おどり山古墳の上に鎮座する神社。 もともとこの場所には石を祀る眞好社があり、明治2年(1869年)に眞好社(地図)が移されることになり、その跡地に建てられたのがこの村上神社だ。 住人たちが熱田神宮(web)から勧請して熱田大神を祀り、熱田社と称していた。 現在の社名になったのは戦後のことで、この場所が村上町だったことから来ている。 村上の地名は、江戸時代前期の1666年に、尾張藩士の村上治兵衛が開墾したことで村上新田と呼ばれたことに由来する。本願寺村の外新田だっただろうと思う。 『瑞穂区の歴史』や『なごやの町名』は村上天皇を祀ると書いているけど、おそらくそれはない。村上天皇は平安時代中期の第62代天皇だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「明治初年眞好社を瑞穂区瑞穂通四丁目34番地に移すその跡地に飛地境内神社『熱田社』と称して祭祀を存続していた。近時氏子世帯急増し、氏子区域の西端に眞好社。東端に熱田社と自然崇敬者二分せらる今回熱田社を町名による村上神社と改称する。昭和39年8月『宗教法人村上神社』として認証された。昭和48年本殿改築現在に至る」 村上地区の住人が増えたので、西に眞好社を移し、跡地に熱田社を祀ったということらしいのだけど、移された時期が明治の初めなので、実際はもう少し違う事情があったとも考えられる。 村上神社は眞好天神社の飛地境内社という扱いになっているようだ。
おどり山古墳でいつ頃から石を祀っていたのかは分からない。江戸時代後期の天保年間(1830-1844年)には確かにあったようだ。 もともと誰がどういう神を祀っていたのかも不明となっている。古墳にまつわるものなのか、石にまつわる民間信仰なのか。 おどり山古墳は5世紀後半に築造されたと考えられており、高さ約3.6メートル、直系約40メートルの円墳だ。 おどり山の呼び名は、村境によくあった神送り場から来ていると『瑞穂区の歴史』は書いている。別名のまごく山のまごくは間谷、つまり谷間の意味だという。 古墳は熱田社を造営する際に周囲をごっそり削ってしまったため、原形をとどめていない。 ここは瑞穂台地の東の縁に近く、東側を山崎川(かつての川名川)が流れている。縄文時代の瑞穂遺跡や大曲輪貝塚などがあり、古くから人が暮らしていた土地だということが分かっている。 古墳を築いた勢力がどういう人たちだったのかはよく分からない。熱田神宮のある熱田台地とはかつて干潟の海で隔てられていたとはいえ、熱田との関係は深い。瑞穂台地も尾張氏の勢力下だったのではないかと思う。
神社は古墳の上にあるということで、社殿の前までいくとけっこう高さがあり、周辺を見渡すことができる。社殿の周囲がぐるりと空というのはちょっと不思議な感覚だ。 切られた木が何本かあったから、かつてはもう少しこんもり茂った小さな林のようになっていたのだろう。 それにしても、古墳の上で石を祀る眞好社が移っていって、その跡地に祀る神をどうして熱田の神としたのだろう。古墳の被葬者と関係があるだろうか。 本社の左右にある小さな社については調べがつかなかった。通常であれば、津島社、秋葉社といったところが定番なのだけど、このあたりを支配していた一族の祖神の可能性も考えられる。 神社というのは表に現れているのは一部で、本質の大部分は地下に埋まっている。それを掘り起こすことが正しいことなのかどうか分からない。
作成日 2017.9.7(最終更新日 2019.3.23)
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