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東築地神社

東築地にも歴史あり

東築地神社

読み方 ひがしつきぢ-じんじゃ
所在地 名古屋市港区東築地町2 地図
創建年 1911年(明治44年)
旧社格・等級等 十五等級
祭神 熱田皇大神(あつたすめおおかみ)
アクセス 地下鉄名港線「築地口駅」から徒歩約24分
駐車場 なし
その他 例祭 10月15日
オススメ度

 名古屋港の築地エリアには築地の名前を持つ神社が3つある。
 ひとつは名古屋港総鎮守の築地神社で、もうひとつが築地口神社、あとひとつがこの東築地神社だ。名前の通り東築地に鎮座している。
 名古屋港の東側、堀川河口を埋め立てて作られた土地が東築地と呼ばれるエリアだ。その東の道徳地区は江戸時代に干拓によって作られた新田で、東築地はその干拓地の先を埋め立てて作られた。
 名古屋港が開港したのが明治40年(1907年)で、東築地は第五号地として明治43年(1910年)にできた。
 第一号地から第四号地までを築地と命名し、その東ということで東築地とされた。それがそのまま町名となった。
 神社が建てられたのは翌明治44年(1911年)のことだ。

『愛知県神社名鑑』はこう書いている。
「この東築地一帯は名古屋港開発に伴い県営工事で埋め立てられた土地で明治43年末に竣工、移住者の総意により翌明治44年に東築地町二十番地に産土神として奉斎された。大正元年9月、風水害のため竜宮町一番地に遷し次で東築地町四番地に遷座したが、昭和17年11月大同製鋼株式会社の工場拡張により社地を現在の所に移し神域を造成した。昭和34年9月26日襲来の伊勢湾台風により被災したが氏子の尽力により復旧した」

 最初の鎮座地の東築地町20番地というのがどこだったのか正確な位置が分からないのだけど、現在地よりも南だったと思う。大正元年に台風の被害に遭って北の竜宮町1丁目に移り、また東築地に戻ったものの、昭和17年(1942年)大同製鉄(大同特殊鋼)の工場拡張のため現在地に移されたということだ。昭和17年といえば戦時中で、大同製鉄は当然のように軍需工場となっていて、工場を拡張しなければ生産が追いつかなかったのだろう。

 東築地という土地には忘れられた歴史がある。南陽館や名古屋教育水族館、山田才吉の名前を覚えている名古屋の人間がどれくらいいるだろうか。
 幕末の1852年(嘉永5年)、才吉は美濃国厚見郡富茂登村(岐阜県岐阜市大仏町)で生まれた。ペリーが黒船でやってくる前年のことだ。実家は料理屋を営んでいた。
 幼い頃から板前の修業をし、熱田神戸町・大須門前町に店を出し、明治14年(1880年)には若宮八幡社の隣に漬物屋「きた福」を開店した。守口漬を考案したのが才吉とされている。
 日清・日露戦争のときは缶詰でひと儲けした。
 明治28年(1895年)に栄町に料理旅館の東陽町を開業。396畳の大広間を持つ旅館で、広い庭園に人工の山を作り、舟遊びもできたという(後に火災で焼失)。
 明治43年、できたばかりの東築地に目を付けた才吉は、ここに自分の夢と理想の国を作ることを思いつく。
 海の近くに料理旅館の南陽館を建て、そのやや北に名古屋教育水族館を建てることを計画し、お客を運ぶために熱田電気軌道を開業した。
 南陽館は木造五階建てという当時としては最先端の建物で、水族館はモダンな洋館だった。
 しかし、大正元年(1912年)に台風の高潮で南陽館が倒壊、水族館も大きな被害を受けた。
 それでもめげなかった才吉は、南陽館を三階建てで建て直し、水族館も南陽館の敷地に移して再起を図る。
 しかしながら、昭和10年(1935年)に閉館。その2年後の昭和12年に才吉はこの世を去った。85歳まで生きた。
 南陽館と水族館があった場所には現在、東築地小学校が建っている。この小学校の生徒達は山田才吉の話を聞かされているだろうか。

 才吉の施設や鉄道と大同特殊鋼と東築地神社の歴史は確実にリンクしているはずだ。大正元年の台風によって被害を受けたという点でも一致しており、移った先の位置関係からしてもかなり近い場所にあったのではないかと思う。
 大同特殊鋼の前身の名古屋電灯製鉄部の工場が建てられたのが大正6年(1917年)で、才吉が敷いた観光客用の鉄道がなければこの地に工場を建てなかったかもしれない。
 今昔マップの1920年(大正9年)を見ると、南端近くに鉄道駅と水族館が描かれている。水族館の南の建物が南陽館だ。その東側に工場がある。
 鳥居マークは描かれておらず、この時期、東築地神社は竜宮町1丁目にあったのか東築地町4番地に移っていたのか、ちょっと分からない。
 熱田電気軌道は後に名古屋市電に吸収され、戦後に廃線となった。
 東築地町の人口は、2000年(平成12年)は661人だったのが2015年には421人となり、毎年減少している。
 地下鉄の築地口駅まではちょっと歩くので、車がないと住むにはやや不便なところかもしれない。南の山崎川を渡って名鉄の東名古屋港駅を利用するという手もあるのか。

『愛知県神社名鑑』は「ひがしつきぢ」とフリガナを振っている。神社側のあえての「ぢ」なのか、単なる間違いなのか。
 明治の終わりにできた新しい海辺の土地に熱田大神を呼ぶということに違和感はない。港区と熱田は意外に近い。距離だけでなく精神的な部分でも近しいといえそうだ。
『愛知県神社名鑑』では本殿を板屋造としているけど、今は神明造になっている。その後建て直したということだろうか。金の飾りをふんだんに使った立派な社だ。
 本社の両脇に小さな社がある他、瑞垣の外に稲荷社ともう一社ある。稲荷社以外はどんな神を祀っているのか分からない。
 あちこち引っ越しが多かったけど、今は落ち着いたようだ。本社域には木々も育ってちょっとした鎮守の杜となっている。

 

作成日 2018.6.26(最終更新日 2019.7.17)

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