名古屋には三大天神と呼ばれる神社がある。 北区の山田天満宮、千種区の上野天満宮、中区の桜天神社がそれとされている。東区に七尾天神社もあるのだけど、知名度は低い。 ここ中村区名楽町の天神社は名古屋駅以西の人たちには近しい天神社かもしれない。 受験シーズンに訪れてみるとその神社の人気度が分かるのだけど、このときは初夏。年配の女性が熱心にお参りをしていた。
『愛知縣神社名鑑』にも、神社の由緒書きにも、もともと名古屋城三の丸の清水御門近くにあったものを、明治にこの地に移したとしている。 『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「創建は明かではない。元名古屋城清水御門内艮(東北)守護神として鎮座のところ明治維新に際し中村土地会社(開発)設立と同時に今の社地に遷座産土神として尊崇する」 境内の由緒書きはこうなっている。 「初め徳川尾張藩名古屋城清水御門の杜に祀られていました明治四十三年十月二十五日当地愛知郡中村郷日比津宇野合の守護神として名古屋城より遷座お迎えして以来勉学の先達として土地住民の尊崇の中心となりました」 名古屋城三の丸の清水御門で祀られていたものを明治にここに移したのは間違いなさそうだけど、『愛知縣神社名鑑』は明治維新といい、神社由緒は明治末の明治43年といっている。どちらが正しいのだろう。 中村土地会社というのは調べても分からなかった。この会社の設立が明治末なら神社がいう明治43年遷座ということでいいのだろうけど。
創建年は不明となっているものの、清水門の内側に祀られていたというのなら名古屋城築城後と考えてよさそうだ。 名古屋城築城以前の絵地図には荒神が書かれているけど、これはたぶん違うだろう。 清水御門は三の丸の入り口として設けられた5つの門のうちのひとつで、北側にあった(あとの4つは東の東大手御門、南の本町御門と御園御門、西の巾下御門)。 現在の地図でいうと、名城公園南交差点あたり(地図)だと思う。mapionの水色で塗られたエリアが江戸時代の名古屋城三の丸に当たり、地名としても三の丸がそのまま残っている。 ここより北は「おふけ」と呼ばれる湿地帯で、江戸時代は庭園が造られていた。 明治になって庭園はつぶされ、湿地を埋め立てて軍の練兵場となった。名城公園が整備されたのは戦後のことだ。 尾張藩初代藩主の徳川義直は菅原道真を尊敬していて、山田天満宮は義直が藩士の学問奨励のために建てさせたとされているし(2代光友という話もある)、七尾天神社を整備させたのも義直だ。 だから、ひょっとすると清水御門の天神社もそうではないかと思ったのだけど、そういった話が伝わっているはずで、それがないとなると創建のいきさつは尾張藩主導でなかった可能性が高い。 そもそもの話でいうと、ここは清水御門時代、本当に菅原道真を祀る天神社だったのだろうか、という疑問がある。
現在の祭神は、菅原道真に加え、豊受大神、迦具土命、熱田大神となっている。 途中で神明社や秋葉社を合祀したとして、熱田大神が入っているのはどういうことだろう。 社殿の形式はまったく天満宮らしくなくて、むしろ熱田区などでよく見かける神明社のものに似ている。これは明治に移されたときからのものなのか、戦後に建て直されてこうなったのかは分からないのだけど、拝殿前に牛の像がなければ、ここが天満宮だとは思わない。 境内社として稲荷社がふたつあって、片方が豊川稲荷大明神、もう一方が伏見稲荷大明神となっている。これもちょっと珍しい。 『中村区の歴史』は大正10年から12年頃に稲荷社を合祀したと書いている。どちらかがそうなのか、両方ともそうなのか。 もともとは天神社以外の神社だったものが江戸期のどこかで道真を祀る天神社になった可能性はある。
明治に移されたときは本殿しかないやや寂しいものだったという。 大正時代に入って、市民や企業などが石灯籠や石鳥居、牛像などを寄進して神社としての体裁が整ったという話が伝わっている。 いずれにしても、現在の天神社は道真を祀る天満宮として認識されているわけで、中村一帯の受験生や親たちがこの冬も合格祈願のために訪れるのだろう。社殿が天満宮らしくないとかは関係ない。 初夏のこの時期は、道真さんも忙しさから解放されて、のんびりしている頃ではないだろうか。 三の丸にあった清水御門は、一宮の妙興寺(総門)と春日井市上条町の泰岳寺(web)にそれぞれ移されて現存している。 中村土地会社がその後どうなったかは知らない。
作成日 2017.6.3(最終更新日 2019.4.26) |