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榊森白山社


金山が森だらけだった頃からある白山社



榊森白山社

読み方さかきもり-はくさん-しゃ
所在地名古屋市中区金山1丁目23 地図
創建年886年(平安時代前中期/717年とも)
旧社格・等級等指定村社・十三等級
祭神菊理媛神(くくりひめのかみ/白山比咩命)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
大己貴神(おおなむちのかみ)
アクセス名鉄/JR/地下鉄「金山駅」から徒歩約6分
駐車場 なし
その他例祭 10月5日
オススメ度

 金山総合駅(地図)の少し北にある白山社。創建は平安時代、創祀は奈良時代まで遡るという。
 金山はかつて古渡と呼ばれ、熱田台地の中央やや南寄りに位置する。ここも長い歴史を持つ古い土地だ。
 金山駅南には縄文時代以降の複合遺跡東古渡町遺跡や尾張最古ともいわれる尾張元興寺(願興寺)があり、北には縄文時代の古沢町遺跡、弥生時代の伊勢山中学校遺跡正木町遺跡が知られている。
 古渡には古東海道の新溝駅があったとも考えられており、古代における重要な拠点のひとつだったことは間違いない。



 白山社の創建について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「榊ノ森白山比咩神社・洲原神社・松尾神社とも称した。仁和二年(886)九月三十日加賀国白山比咩神社より吾湯市邑の住人福岡国猶が勧請し創建すと伝う」
 吾湯市邑(あゆちむら)というのは熱田にあった村で、その住人である福岡国猶という人物が加賀国一宮の白山比咩神社(web)から勧請してこの場所に白山社を建てたということらしい。
 この福岡国猶というのがどういう人物なのかは伝わっておらず、詳しいことは分からない。平安時代に一般人が神社を創建できたのかどうか。神職だったとも考えられるけど、そうではなかったのか。
『尾張志』(1844年)には「神主 福岡氏」と書かれているから、代々福岡家がこの神社を守っていたということのようだ。
 神社由緒によれば、創祀を養老元年(717年)としているのだけど、だとすれば福岡氏が創建する前から祀りは始まっていたということだろうか。717年は奈良時代初期に当たる。



『寛文村々覚書』の古渡村の神社はこうなっている。
「社三ヶ所 社内九反弐拾九歩 前々除
 八幡宮 熱田祢宜 勝太夫持分
 権現 当村祢宜 惣太夫持分
 明神 勢州御師 山田福太夫持分」
 このうちの権現が白山社のことだ。惣太夫が福岡氏のことだろう。
 八幡は闇之森八幡社のことで、明神は伊勢山の神明社のことだ。



『尾張志』は榊ノ森ノ社としてこう書いている。
「古渡むら町家の東側にあり中央正殿は祭神菊理媛神左右二座は伊弉諾尊大己貴命を祭るよしいへり當社は光孝天皇仁和三年丁未九月當所吾湯市村ノ住人福岡某はしめて加賀國石川郡白山比賣神社を移してここに創建したるよしいへりもとは此地に榊木いとおほかりしより賢木の杜といひならはせりとそいにしへ熱田諸祭の日毎に此森の榊をとり用いけるよしもいひ傳へたり故に熱田社参の人まづ此森にて解除(ハラヒ)したるよしもいへり今は此處より榊を熱田神宮に取用ゆる事なし 摂社 松尾社 天王社 神主 福岡氏」
 細かいことだけど、『愛知縣神社名鑑』は創建を仁和二年(886年)としているのに対して、『尾張志』は仁和三年(887年)としている(『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)も創建は仁和3年としている)。
 いずれにしても平安時代中期に吾湯市村の住人の福岡氏が加賀の白山比咩神社から勧請して古渡に祀ったのが始まりという話が伝わっているということだ。
 榊森の由来については、このあたりに榊の木が多かったからで、かつては熱田社(熱田神宮/web)の祭礼のときはここの榊を取って使っていたようだ。ただ、江戸時代になると榊も少なくなってその習慣はなくなっていたという。
「熱田社参の人まづ此森にて解除(ハラヒ)したるよし」というのは、熱田社に参拝する人はまずこの榊ノ森社で祓いをしていたということだ。
『張州府志』(1752年)によると、北から向かう人は榊ノ森で祓い、東からの場合は鈴之御前社で、南からの人は千竈神社上社で、西からの人は千竈神社下社で祓うという風習があったようだ。
 千竈上社は源太夫社、千竈下社は紀太夫社というそれぞれ独立した神社で、今は上知我麻神社下知我麻神社として熱田神宮に取り込まれる格好になっている。



 少し気になるのは祭神の組み合わせだ。
 白山の神として菊理媛神(ククリヒメ)=白山比咩命(シラヤマヒメ)はいいとして、イザナギ(伊邪那岐命)とオオナムチ(大己貴神)もあわせて祀られているのはどういうことなのか。
『張州府志』には「福岡某依霊告祀三座神」とあり、福岡氏が霊のお告げで三柱の神を祀ったということらしい。
 本家の白山比咩神社は、シラヤマヒメとイザナギ・イザナミを祀っていてオオナムチは入っていない。
 オオナムチは大国主(オオクニヌシ)のこととされる。オオクニヌシというと仏教系の白山社である霊応山平泉寺が関係しているだろうか。
 平泉寺は明治の神仏分離令で平泉寺白山神社(web)となり、本殿でイザナミを、別山社に天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)を、越南知社(おおなむちしゃ)にオオナムチ(大己貴尊)を祀っている。
 榊森白山でイザナミが入らず、オオナムチが入っている理由はよく分からない。



『愛知県神社名鑑』が「洲原神社・松尾神社とも称した」と書いているように、境内社の洲原社、松尾社も本社と同等かそれ以上に信仰されていたようだ。
 洲原神社(web)は岐阜県武儀郡(美濃市須原)にある神社で、白山信仰と関係が深い。
 仏教系の白山信仰の拠点のひとつで最澄が開いたとされる長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)の前宮とされ、中央にイザナギ、東西にイザナミとオオナムチを祀っている。どこかの時点で洲原社を合祀して、本社でオオナムチを祀ることになったのかもしれない。
 摂社の松尾神社について『愛知県神社名鑑』は、「松尾神社というは伝馬町の酒造家福沢屋邸内にありしを白山の境内に移り祀る酒造家の崇敬あつく勢いは本社を凌ぐ有様なりと」と書いている。
 松尾神社の総本社は京都の嵐山にある松尾大社(web)で、祭神の大山咋神(オオヤマクイ)は酒造りの神としても信仰が篤い。




『尾張名所図会』(1844年)にはこんなことが書かれている。
「此外古渡に鶯の森(うぐいすのもり)、盗人の森(ぬすびとのもり)、直會の森(なおらいのもり)などありしよしなれど、今は其所しれがたし」
 江戸時代以前のはこのあたりは森だらけだったようだ。白山がある榊ノ森の北、霊山寺があるあたりが直會の森で、盗人の森はもう少し南にあった。
 名古屋城下が発展するにつれて、本町通沿いは町屋となっていったので、かつての森の風景も失われていったのだろう。
 藤原景清が直會の森に屋敷を構えて隠れ住んでいたという伝承も残っている。
 ちなみに霊山寺は京都上行寺の末寺で、正保2年(1645年)に上行寺の日秀か弟子の日成が建立したもので、寛文8年(1668年)に現在地に移されたと『尾張志』は書いている。なので白山社とは直接関係がない。




 もともとは別の場所にあって、第二次大戦の空襲で焼けて、御旅所だった現在地に移されたという話がある。
 しかし、今昔マップの1937-1938年(昭和12-13年)の地図にはすでに現在地に鳥居マークが描かれているので違うのではないか。
 ただ、明治から大正、昭和初期にかけての今昔マップに鳥居マークがないところを見ると、元地は別で移された可能性は考えられる。



 境内社のひとつに華能宮(かのうぐう)という社がある。説明書きにはこうある。
「世界唯一の縁結びの神様です。前世敵の因縁であった人でもお願いして結ばれし方は、普通の夫婦より倍の幸福が得られます。縁遠い人、意中の方がまだ現れない人、幸福な家庭を求められる方はお祈願下さい。必ず幸せが開けます」
 どんな神を祀るどんな社なのかは分からないけど、とにかく自信満々だということは伝わってくる。これだけ言い切ってもらった方が気持ちがいい。効果があるかどうかは参った私が身をもって確かめたいと思う。




作成日 2017.8.8(最終更新日 2019.9.16)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

金山にもう森はないけど榊森白山社

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