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熊野三社(呼続)

古木茂る古社の香り

呼続熊野三社

読み方 くまの-さんしゃ(よびつぎ)
所在地 名古屋市南区呼続2丁目6 地図
創建年 不明(1570年頃?)
旧社格・等級等 指定村社・九等級
祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
アクセス 名鉄名古屋本線「呼続駅」から徒歩約8分
駐車場 なし
その他 例祭 10月9日
オススメ度 **

 この神社いいわぁ、というのが第一印象だった。古社の香りと境内に茂る大木が相まって、非常にどっしりとして落ち着いた雰囲気を醸し出している。山の神様の神社らしい神社だとも思った。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張名所図会』に熊野権現社、山崎村にあり、城主佐久間信盛の城内の守護神であった。寛永年中(1624-1643年)より次々と修理の時の棟札がある。古い社で祠官は宇都野という、とある。明治5年7月、村社に列し、明治43年10月26日、供進指定社となる」
 佐久間信盛が山崎城の守護神として祀っていたというのだけど、佐久間信盛が創建したかどうかは分からない。個人的な感触としてはもっとずっと古い神社に感じられた。

『尾張名所図会』(1844年)がどう書いているかというとこうだ。
「熊野権現社 くまのごんげんのやしろ 創建の年紀詳ならず。伝え云ふ、当社は城主信盛の城中にありし守護神なりしよし。寛永年中より追々修理を加えし時の棟札ありて、頗(すこぶ)る古社なり。祠官宇津野氏」
 佐久間信盛の城の守護神だったというのは「伝え云ふ」というだけで、「頗る古社なり」というからには相当古い神社だったということではないのか。江戸時代後期の人間から見て戦国時代末に創建された神社は頗る古社ではないだろうから。
 ひとつ確からしいことは、山崎城が廃城になった後、江戸時代に入った1627年に現在地に移されたということだ。
 山崎城があったのは、現在地の180メートルほど北で、今は安泰寺(地図)という寺が建っているところだったと伝わっている。
 安泰寺の南を通っている名鉄名古屋本線は山崎城の堀跡を走っている。
 熊野三社の西の道が旧東海道で、熊野三社はその道沿いに移築されたということだ。
 寛永年中(1624-1645年)のもの以降の多くの棟札が残っているということも、この神社が大切に守られてきた証といえる。

 その他、江戸時代の書にはこうある。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「熊野三社 社内壱反五畝歩 前々除 当村祢宜 源左衛門持分」
「古城跡壱ヶ所 東西三拾軒南北四拾三間 先年、佐久間右衛門居城之由、今は寺屋敷ニ成」

『尾張徇行記』(1822年)
「熊野神社三区 祠官宇津野相模守書上ニ、当社草創不詳、寛永四丁卯年再建ノ由、境内一反五畝除地」

『尾張志』(1844年)
「熊野三所ノ社 山崎村にあり伊弉諾尊伊弉冉尊を祭るといふ本社の東西に脇宮という社二社あり速玉之男ノ神事解之男ノ神を祭るこれを総て熊野三社といふ境内に末社いなりの社あり社人を宇津野相摸と云」

 現在の祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)となっており、江戸時代は本社で伊弉冉(イザナミ)と一緒に祀っていた伊弉諾尊(イザナギ)が抜け落ちている。いつからそうなったのだろう。
 事解、速玉は江戸時代から変わっていない。それぞれ熊野の神だ。
 熊野三山(web)や熊野信仰については中村区の熊野社のところで書いた。熊野権現の正体もなかなか複雑で理解することが難しい。
 創建年代は不詳で、再建は寛永四年(1627年)というのが現在地に移されたときということだろう。
 山崎村にあった八王子ノ社、八幡ノ社は熊野三社の境内に移されて現存している。嵯峨野社というのもある。富士ノ社ノ廃址は江戸時代のどこかで廃社になったのだろう。
 その他、津島社と浅間社、稲荷社が境内社としてある。

 佐久間信盛は山崎城の3代目の城主だったとされる。
 最初の城主は蔵人浄盤という人物だったようだけど詳しいことは伝わっていない。
 2代目は加藤弥三郎で、熱田羽城の十三代・加藤図書助順盛(東加藤)の二男に当たる人物だ。
 加藤家は藤原氏の流れを汲む伊勢山田の神官で、景繁(順盛の祖父)のとき熱田に移ってきたという。
 順盛は今川家の人質になるはずの竹千代(のちの徳川家康)を預かって育てたことでも知られる。
 桶狭間の戦いのとき、熱田社(web)で戦勝祈願をしていた信長の元に酒を持って駆けつけ、「加藤が来たから勝とう」と信長が駄洒落を飛ばしたという加藤がこの順盛だ。
 加藤家はのちに商家として発展していくことになる。
 山崎城2代目城主となった弥三郎は、信長に小姓として仕えた。桶狭間の戦いのとき、清洲城(web)から深夜に飛び出していった信長に付き従った5騎のうちのひとりだった。
 1569年の大河内城の戦いに参加した後、もしくは1563年に織田家を出奔ともいわれ、その後、家康に仕えることとなり、1573年の三方ヶ原の戦いで戦死したと伝わる。
 その加藤弥三郎に代わって3代目の山崎城城主となったのが佐久間信盛だった。

 佐久間氏は桓武平氏、三浦氏の流れを汲む名門一族で、安房国平郡郡(あわのくにへいぐんぐん/千葉県)の下佐久間・上佐久間を領したときに佐久間を名乗るようになった。
 その後、家盛が承久の乱(1221年)で活躍して、尾張国愛智郡の御器所の地を恩賞としてもらったことから尾張佐久間氏が始まった。
 それから佐久間氏は分家して、信盛は山崎で生まれとされる。
 若くして織田信秀に従い、信秀の命で息子の信長に仕えることになった。
 佐久間氏は御器所一帯の土豪であり、信秀・信長親子に従ったとはいえ、秀吉などのように最初から織田家の家臣というわけではなかった。
 桶狭間の戦いを始め、信長が戦った戦の大部分に参戦した他、政治、外交の能力にも優れた信長の重臣だった。
 信盛が山崎城主となったのは、加藤弥三郎が織田家を出た後なので、早ければ1563年以降、もしくは1569年以降ということになるだろう。
 1570年頃から信盛は各地を転戦する忙しい身となるので、実際に山崎城にいた期間は短かったものと思われる。
 山崎城主となった信盛が熊野社を創建したという話は私は懐疑的だ。それ以前に城の守護神としての神社はなかったのか、何故信盛は熊野権現を祀ったのかなど、釈然としない部分が多い。古くからあった熊野社を城内に移して祀ったというのであれば分かる。あるいは、もともと熊野社があったところに蔵人浄盤が山崎城を築城したとも考えられる。
 ただ、信盛はこの後、自らの意志だったのかどうか熊野の地へ向かうことになる。最初から熊野とは浅からぬ縁があったということだろうか。

 古くからの重臣として信長の天下統一を支えるひとりだった信盛に唐突な転落が訪れることになる。
 1576年、石山合戦のひとつ、天王寺の戦いで指揮官だった塙直政が討ち死にしたのを受け、後任の指揮官として本願寺との戦いの指揮を任されることになる。
 しかし、戦いは膠着し、いっこうに進展しないことに怒った信長は、自ら朝廷に掛け合って本願寺側と和睦を結ぶことになった。
 その後、有名な19ヶ条の折檻状を信長に突きつけられた信盛は、織田家を追放され、高野山に落ちていくことになった。
 ほとんど言いがかりのような文句は信盛の所領を奪うためだったとか、織田家再編成のための古株のリストラだったなどともいわれる(同じように筆頭家老格の林通勝や安藤守就親子なども追放されている)。
 1580年。嫡男の信栄とともに高野山へ向かうのに従った者はわずかに2、3人だったという。
 あまり感情や主観を交えずに『信長公記』を記している太田牛一も、この父子については同情的に書いている。
 しかも、高野山に滞在することも許されず、熊野の奥へと落ち延びていくことになった。たまたま熊野だったのか、山崎城時代に祀っていた熊野権現を頼ってのことだったか。当時、熊野には黄泉の国への入り口があると信じられていた。
 1582年1月、病気療養をしていた奥吉野の十津川の温泉で死去。享年55。
 同じ年の6月21日。信長も本能寺の変で命を落とすことになる。
 関西で大軍団を率いていた佐久間信盛に代わって関西軍の指揮を任されたのが明智光秀だったことを思えば、信長が信盛を追放しなければ本能寺の変は起きていなかったかもしれないし、起きていたとしてもその後の展開が違うものになったはずだ。
 信盛の死後、嫡男の信栄は帰参を許され、信長嫡男の信忠の家臣として取り立てられることになった。
 本能寺の変の後は信雄に仕え、その後、秀吉の茶人となる。
 この家系は江戸時代を通じて続き、幕末の佐久間象山を出すことになる。

 山崎城は佐久間信盛が織田家を去った後に廃城となり、跡地に桜(南区)にあった宝珠庵を移して安泰寺とした。
 熊野三社は先ほども書いたように1627年に現在地に移され、山崎村の氏神となった。
 境内には樹齢500年とされるクスノキをはじめ、多くの大樹があり、その中の何本かが名古屋の保存樹に指定されている。
 私が古社と感じたのは、神社よりもこの土地に対してだったのかもしれない。
 境内の雰囲気を味わうだけでも訪れる価値がある神社とおすすめしたい。

 

作成日 2017.12.9(最終更新日 2019.8.16)

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