首塚社

首塚にまつわる噂話のあれこれ

首塚社

読み方 くびづか-しゃ
所在地 名古屋市北区大杉1丁目14 地図
創建年 不明
社格等 不明
祭神 不明
 アクセス 名鉄瀬戸線「清水駅」から徒歩約7分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 首塚社というなにやら恐ろしげな名前のお社だ。首塚を祀ったものということは想像がつくのだけど、誰が誰の首塚を祀ったのかは諸説あってはっきりしない。ほとんど噂話に尾ひれがついたようなもので、どれも本当のような本当ではないようなだ。

 たとえば高力猿猴庵(こうりきえんこうあん/1756-1831年)は『尾張名陽図会』の中で山伏塚としてこの首塚のことを紹介している。
 むかしこのあたりが山野だった頃からの言い伝えで、今(江戸時代)は長久寺筋と呼ばれる武家屋敷の塀が続く道の途切れたところにある屋敷の庭に大きな松があった。主がその木の根元を掘ってみたところ、螺貝(つぶがい)と錫杖(しゃくじょう)の頭が出てきて、これが言い伝えにある山伏塚に違いないと思い、もう一度埋め戻したという。錫杖というのは棒の先にシャリシャリ鳴る金属がついたもので、山伏などが歩くときに持つやつといえば思い浮かぶだろうか。
 この話では首塚の首は人間の首ではなく錫杖の頭ということになる。
 高力猿猴庵は馬廻役300石の尾張藩士で、浮世絵師でもあり、記録魔でもあった。名古屋城下のあちこちに出向いていっては寺社や名所について書き記し、絵を描いた。その集大成が『尾張名陽図会』で、尾張藩の公式な地誌である『尾張名所図会』に対して『尾張名陽図会』は高力猿猴庵の私的な地誌という位置づけのものといえる。
 同じく尾張藩士の記録魔といえば御畳奉行で『鸚鵡篭中記(おうむろうちゅうき)』を書いた朝日文左衛門重章がよく知られている。

 少し後の時代の尾張藩士で俳人の朝岡宇朝(あさおかうちょう/1794-1840年)は『袂草(たもとぐさ)』の中で山伏塚は竹腰山城守の屋敷の中にあるといっている。
 命を狙われている山伏を竹腰邸でかくまっていたのだけど、大晦日の夜に出かけたところ、帰ってきたら山伏の姿はなく、翌元日に起きてきたら竈(かまど)の上に刎(は)ねられた山伏の首が乗っていたので、庭にその首を葬ったのが山伏塚という。
 竹腰山城守といえば尾張藩附け家老の家で、命を狙われた山伏などをかくまうだろうかという疑問も抱くのだけど、竹腰家の中屋敷がこのあたりにあったことは確かで、まったくない話とも決めつけられない。

 江戸時代のこういった話とは違って、境内の説明書きにはまた違った話が紹介されている。
 それによると首を刎ねられたのは山伏ではなく虚無僧だったとする。
 竹腰家に托鉢に来た虚無僧に対して対応に出た門番が「行け」といったのを出ていけではなく家の中に行けと言われたのと思い込んで入っていったところ、怒った門番が斬りつけて首が飛んで竈の上に落ちた。その話を聞いた竹腰の人間が気の毒に思って庭に首を埋めたのだとか。

 それ以外にも、竹腰邸に滞在していた水戸藩の隠密が殺されて葬った塚という話なども伝わっている。
 どれも突拍子もない話に思えるのだけど、このあたりの大杉や尼ヶ坂はある種異界めいた場所で、何があっても不思議ではないような気もする。
 近くの片山神社には天狗が腰掛けていたという大杉の伝説があったり、尼ヶ坂では見えてはいけないものがたびたび目撃されたり、江戸時代は辻斬りが多いところで、尼ヶ坂公園の西にある延命閣地蔵院は、辻斬りの犠牲者を弔うために久国寺の僧が建てたものだとされている。
 そういった空気感がこれらの噂話を生み出す土壌になった可能性は考えられる。ただの噂話ではなく現に首塚社として今も祀られているくらいだから、何かそれにまつわる事実があったに違いない。

 見た目からしてちょっとただ事ではない雰囲気を出している。プレハブの覆い屋に囲われているということはあるにしても、よく晴れた夏の真っ昼間だというのに中は暗かった。そして空気が重い。
 末廣大神・白龍大神、塩釜大神、首塚霊神、大国主大神、大日大聖不動明王と書かれた提灯があり、首塚霊神を中心に、松本露仙霊神、大国主大神、大日大聖不動王、白龍大神、末広大神、塩釜大神が祀られている。
 霊神とあることからすると、御嶽教が関わっているかもしれない。
 末廣大神は伏見稲荷大社(web)にある神社のひとつだろうか。
 塩釜大神は鹽竈神社のシオツチノオジなのか違うのか。
 現在はどういう理由からか、眼病に効くとされているのだとか。

 今昔マップで確認してみると、明治中頃(1888-1898年)までこのあたりはまだ田んぼだったことが分かる。
 現在神社がある場所には樹林か何かのマークが描かれている。神社という規模ではないにしても祠はすでにあったのではないかと思う。
 地形的にいうとここは名古屋台地(熱田台地)の北の縁で、遠い昔はすぐ北が海だった。
 今も残る船附という地名は、文字通りここに船着き場があったことから来ているとされ、海だった時代からの名残なのか、あるいはこのあたりを古くは矢田川が流れていたという話もある。片山神社に船つぎの松と呼ばれる松が二本あることからしても、船をつないでいた場所があった可能性は高く、それはそれほど大昔のことではない。
 1920年(大正9年)時点でもまだ田んぼが残っている。
 1932年(昭和7年)になると、ついに田んぼがなくなった。東に金城学院中学ができている。
 1947年の地図に空き地が多くできているのは空襲で焼けたからだ。
 1968には南北の道ができて、隙間がないくらい家も建った。

 時代が移り変わって田んぼもなくなり、すっかり街中の住宅地となった今も首塚社などというものがあるというのはちょっとしたものだ。不吉に感じるということはそれが抑止力になっているということで、畏れるという気持ちをなくすと人間ろくなことにならない。
 このあたりで辻斬りが横行したというのはまだほんの200年くらい前の話だ。
 首塚にまつわるあれこれの噂話も決して無意味なものではない。それは土地の歴史であり、語り継いでいく価値があるものだ。
 神社があれば歴史はつながりやすいし、なくなってしまえばいつしかそんな話があったことも忘れ去られてしまうだろう。
 前にも何度か書いたけど、神社には記憶装置としての役割もある。規模だとか格式だけが大事なのではない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

大杉の首塚社は誰の首を祀っているのか

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