御幸山の中腹あたりにある御嶽神社。 このあたりの地形は、山、谷、山、谷、みたいなすごいことになっている。かつては音聞山と呼ばれ、遠く鳴海潟の海を見渡せる絶景ポイントだった。今は静かな住宅地になっている。 近くに塩竈社や八事神社もあり、八事村の神社をこの山に集めたといった様相を呈している。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いてる。 「創建は明かではない。明治6年太政官布達により、廃祭となる。崇敬者の熱望により明治12年5月共祭公許となる。明治31年11月今の社地に遷座した」 明治6年(1873年)に廃社となっているということは江戸時代にはすでにあったということだ。 いったんは廃社になったものの、関係者の希望で明治12年に復活したということらしい。 共祭公許というのは昭和区汐見町の須佐之男社のところでも出てきたのだけど、どういうことをいうのかよく分からない。 よくあるのが据置公許で、これは廃社にせず据え置くことを公に認めたということで読んで字の如くなので分かりやすい。 共祭を公に認めるという共に祭るは誰と誰が共に祭るということなのか。民と官で一緒に祭るということなのだろうか。 明治31年に今の社地に遷座したというのだけど、どこから移したかは書かれていない。 今昔マップの明治22-32年(1888-1898年)を見ると、現在地に鳥居マークは描かれていない。大正9年(1920年)の地図からは鳥居マークが表示される。 明治31年ではなく明治21年に堀川近くにあったものを現在地に移したという話と、明治33年に中区下前津町から移されたという話があり、どれが本当なのかよく分からない。八事村にあった神社なのか、村の外にあった神社なのかによっても意味はけっこう違ってくる。現状、どの話が事実なのか把握できていない。
祭神として大穴牟遅神(オオナムチ)と少彦毘古那神(スクナヒコナ)を祀るとしている。大穴牟遅は大国主(オオクニヌシ)の別名とされる。 木曽の御嶽神社(web)では、国常立尊(クニノトコタチ)、大己貴命(オオナムチ)、少彦名命(スクナヒコナ)の三柱を祀っている。 名古屋の御嶽神社は祭神がはっきりしないところもあるのだけど、御嶽大神を祀るとしているところが多い。もともと御嶽信仰は修験の色合いが濃いので、神仏習合していた。クニノトコタチやオオナムチ、スクナヒコナとしたのは明治以降の後付けだ。
御嶽神社らしさがあまり感じられない神社だ。社殿はとても新しくきれいな状態だった(2017年現在)。平成9年(1997年)に整備されたというのだけど、もっと新しいように見える。最近建て直したりしただろうか。
この御嶽神社は、いつどこから移ってきたのかはっきりしない。確かな情報源からの情報が得られたら、書き足すか直すかしたい。
作成日 2017.12.20(最終更新日 2019.2.5)
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