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八幡社(児子社)

ひょっとしてここが綿神社なのか

児子八幡社

読み方 はちまん-しゃ(ちご-しゃ)
所在地 名古屋市北区志賀町1丁目65 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十一等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
 アクセス 地下鉄名城線「黒川駅」から徒歩約8分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度 **

 拝殿前の社号標に「児子社」とあり、南鳥居の前の社号票が「八幡社」となっているので戸惑う。ここは児子社なのか八幡社なのか。
 神社本庁への登録社名は八幡社で、祭神は應神天皇となっている。ただ、昔からここは児宮などと呼ばれた神社で、八幡は後からのものなので、本体は児子社という認識でいいと思う。
 鳥居をくぐって参道を進み、蕃塀を越えて拝殿、本殿をしげしげと眺めながら、なんだこのいい神社は、と心の中でつぶやいた。ここはもしかしたらすごく由緒のある重要な神社じゃないだろうかとそのとき思った。

 この神社が綿神社と関わりのある社だったことは間違いなさそうだ。ただ、遷座の経緯がはっきりしない。いろんな人がそれぞれのことを言っていて混乱する。
 まず『愛知縣神社名鑑』から見ていく。
「創建は明かではないが、境内社の天神社は宝永二年(1705)正月社殿修復の事あり本社はもっと古い宮社なり。明治5年、村社に列格し、昭和5年22日(ママ)、指定社となる。昭和25年5月14日、の空襲に社務所は炎上したが神慮により社殿は無事、境内社の児子社は昔から虫封じの神として霊験高く参詣者で社頭は繁盛したという」
 ここから分かるのは、本体は八幡社で、境内社として天神社と児子社があり、天神社の修復が1705年にあったということだ。八幡社の創建や児子社についてはここからは何も分からない。

『名古屋市史 寺社編』(大正4年/1915年)は、「児子社は西春日井郡金城村大字東志賀八幡神社境内の西側にあり、もと児の宮、又は児の御前社と称して、同郡西志賀村綿神社の東辺に在りて、同社の摂社なり」と書き、津田正生の『尾張国地名考』の内容を紹介している。
 これによると、もともと西志賀村の綿神社の東にあって、今は東志賀村の八幡神社の境内の西側に摂社としてあるということだ。
 児子社が八幡社境内に移されたのは明治7年(1874年)で、天御中主尊を祀るとしている。
 しかし、これはいろいろと問題があって正しいとは思えない。というのも、1655年頃に行われた調査を元に1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』の東志賀村の項に「児ノ御前」が載っているからだ。つまり、少なくとも1670年までには東志賀村に児子社があったということを意味しており、1874年(明治7年)に移したという話とは合わない。
『北区の歴史』は江戸時代に西志賀村と東志賀村が分かれたときに東志賀村に児子社が譲られたと書いているけど、これも信じない。

『尾張徇行記』(1822年)の東志賀村の神社について書き出してみる。
「社五ヶ所、八幡山神天神神明児御前社内年貢地 府志曰、八幡祠在東志賀村 摂社熊野祠熱田祠又社外有児御前神明等之祠、此八幡社摂社也 社人森筑後守書上ニ、八幡熊野八剣三社界内一反三畝廿八歩御除地 山神社内一畝十歩、天神社内一畝十歩、神明社内三畝六歩、児御前社内二十歩、倶二御除地」
 江戸時代後期においては児子社は八幡社の境外摂社という位置づけだったようだ。
 社内が年貢地となっているので古くからこの場所にあったのではないことを意味している。ただ、神官の森筑後守の書上では御除地となっていて、どちらが正しいのか分からない。
 ちなみに、西志賀村の項には「社三ヶ所八幡宮四十八ノ宮二社」とあり、この八幡宮が今の綿神社のこととされている。

 問題は『尾張志』(1844年)だ。
「児御前ノ社 西志賀むらにありて児の宮と稱す小児の守護神也安永年中より御崇敬ありて御札守等差上府下の士庶人殊に尊崇す」
 児子社を西志賀村にあると書いている。これは東志賀村の間違いなのか、実際にこのときまで西志賀村にあったのか判断がつかない。
 東志賀村には八幡社(末社に熱田社と熊野社)、天目社、神明社があると書く。
 西志賀村と東志賀村とでは西志賀村の方が古い。西志賀公園は戦国時代に平手政秀の邸があったところなのだけど、昭和5年に西志賀公園を作っている最中に弥生時代の遺跡が発見された。貝塚も見つかっていることから、古くからこの地で人が暮らしていたことが分かる。縄文時代から弥生時代にかけてこのあたりは海辺だった。
 志賀の地名は九州福岡の志賀島からやって来た人たちがこの地に住みついて名づけたという説がある。綿神社は彼らが綿津見神を祀ったのが始まりともされる。
 東志賀村がいつできたのかははっきりしない。戦国時代の史料に西志賀郷と出てくることからすると、遅くとも戦国時代には西志賀村と東志賀村が分かれたと考えられる。東志賀村の中央を南北に通っているのは稲置街道と呼ばれる道で、木曽路の一部でもあることから、この道が発展した時期に西志賀村から街道沿いに移り住んだ人たちがいたということではないだろうか。

『尾張名所図会』(1844年)に絵図が載っている。
 それによると、左上に平手政秀の碑があり、中央に綿八幡、右下に児宮が描かれている。やはり、江戸時代すでにこの位置関係だったと見ていいのではないか。

 津田正生は、『尾張国神社考(尾張神名帳集説本之訂考)』の中で、『延喜式』神名帳の山田郡綿神社は志賀村の和田八幡の児の宮だと主張する。
 綿神社は本来、海童(わだつみ)三神を祀っていたはずで、児の宮は海童の字から来ているのだという。つまり、海の童(わらべ)で児宮ということだろう。
 綿津見三神は、仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)をいう。
「戦国の後、社人(みやもり)も其由縁をわすれて、兒(ちご)の宮を別物と想ひて本社より巽(たつみ)一町に遷(うつ)して、天乃御中主神などいふめるは笑うべし兒(ちご)の宮こそ綿のみやしろなれ」と書く。
 この戦国というのは戦国時代ということで、戦国時代から江戸時代にかけて児宮を移したというのが津田正生説だ。
 津田正生は『尾張国地名考』の中で『尾張国神社考』とは少し違うことを書いている。
 志賀島の志賀海神社(web)では、綿津見三神のそれぞれの相殿に玉依姫命、神功皇后、応神天皇を祀っており、志賀村の綿神社もそれに倣ったはずで、時代が進んで綿津見三神が忘れられ八幡社になったと推測する。
 実はこれは重要な指摘で、綿神社の祭神が玉依姫命、神功皇后、応神天皇となっていて、志賀海神社の相殿神とぴたりと合うのだ。綿神社の祭神の不自然さはこれで説明がつく。
 中世に八幡神が流行ったとき、綿神社は八幡社になったのだろう。そのとき本来の祭神である綿津見三神を別の社に移し、東志賀村に移したことで元の祭神が分からなくなってしまい、とりあえず天御中主を祀るということにしたのではないか。その推測が正しければ、綿神社の本体は児子社だという考えは間違いではないということになる。

『特選神名牒』は、綿神社の項で、兒宮を綿神社とする説に言及しつつ、こう書いている。
「本社寶物に奉納綿神社願主政秀と彫りつけたる鏡一面あり、政秀は平出氏にて享禄(1528年から1531年まで)の頃の人と思ゆ其頃より綿神社と唱ふることなれば、その神社と定めて難なかるべしと云うに従う」
 西志賀村の八幡社に綿神社と彫られた平手政秀が奉納した鏡があって、戦国時代の人がここを綿神社と言ってるのだから間違いないのではないかという理屈だ。
 平手政秀といえば信秀に息子の信長のお守り役を命じられた織田家の武将だ。先ほど書いたように平手政秀の邸は現在の志賀公園がある場所にあった。綿神社の600メートルほど西北だ。
 若い頃の信長はうつけと呼ばれる手の付けられない暴れん坊で、政秀の言うことなどまったく聞かず好き放題にしていた。ほとほと困り果てた政秀は綿神社に鏡や手彫りの狛犬を奉納して信長が改心することを願ったのではないだろうか。
 このとき児宮がどういう状況になっていたのかは分からない。すでに本社の八幡と分かれた社になっていた可能性は高い。ただ、まだ東志賀村には移されていなかったのではないか。だとすれば、政秀が願掛けをしたのは八幡ではなく児宮の方ではなかったのか。児宮がいつ頃から子供の守り神とされるようになったのかは不明ながら、言うことを聞かない子供のような信長をいさめるなら八幡神よりも児宮神の方が合っているように思うけどどうだろう。
 その後、児宮は東志賀村に移され、政秀が奉納した鏡や狛犬は八幡社に残されたということが考えられる。

 尾張徳川家は児宮を特に大事にして、藩主がたびたび参詣した他、幾度も修繕費を出し、代々の藩主は幼少時に虫封じのお守りを授かったと伝わる。
 戦前までは参拝者も多く、赤丸神事には一日に二万人が訪れたこともあったという。
 すぐ東を走っている稚児宮通の名前は、この神社から来ている。
 戦後は廃れてしまい、今この神社を訪れる人は少ない。

 以上をまとめると、綿神社はもともと綿津見三神と相殿神として玉依姫命、神功皇后、応神天皇を祀っていたのが、中世に八幡社が流行ったときに八幡社となり、本来の綿津見三神は児宮に移され、児宮が東志賀村に移されたことでもともとの祭神が分からなくなってしまった、という経緯ではなかっただろうか。
 だとすれば、現・綿神社は旧・綿神社の本体で、児子社は旧・綿神社の分社ということになる。そういうとらえ方をすれば双方丸く収まると思うけどどうだろう。
 まったく的外れの推測かもしれないけど、児子社が発していたメッセージを受け取って私なりに考えてみた。
 津田正生の言い回しを借りるならば、「後の好士なほ考え訂為(ただす)べし」ということになるだろうか。

 

作成日 2017.3.16(最終更新日 2019.1.4)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

児子社が綿神社という可能性はなくもない
八幡社というよりも児子社

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