宇麻志麻治と物部氏のこと ![]() | |
| 読み方 | ひがし-はちりゅう-しゃ |
| 所在地 | 名古屋市北区楠味鋺5丁目 地図 |
| 創建年 | 不明 |
| 旧社格・等級等 | 不明 |
| 祭神 | 宇麻志麻治命(ウマシマジ) 高龗神(タカオカミ) |
| アクセス | 名鉄小牧線「味鋺駅」から徒歩約20分 |
| 駐車場 | なし |
| 祭礼・その他 | 不明 |
| 神紋 | |
| オススメ度 | * |
| ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 西があれば東もある味鋺の八龍社 | |
880メートルほど西に西八龍社(地図)があり、それに対して東八龍社と呼ばれている。
この二社はセットのようでもあり、そうでもないようでもある。西八龍社は平安中期の承平年間(931-938年)に創建されたともされる古い神社なのに対して、東八龍社はそれほど古くないと思われる。
『尾張志』(1840年)にある八龍社はおそらく西八龍社のことで、東八龍社は載っていない。神社本庁にも所属していないので『愛知縣神社名鑑』にもない。
現在は近くの味鋺神社(地図)の境外末社ということになっている。
祭神は宇麻志麻治命(ウマシマジ)と高龗神(タカオカミ)。高龗神は西八龍社と共通で、どちらも日乞いの神社という話が伝わっている。通常、龗神は水の神であり、龍神でもあるので、日乞いではないのだけど、その点で少し珍しい。
宇麻志麻治命は味鋺神社の祭神でもある。
どちらが先でどちらが後付けなのかは判断がつかない。西八龍社が先にあって、その分社として東八龍社を建てたなら当初は高龗神だっただろうし、もともと味鋺神社に属していたのなら最初から宇麻志麻治命を祀ったとも考えられる。
味鋺(あじま)・味美(あじよし)の一帯は物部氏が拠点を置いた土地と考えられており、味鋺神社の社伝では属する一族のものをあわせて180基もの古墳があったとしている。
味鋺神社の祭神は物部の祖とされる宇麻志麻治命とその子・味饒田命(マジニギタ)とする。
味饒田は阿刀氏(あとうじ)の祖とされ、空海の母方は阿刀氏なので、空海は物部系ということになる。
味美に現存する前方後円墳の味美二子山古墳(96メートル)は5世紀末から6世紀初頭にかけて築造されたもので、宇麻志麻治が被葬者という言い伝えがある。ただ、年代的にはまったく合わないので、味饒田でもなく、その子孫の首長だろう。
熱田の断夫山古墳との共通点が多いことから、熱田の尾張氏と味鋺・味美の物部氏は何らかの形で融合したか統合した可能性がある。
味鋺・味美地区にいつ頃物部の一族が移り住んだか、という点が問題となる。
宇麻志麻治は饒速日(ニギハヤヒ)の子とされる。
『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とし、尾張氏の祖・天火明(アメノホアカリ)と同一とする。
『古事記』では神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコ/神武天皇)が東征して大和に入ろうとしたところ、すでに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が大和豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の登美夜須毘売(トミヤスビメ)と結婚して宇摩志麻遅命(ウマシマジ)をもうけ、大和を支配していたと書く。
神倭伊波礼毘古命は長髄彦の抵抗に遭い、大和に入れず、邇藝速日命が長髄彦を殺して神倭伊波礼毘古命を助けたという。
『日本書紀』は天照大神(アマテラス)から十種の神宝を授かって天磐船に乗り、河内国(大阪府交野市)に天降って、その後大和に移ったとする。それは瓊瓊杵尊が降臨する前のことだ。
饒速日命が何者で、どこから大和に移ったのかというのが謎なのだけど、神話によれば物部の祖神ということになるから、物部氏が祀る神であっても不自然ではない。しかし、饒速日命を主祭神として祀る神社は意外に少なく、名古屋や近郊にはおそらくないと思う。物部関係の神社で祀られるのはたいていが宇麻志麻治命だ。
島根県大田市の物部神社(公式サイト)の社伝によると、宇麻志麻治命は神武東征に異母弟の天之香山命(アマノカグヤマ)と共に従い、尾張、美濃、越国を平定し、天之香山命を彌彦神社(公式サイト/新潟県西蒲原郡)に残して、自らは播磨、丹波を経て石見国(島根県西部)に移り、そこで没して物部神社に祀られたという。
名古屋の千種あたりはかつて物部郷と呼ばれており(930年『和名類聚抄』にもある)、車道の物部神社には神武天皇が尾張を平定したときに大石を要石として祀ったのが始まりという話が伝わっている。
物部というと、蘇我馬子と仏教導入で争って敗れた物部守屋がよく知られている。丁未の乱(ていびのらん)と呼ばれる戦で、蘇我馬子や厩戸皇子(少年時代の聖徳太子)などの連合軍に敗れて滅ぼされた。587年のことで、このときの物部守屋の本拠地は河内国(大阪府八尾市)だった。
これで物部は滅んだと思っている人も多いかもしれないけどそんなことはなく、たとえば物部(石上)麻呂などは壬申の乱(672年)で大友皇子の側について戦いながら大海人皇子(天武天皇)に登用されて左大臣、太政大臣まで上り詰めている。
ただし、710年の平城京遷都の際に旧都である藤原京の留守役に命じられて、その後、物部氏は表舞台から遠ざかることになる。『古事記』ができるのはその2年後の712年で、『日本書紀』の完成は720年だ。その頃には世の中は藤原一族のものになっていた。
物部というと石上神宮(公式サイト)のイメージも強い。
神倭伊波礼毘古が大和入りで長髄彦に苦戦しているとき、天照大神の命で武甕槌(タケミカヅチ)が下した布都御魂剣(ふつのみたま)を祀る神社だ。
ウマシマジが宮中で祀っていたものを崇神天皇が物部氏の伊香色雄命(イカシコオ)に命じて奈良県天理市に祀らせたのが始まりとしている。
初代神武天皇と第10代崇神天皇は同一で、ヤマト王朝を築いたのは崇神天皇とする説がある。3世紀末から4世紀初めあたりということになるだろうか。卑弥呼が邪馬台国を治めたのは3世紀前半から中頃とされる。
神武=崇神天皇が大和入りしたのが4世紀前半とするなら、ニギハヤヒはその時代の人物で、ウマシマジはもう少し後ということになる。
宇麻志麻治が没したのは石見国かもしれないけど、宇麻志麻治の古墳とされるものは味美二子山古墳などいくつもあってはっきりしない。
神武(崇神)に従って尾張国に宇麻志麻治がやって来て、その一族の一部がここに住みついて子孫が繁栄したということもなくはない。味鋺・味美地区の物部の痕跡は色濃く、尾張氏が尾張国を統一したにもかかわらず物部色は打ち消せなかった。
あるいは、実際のところ尾張氏と物部氏は同族なのかもしれない。だとすれば、非常に古い時代から尾張氏の一部が味鋺あたりに定着して、後に物部を名乗るようになっただろうか。
味美二子山古墳と断夫山古墳がつながっているのも、同族であれば説明はつく。それぞれの被葬者は近しい関係だったかもしれない。
味鋺神社の創建がいつだったのかは分からない。927年の『延喜式』神名帳に載っているとはいえ、5、6世紀から10世紀までは間がありすぎて推測するのも難しい。
ただ、創祀ということでいえば、5世紀にはたくさんの古墳を築く集団がこの地に暮らしていたのだから、遅くともその頃から始まっていたと考えられそうだ。
東西の八龍神社と物部一族が関係あるかないかはなんともいえない。
東八龍神社からは話が大きく脱線してしまったけど、物部と宇麻志麻治については今後もどこかで書いていきたいと思っている。
東八龍社は味鋺神社の御旅所としての役割もあり、味鋺神社の例祭のときに神輿渡御が行われていた。現在も行われているのだろうか。
作成日 2018.7.24(最終更新日 2025.10.12)

