八幡社と春日社の合殿(あいどの)で、それがそのまま社名になっている。 いつから八幡社と春日社が合殿(相殿)になったのかは分からない。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の上中村の項を見ると、「社三ヶ所 八幡弐社 天神 長円寺持分 社内壱反六畝歩 前々除」となっている。 八幡のうちの一社がここで、もう一社は中村公園の中にある八幡社を指しているのだろうか。天神は油江天神社のことだ。 ここでは春日社は出てこない。 『尾張志』(1844年)はこう書いている。 「八幡ノ社 春日神相殿 上中村にあり当社を村の氏神とす弘治元年乙卯太閤秀吉公造営し給り公はこの村人にて当時ことさらに崇敬深かりしとそ加藤肥後守清正主も又この郷生れの人なりしかは天正十八年庚寅十二月朔日本願の大檀那にて造営ありつづきて慶長三年戊戌清正主の母堂拝殿を建らる寛文二年壬寅二月山下市正氏政修造せらる境内の末社に神明ノ社秋葉ノ社あり」 江戸時代後期にはすでに八幡社と春日社は相殿だったことが分かる。 『尾張徇行記』(1822年)はこうなっている。 「八幡二社天神社界内 前々除 長円寺是ヲ掌ル」 更に【府志曰】として、八幡祠在上中村、秀吉造営、清正修繕、清正の母拝殿などと書いている。内容は『尾張志』とほとんど同じだ。 この府志というのは1752年に尾張藩が最初に編さんした地誌の『張州府志』のことで、『尾張志』はそれの改訂版のようなものだ。 八幡社と春日社が相殿になっていることを書いているのは『尾張志』のみということは、春日社を一緒に祀るようになったのは江戸時代後期ということだろうか。 春日社は上中村の外から移したのか、あらたに勧請して合祀したのか、そのあたりは分からない。合祀ではなく相殿としたのは何か意味があったのだろうか。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「社伝に加藤清正朝鮮へ出征に際し、武運祈願のため天正十八庚寅(1590)12月、頼賢坊宥伝法師をして勧請し、村民をして的射神事を奨めた。祭費に村民の負担するみて、その者たちの諸役を免じた。慶長三戊戌年(1598)清正の母堂社殿を修理し、承応二癸巳年(1653)5月、当村領掌の地主山下市政藤原紀政社頭を改修、鳥居を建つ。寛文二壬寅年(1662)2月、山下市正藤原氏政社殿を造営。その後は社僧氏子力を合わせて修理を加えた。明治5年、村社に列格する」 『尾張志』は「弘治元年(1555年)乙卯太閤秀吉公造営」としているの対して、『愛知縣神社名鑑』は1590年に加藤清正が勧請して創建したとする。 しかし、この二つの説はどちらも事実とは思えない。
まず1555年という年を考えたとき、秀吉はまだ18歳で、前年の1554年に信長に小姓として仕えたばかりだ。そんな藤吉郎に八幡社を建てるような財力も資格もあったとは思えない。 1590年に清正が建てたというのも可能性は低いのではないか。 1590年は北条氏討伐のための小田原攻めをした年で、清正も参戦している。 その2年前の1588年に清正は肥後の領主となって熊本城に移り住んでいる。 大事な出征の途中で生まれ故郷に立ち寄って神社を建てるなんてことがあるだろうか。 そもそもでいうと、清正は確かに中村の生まれとされてはいるものの、3歳のときに父親を亡くして母と津島に移り住んでいる。物心つくかつかないかのときまでしか暮らしていなかった中村に八幡社を建てる必然がない。 ただ、小田原攻めを終えた秀吉に、故郷の中村に立ち寄ることを清正はすすめたとされ、秀吉ともども中村で一泊している。 もしかするとこのとき、八幡社の創建や修造云々という話が出たかもしれない。 実際、秀吉は清正と小早川隆景に常泉寺の建立を命じたとされる。ついでに八幡社も修造したというのはあり得ない話ではない。 頼賢坊宥伝法師をして勧請したとか、村民に的射神事を奨めて祭費を負担した人の諸役を免じたとか、清正の母が拝殿を建てたなど、具体的な話が伝わっているところをみると、清正がこの八幡社に何らかの形で関わった可能性はありそうだ。 『愛知縣神社名鑑』の「承応二癸巳年(1653)5月、当村領掌の地主山下市政藤原紀政社頭を改修、鳥居を建つ」、「寛文二壬寅年(1662)2月、山下市正藤原氏政社殿を造営。その後は社僧氏子力を合わせて修理を加えた」や、『尾張徇行記』の「長円寺是ヲ掌ル」ということからして、寺院色の強いところで、村人も一緒になって守っていたことが伺える。 拝殿を建てたのが清正の母親で、神社周りを整備したり鳥居を建てたのが地主の山下市正や藤原氏政ということであれば、秀吉または清正は本社の祠を建てただけということかもしれない。だとしたら、八幡社の創建はふたりのうちのどちらかということもあり得るか。小さな祠を作るくらいなら時間もお金もそんなにかからない。 長圓寺(長円寺)はやや広い道路を挟んだ向かいにあり、現在は完全に別々になっている。かつては一体化していたのだろう。八幡社が寺の境内にある守護社だったと想像すれば腑に落ちる。 春日社と相殿になった経緯が伝わっていないのはちょっと気になるところだ。
境内社に、金比羅神社、御嶽神社、秋葉神社、津島神社、天照皇大神宮がある。 秋葉社には円空作と伝わる神像があるそうだ。 3月の第2日曜日にはおまとう祭(的射神事)が現在も行われている。 その他、10月10日には献湯の儀という特殊神事もあるそうだ。 創建のいきさつがどうであれ、地元民とともにある神社であることは昔も今も変わっていないようだ。
作成日 2017.11.11(最終更新日 2019.5.7)
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