荷社を次々と合併した」
戈仙の地名がいつ頃生まれたものかは分からないのだけど、戈は”ほこ”または”カ”と読み、棒などの先に取り付ける金属製の武器のことだ。
同じ”ほこ”でも”矛”は棒の先に水平に取り付けるのに対して、”戈”は棒に垂直に取り付け、前後に刃がある。そのため、刺すのではなく振り下ろすようにして使う。
日本では戈は武器として使われなかったようで、戈仙の地名が武器の戈から来ているかどうかは分からない。ただ、鳥栖八劔社では盗まれた草薙剣の代わりの新剣をこの地の鍛冶屋が造ったという話が伝わっているから、そういった鍛冶集団がこの地で暮らしていたことが地名の由来になった可能性は考えられる。
祭神の数が多いのは、明治末に周辺にあった神社を合祀したためということが分かる。明治42年というから政府の神社合祀政策によるものだ。どうして八劔社ではなくこちらの神明社に集めたのかは分からない。
毎年10月、鳥栖神明社と鳥栖八劔社は合同で例祭の前日に宵祭りを行っている。ちょうちん行列と呼ばれる行列が神明社から八劔社へと向かう。その主役は子供たちだ。
秋の夜道を提灯を持った子供たちが列を作って歩いていく風景は、昔とあまり変わらないのではないかと思う。
古墳の下にはおそらく今も埋葬者が眠っているのだろう。宵祭りの夜には目を覚まして列の後ろからついて歩いているかもしれない。
作成日 2018.3.4(最終更新日 2025.11.8)

