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上野天満宮


安倍晴明一族の伝説も伝わる天神社



上野天満宮鳥居と拝殿

読み方うえの-てんまん-ぐう
所在地名古屋市千種区赤坂町4丁目89 地図
創建年不明
旧社格・等級等指定村社・四級社
祭神菅相丞(かんしょうじょう)
木花開耶比賣命(このはなさくやひめのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
アクセス地下鉄名城線「茶屋ヶ坂駅」から徒歩約15分
市バス/名鉄バス「谷口停留所」から徒歩約8分
駐車場 あり
webサイト公式サイト
電話番号052-711-6610
その他例祭 10月第4日曜日 授与所 各種祈祷 結婚式
オススメ度**

 分かりやすい神社のようで実はよく分からない神社だ。
 江戸時代の上野村(鍋屋上野村)にあった天神には違いないのだけど、いつ誰が創建したのかは分からない。
 社伝では平安時代中期に安倍晴明が政変に巻き込まれて尾張の地に一族とともに流され、この地で菅原道真を祀ったのが始まりとしている。
 にわかには信じがたい話で、いったん保留する。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが長養寺蔵書の”分限帳之覚”に当時十世目教覚代寛政十二庚申年(1800)に社殿再建仕候とあり、これ以前の鎮座なり。明治5年10月、村社に列格する。明治40年10月26日、供進社に指定される。同年9月、社殿を近代的構造に改築し、境内の大改修を行う。昭和36年12月26日、天満宮社を上野天満宮に改称した」



 1800年再建云々以前に、『寛文村々覚書』(1670年頃)にある天神が上野天満宮のことで間違いなければ、前々除になっているので1608年の備前検地以前の創建ということになる。
『寛文村々覚書』の上野村の神社は以下のようになっている。
「社 七ヶ所 内 天神 浅間 八幡 天王 愛宕 山神 一王御前 社内弐町壱反七畝弐拾歩 前々除」
 天神は上野天満宮のことでいいと思う。
 浅間と一王御前の元地は分からないのだけど、一時、上野天満宮別宮がある場所に移されていたようで、社号標のみが残っていた。現在は元の敷地の大部分がコンビニになってしまい、別宮の小さな社のみが残されている。
 本社の祭神に木花開耶比賣命と伊弉冉尊が入っているから、本社に合祀されたかもしれない。
 八幡の行方が掴めない。
 天王は八坂社と称して永弘院の隣にあったのだけど、近年、上野天満宮に合祀されて廃社になった。
 愛宕は北千種に愛宕神社として現存している。
 山神は昭和15年に南区の道徳に移されて山神社(道徳)となった。



『尾張徇行記』(1822年)の鍋屋上野村の項はこうなっている。
「地蔵堂牛頭天王祠弁才天、是ハ永弘院ノ界内ニアリ」
「庚申堂界内四畝、一ノ御前祠界内三反、愛宕祠界内四反八畝八歩、八王子祠界内五畝、山神祠界内一畝十八歩前々除」
 牛頭天王というのが天王社で、のちの八坂社のことだ。江戸時代は永弘院の境内にあったようだ。弁天は現在の永弘院の池のほとりにある小さな社のことだろうか。
 八王子祠は昭和18年に中区新栄に移され、今は八王子社と称している。



『尾張志』(1844年)にはこうある。
「浅間社 天王社 一御前社 八王子社 愛宕社 天神ノ社 鍋屋上野むらにあり」



 天神イコール菅原道真という認識が一般化したのは戦国、江戸時代以降のことで、古い天神は必ずしも道真を祭神としていたわけではない。文字通り、天の神、天上界の神を祀るという意識だった社が少なくない。農耕の神や村の守り神として祀られていた。
 上野村がいつ頃成立したのかは分からないのだけど、神社がすべて前々除となっていることからしても戦国以前には違いない。室町か、もっとさかのぼるかもしれない。
 上野村の天神をいつ誰が祀ったかは史料からは知る術がない。上野村の氏神が何だったのかもはっきりしない。
 上野村の集落は山口街道(今の出来町通)よりも北にあって、狩津村といっていた。その後、南の平山の方に移って台地の上という意味で上野村というようになった。
 鍋屋上野村と呼ぶのは鋳物師の初代水野太郎左衛門が上野村に住んでいたためだ。
 二代目太郎左衛門は1593年に清須に移り、1611年に三代目太郎左衛門が清須越しで名古屋城下に移り住んだ。そこは後に鍋屋町(泉2丁目)と呼ばれるようになる。
 上野村が鍋屋上野村となったのは寛永年間(1624-1644)とされる。
 上野村の中心部は、戦国時代に上野城があった場所に当たる。現在の上野小学校(地図)があるあたりが城跡と伝わっている。
 永弘院を建立したのは上野城主だった下方貞清で、1538年というのだけど、貞清は1527年生まれとされるので、年代的にちょっと無理がある。父・貞経の病死で跡を継いだのが1541年とされるので、寺を建てたとしたらその後か、もしくは創建は父の貞経かもしれない。
 永弘院には勝軍地蔵が祀られていたというから、それが城の守り神だったのだろう。
 天神社は城の東に位置している。下方親子が天神社と関わったという記録や言い伝えは残っていない。



 上野村(狩津村)に安倍晴明が流されたという記録はない。しかし、晴明神社があり、清明山という地名が残ることからすると、安倍晴明本人ではなくてもその関係者がこの地に住んでいて安倍晴明伝説につながったということは考えられる。
 平安末に藤原師長が尾張国井戸田に流されてきた例もあることからすると、安倍晴明が実際に流された可能性はゼロではない。
 晴明が花山天皇退位に絡む政変に巻き込まれたのは事実で、京を追われたことは考えられる。その後の政権交代で許されて2、3年で京に戻ったという。
 事件が起きたのは986年で、安倍晴明の没年が1005年(921年生まれ)なので、晩年に当たる。
 晴明はマムシで困っている村人たちを助けたなどという伝承も残っている。
 同じように九州太宰府に流された菅原道真に自分を重ね合わせて道真を祀る社を建てたというのは、話としては面白い。
 そうだったとも、そうではなかったとも決めつけられない。



 上野天満宮は、山田天満宮桜天神社とあわせて名古屋三天神とされており、受験シーズンには大勢の参拝者が訪れる。
 3つの名古屋天神を回って御朱印を集めるといいことがあるなんてこともいわれる。
 とても明るくて影のない神社だ。商売上手で宣伝もよくしてるし、メディアの登場も多い。知名度があるので初詣客も大勢訪れる。
 2017年にはあらたに晴明殿なる結婚式場も建ててますますやる気を見せている。
 すべての神社がこんなふうだとちょっとどうだろうと思うけど、こんな神社がひとつくらいあってもいいとは思う。
 上野天満宮ってどんな神社ですか? と、この神社を知らない人に訊ねられたら、ああー、上野天満宮ね、まあ、悪い神社じゃないよ、行ってみれば分かると答えるだろう。付け加えるなら、憎めない神社ということになるだろうか。




作成日 2017.2.19(最終更新日 2019.2.8)


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