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齋山稲荷社


濃厚な古代の香りが真空パックされている感じ



齋山稲荷社

読み方いつきやま-いなり-しゃ
所在地名古屋市緑区大高町斎山46 地図
創建年1641年(江戸時代前期)
旧社格・等級等無格社・九等級
祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀姫命(みやずひめのみこと)
アクセス名鉄常滑線「名和駅」から徒歩約27分
駐車場 あり(斎山中腹)
その他例祭 5月7日
オススメ度**

 久々にえげつない空間に足を踏み入れてしまったと思った。一体なんだここはと。
 単なる山の上の稲荷社などではない。とにかく普通の場所ではない。異空間といっても大げさではないくらい日常からはかけ離れた空気に満ちている。神聖さとか清浄さといった感じではなく、ある種の威圧感のようなものが襲いかかってくる。濃厚な古代の香りとでもいったらいいだろうか。奈良の明日香に少し似ていて、あれよりももっと濃厚だ。
 何の予備知識もなく出向いていったので面食らったというのもあるのだけど、歴史を知ってなるほどそういうことかと納得できた部分もある。
 ここは縄文もしくはそれ以前からの歴史が積み重なったところで、古代においては聖域とも呼ばれるような特別な場所だったようだ。周囲は古墳地帯であり、東の氷上姉子神社の元宮があった火高山(地図)とは峰続きになっている。ヤマトタケルとミヤズヒメが契りを交わした場所という伝説も信じてしまいそうだ。



 斎山に神社を建てたのは、江戸時代前期の1641年(寛永十八年)で、神主の山口長兵衛垂応が倉稲魂命を祀ったのが始まりという。
 初めから稲荷社だったかどうかは定かではない。ヤマトタケルとミヤズヒメを祀るとしたのは最初からだったのか後付けなのか。
 社殿を整えたのは元禄の頃というから、1700年前後のことだ。



『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に寛永十八年(1641)山口長兵衛(山口家三十七世)現在の斎山一帯を社地と定め社殿を建立し、同家の開拓による持領一帯の農民と共に累世氏神として崇敬奉仕し霊験顕著な神社なり。昭和10年4月1日、編入公許となる」



 社殿は斎山稲荷神社古墳と呼ばれる古墳の上に建てられている。斎山の山頂は奥の院を過ぎてもう少し行った先なので、あえて古墳の上を選んで社殿を建てたのだろう。
 この古墳に関して詳しいことは分かっていない。 円墳部分が直径30メートルほどの帆立貝式の古墳と考えられており、見つかった埴輪が前期古墳時代のものということで、5世紀以前にさかのぼる可能性がある。
 名古屋市の古墳ということでいうと、守山区の志段味地区で4世紀から7世紀にかけて長期間にわたって造られたのを例外として、それ以外は台地の縁に沿って大小の古墳がやや間隔を開けて築造された。
 熱田の断夫山古墳をはじめとする巨大な前方後円墳は5世紀末から6世紀にかけて築かれた。4世紀のものは志段味くらいにしないのだけど、大高町の西隣の東海市名和町にある兜山古墳は4世紀末と考えられている。兜山古墳は尾張南部では最古級のもので、三角縁神獣鏡も発掘されている。
 大高エリアを見ると、古代の海岸線に沿って石神古墳遺跡が6世紀後半、火上山を挟んで斎山古墳が4世紀末から5世紀初頭、すぐ西に縄文時代の貝塚跡があり、三ツ屋古墳(名和古墳群)が6世紀、兜山古墳が4世紀末といった配置になっている。
 この地区の支配者を尾張氏と見るか別の勢力と見るかは意見が分かれるところだ。大高(火高)を尾張氏の本拠とするならば隣接する名和も尾張氏のものと考えた方が自然ではある。ただ、古墳の規模や築造時期、発掘品などを考えると必ずしもそうとは決めつけられない。知多半島の勢力との境界線が名和・大高だった可能性も考えられる。5世紀に築造された古墳がないことから(見つかっていないだけかもしれない)、名和の勢力は5世紀までに尾張氏の勢力下に入ったということか。



 神社は稲荷社の姿をしていながら稲荷社とは思えない。倉稲魂命を祀れば必ず稲荷社というわけではない。
 ヤマトタケルとミヤズヒメを祀っているということは、古くから二柱を祀る神社があって、江戸時代にそこに倉稲魂命を祀ったということもあり得る話だ。
 そうだとすればここはかなりの古社ということになり、氷上姉子神社との関係も気になってくる。
 斎山(いつきやま)という名称が示す通り、この場所は斎の山だったのだろう。斎(いつき)というのは、神聖なとか清浄なという意味だ。最初から清浄なというよりはケガレを清めるといった意味合いが強い。火高山のミヤズヒメをはじめとする祭主たちが身を清めて祈りを捧げた場所だっただろうか。
 いつこの名称が付けられたのかは分からないけれど、ここはそういう場所と考えられていたということだ。
 かつては氷上姉子神社の元宮がある場所と道でつながっていたのが、2000年の東海豪雨のときに参道にあった稲荷鳥居もろとも道が崩落してしまって現在はつながっていないようだ。
 大廻間池の西から細い道を北に進んでいくと神社の手前に駐車スペースがある。大きい車は厳しそうだ。



 以上のような歴史を踏まえた上で訪れていたらまた違った感想を抱いたのだろう。それにしてもあの場所がたたえている空気感は尋常なものではなく、忘れがたい印象を残した。悪いエネルギーではないにしても、氷上姉子神社元宮があるところとはまったく異質のものだ。古代からのエネルギーが蓄積されているというか淀んでいる。
 おすすめしたいかというとちょっと考えてしまうし、また行きたいかというと微妙ではあるけど、何らかの気が満ちているところには違いないので、興味を持たれた方は心して訪れてみてください。




作成日 2018.4.24(最終更新日 2020.7.27)


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