第一印象は雰囲気のある神社だなというものだった。
境内の空気に古さを感じる。神社の創建はそれほど古くないのかもしれないけど、土地自体に歴史があるのかもしれない。
ここからすぐ東、南北を走る伏見通の東には大須二子山古墳(地図)をはじめとした4つの古墳があったことが知られており、大須古墳群と呼ばれている。
山神社の北、大須通を挟んだ北側にある白山神社(地図)は、こんもりした小山の上に社殿があって古墳を思わせる。
山神社も小山の上に建っていて、ここも古墳なんじゃないのと思った。
大須古墳群は土器などいくつかの遺物が発見されているだけで本格的な発掘調査は行われていない。まだ知られていない古墳などもあるのではないだろうか。
神社南の古渡では縄文時代の遺物が見つかっているから、このあたり一帯は古くから人が暮らしていた土地だったと思われる。
私が山神社の境内で感じた古くささといったものは、そういう歴史の積み重ねから来ているのかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが享保年間(1716-1735)に既に鎮座す。古くは七本榎の森、又は七ツ石の社と呼んだ。明治5年村社に列格する。 明治44年葺替え石垣を建造した。 大正2年、境内神社の津島社、迦具土社を本社と合祀する。 昭和20年3月空襲で社殿被災、昭和20年5月社殿復興改築した」
『尾張志』にはこうある。
「山ノ神ノ社 日置白山社の東にあり大山祇命を祭るこの社辺なる小坂を三年坂といふ」
『寛文村々覚書』の日置村の項を確認するとこうなっている。
「社五ヶ所 八幡 山王 白山権現 山神 神明」
『寛文村々覚書』は1655-1658年に行われた調査をまとめたものだから、そのときすでにあったことが分かる。
1608年の備前検地以前に除地(前々除)となっていたようだから、創建はそれ以前の可能性が高い。
この中で八幡というのは、当時、千本松日置八幡宮と呼ばれていた日置神社のことと思われる。
白山権現が大須1丁目の白山神社のことだろう。山王は、その白山神社の境内社になっている日吉神社のことではないかと思う(確信はない)。
神明社がどの神社のことをいっているのかは分からない。現在、このあたりに神明社はないから、別の名前になっているか、他へ移されたか。
江戸時代の人たちが山神を祀るとき、それは本当にオオヤマツミ(大山祇命)のことを思っていただろうか。
神仏習合が当たり前だった江戸期の人たちにとって神社の祭神はどういうものという認識だったのか、その感覚を共有することができないのがもどかしい。
江戸後期に尾張藩によって編さんされた『尾張志』では「大山祇命を祭る」と書いているのだけど、これは国学者的な立場からそうしたのか、神社側の言い分だったのか、庶民も含めた共通認識だったのか、そのあたりの判断が難しい。
一般庶民にとって山神というのは、もっと漠然とした神だったのかもしれない。
あるいは、我々が思う以上に日本神話で語られるような歴史が身分を超えて広く浸透していたと考えるべきなのか。
境内には地蔵菩薩を祀った地蔵堂がある。それ自体は別に珍しいことではないのだけど、神と仏が同居している感じがこの神社の雰囲気に合っていて、なんかいいなと思った。
山神社が発している波動というか空気感は、安心感があって心落ち着くから、個人的に好きだ。
この松原山神社は、ちょっと荒れているところがあるのだけど、それでも好感が持てる神社だった。
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