火上山の麓近くの山腹にある御嶽社。 霊神碑と小さな社があるだけなので神社と呼べるかどうかは微妙なところだ。 住所も元屋敷なのか火上山なのかはっきり分からない。 三つある霊神碑の中央に御嶽大神の他、御嶽教にゆかりの深い神々である摩利支天、白河大神、三笠山大神や覚明霊神、普寛霊神などの名が刻まれている。 左右の石碑には多くの霊神の名がある。大きい文字で深開霊神、深岳霊神とあるので、これがこの講社の中心人物だったと思われる。まったく知らない名前ばかりだ。この御嶽社がどこの講社のものかも分からない。
木曽御嶽信仰において、信者のことを行者という。信仰者というよりも修験の修行者といった意味合いが強い。 行者は死ぬと霊神として神格化され、神として祀られることになる。 しかし、行者のすべてが霊神になれるわけではない。生前、特に優れた行者だった者だけが霊神とされる。 そもそも御嶽教における霊神は覚明行者と普寛行者のことを指していた。 天明五年(1785年)に軽精進に よる登拝を無許可で行って黒沢口登山道を開いたのが覚明行者で、続いて普寛行者が王滝口登山道を整備して、御嶽山が一般信者に開放されることになった。 その功績を称えてふたりを霊神としたのが霊神信仰の始まりだ。わずかながら江戸時代に建てられた霊神碑が残っている。 霊神というものがもう少し広い意味で使われるようになるのは明治に入ってからのことだ。江戸時代は神仏習合して仏教色が強くなっていた御嶽信仰は、明治政府の神仏分離令を受けて神道として存続を目指すことになる。 それまで各地でバラバラに信仰していた御嶽教の講社をひとつにまとめたのが下山応助(しもやまおうすけ)だった。 明治6年(1873年)に各地の講社をひとつにして御嶽教会を結成し、明治23年(1890年)に平山省斎(ひらやませいさい)の大成教会と合同した。その後、明治25年(1892年)に御嶽教は独立し、神道13派のひとつとなる。それに先だち下山応助は行方不明となった。 霊神碑が多く建てられるようになるのは明治7年以降のことというから、御嶽教が成立してからのことだ。 御嶽教の信者は死んだら魂は御嶽山に行って修業を続けると考えられており、霊神碑はその魂が里に戻ってきたときの依り代(よりしろ)とされている。
火上山にいつ御嶽社が建てられたかは分からない。明治というほど古いものではなさそうだから戦後のことだろうか。 100メートルほど北には氷上姉子神社の元宮(地図)があって散策路がつながっている。元宮は氷上姉子神社の祭神であるミヤズヒメの館があった場所ともされる。火上山は氷上姉子神社の境内地なのだけど、御嶽社は関係がなさそうだ。 地元の御嶽講社の関係社には違いなく、その人たちは火上山を霊山と考えてこの場所に建てたのだろうか。 実際、火上山の元宮があるあたりは何かしらの強力なエネルギーに満ちているように感じられる。御嶽社が偶然この場所にあるとは思えない。 火上山、齋山、姥神山、カブト山のあたり一帯は、とにかく強烈なエリアだ。きちんと発掘調査をして実態を究明して欲しいという思いを抱きつつ、このまま下手に触らない方がいいだろうとも思う。
作成日 2018.4.27(最終更新日 2019.4.3)
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