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熱田神宮

熱田神宮の正体に迫る

熱田神宮拝殿から見る本殿
読み方あつた-じんぐう
所在地名古屋市熱田区神宮1丁目1-1 地図
創建年伝113年(景行天皇43年)
旧社格・等級等式内社・尾張国三宮・旧官幣大社・別表神社
祭神熱田大神(あつたのおおかみ)
【相殿神】
天照大神(あまてらすおおかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
日本武命(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやすひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
アクセス地下鉄名城線「神宮西駅」下車。徒歩約5分。
地下鉄名城線「伝馬町駅」下車。徒歩約6分。
名鉄名古屋本線「神宮前駅」下車。徒歩約5分。
JR東海道本線「熱田駅」下車。徒歩約12分。
無料駐車場あり(400台分) 17時閉鎖(西駐車場は24時間駐車可能/年末年始は使用不可)

参拝時間 終日(無料)
宝物館 300円 9時-16時半 最終水曜日定休(年末休館)

webサイト熱田神宮公式webサイト
熱田神宮会館(結婚式)
愛知県神社庁(熱田神宮内)
電話番号052-671-4151
その他例祭 6月5日 授与所 各種お祓い ご祈祷 結婚式
神紋五七桐竹紋
オススメ度***

熱田社には4つの段階がある


 熱田神宮が名古屋や愛知県を代表する神社であることは間違いない。しかし、その実体は謎に包まれており、熱田神宮の関係者ですら本当の成り立ちは知らないのではないかと思う。この宮の存在自体が非常に特異なものだ。
 熱田神宮が神宮を名乗るようになるのは明治元年/慶応4年(1868年)のことで、それ以前は熱田神社、熱田社といっていた。
 熱田社には少なくとも4つの顔と段階がある。
 最初に尾張氏が祀ったであろう原初の社。
 ヤマトタケルとミヤズヒメにまつわる草薙剣を祀ったとき。
 草薙剣が天皇の皇位継承に必要な三種の神器のひとつとされた段階。
 尾張造を捨てて神宮化したとき。



尾張氏は天孫の天氏


 熱田社とは何かを考えるとき、尾張氏とはどういう氏族なのかということを考えなければならない。
 多くの人たちが様々な角度からアプローチをして尾張氏の正体に迫ろうと試みて結局誰も成功していない。何人かはかすってはいるのだろうけど芯を捉えてはいない。尾張氏の正体が謎ということが熱田社を難しくしている最大の要因といってもいい。
 まずはっきりさせておかなければならないのは、尾張氏は天孫族だということだ。ここがブレてしまうと尾張氏の正体も熱田社の実体も理解することはできない。
 では天孫族はどこから来たのかということになる。
 言うまでもなく、歴史は過去方向から未来方向へと流れ、逆流はしない。途切れることも決してない。ただし、人の流れには逆流もあるということを頭に入れておく必要がある。出ていった人間が戻ってくることもあり、進歩や成長と同時に退化もあるということだ。



ホモ・サピエンス誕生、日本列島へ


 今から500万年ほど前の名古屋は古東海湖と呼ばれる巨大な湖の底だった。最盛期は200-350万年ほど前で、今の愛知県西部から伊勢湾の北半分、岐阜県の南部と三重県北部をすっぽり覆うほどの大きさだった。その後、120万年前あたりに干上がったとされている。今の濃尾平野が豊かなのも、焼き物の土が採れたのも、この古東海湖があったおかげだ。
 人類の誕生は今から200万年ほど前と考えられている。現生人類であるホモ・サピエンスは20万年ほど前にアフリカで誕生したというのが近年の定説となっている。その間に多くの人類が生まれ、氷河期や環境変化などによって絶滅していったとされる。ただし、一部は交流もあったようで、ホモ・サピエンスの中にネアンデルタール人のDNAが2%あることが最近の研究で分かった。特に日本人はネアンデルタール人のDNAが濃いとされ、花粉症などもネアンデルタール人の免疫機能によって引き起こされているともいう。
 7万年から6万年ほど前にホモサピエンスはアフリカを出て、世界各地に広がっていったと考えられている。
 日本列島に原人がいたかどうかは定かではない。
 ホモ・サピエンスが日本列島に渡ってきたのは3万数千年前というのが通説となっている。ルートは主に3つで、台湾、沖縄諸島を経由して九州南部から入った南ルート、大陸から朝鮮半島を通って九州北部に入った西ルート、シベリア半島から北海道に渡った北ルートだ。当時の航海技術は我々が思っている以上に発達していたと考えるべきだろう。
 旧石器時代は人類が打製石器を使っていた時代で、前期・中期・後期に分けられている。後期は4万-1万3千年前ということで、日本の場合は旧石器時代といえば後期旧石器時代のことを指す。
 世界では磨製石器を使うようになった時代を新石器時代と呼んでいるのだけど、日本では縄文土器を使う時代ということで縄文時代といっている。縄文時代の始まりは近年だいぶさかのぼって1万6500年前から始まったとする。
 旧石器時代の遺跡は全国で5,000ヶ所ほど見つかっている。残念ながら名古屋ではいまだ発見に到っていない。しかし、竪三蔵通遺跡(中区栄)や高蔵遺跡(熱田区高蔵)、大曲輪遺跡(瑞穂区)、鉾ノ木遺跡(緑区鳴海)、菅田遺跡(天白区)など19ヶ所からナイフ型石器などが出土していることから、遅くとも1万数千年前には人がこの地で暮らしていたことが分かる。その中に後に尾張氏となる一族がいたのか、まだいなかったのか。
 今から7万年前から1万年前の間は氷河期で、現在に至るまでの最後の氷河期ということで最終氷期と呼んでいる。2万年前にピークを迎え、海表面は現在より120メートルほど下がったといわれている。北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなり、瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地となった。東シナ海の大部分も陸地化して、対馬海峡も浅くなり舟で渡ることが容易になったと考えられる。伊勢湾や三河湾も陸となり、渥美半島と鳥羽を結んだあたりが海岸線だった。
 この時期の人々は、内陸の山奥ではなく海に近い場所に住んでいたはずで、伊勢湾の底には多くの遺跡や遺物が埋没していると考えられる。
 縄文時代は大きな変動があった時代だった。その中でも特に影響があった出来事として、7300年前の鬼界カルデラの破局噴火と気温上昇による縄文海進が挙げられる。
 薩摩半島から約50キロ南の大隅海峡にある喜界カルデラが破局噴火を起こし、九州全域はほぼ全滅、西日本も20センチの火山灰が積もって壊滅的な打撃を受けた。中部地方も無事では済まなかったはずだ。
 破局噴火は鬼界、阿蘇、箱根などで過去12万年間に10回起きたとされており、今起きたら日本は1億人以上が死滅すると言われているほどの規模だ。
 噴火の後、生き残った九州や西日本の縄文人は東に移動するか、海を渡ったに違いない。実はこのことは非常に重要なことで、大陸や朝鮮半島の文明やルーツの一部は日本の縄文人が発祥という可能性は充分にある。遠く南北アメリカ大陸にも縄文の痕跡が見られるほどだ。
 6000年ほど前にピークとなった縄文海進では海水面が今より5メートルほど上昇したとされる。その結果、海は内陸深くまで入り込み、名古屋では台地と丘陵地を残して水没した。海から遠いところにもかかわらず津島や中島郡、枇杷島、長島などの地名は、その頃実際に島だった頃に名づけられたものではないかといわれている。岐阜県にも海進にまつわると思われる地名が多くある。
 14万-12万年前の熱田海進と呼ばれる時代は海面が20メートル以上も上昇したとされているので、その頃の名残とも考えられる。その場合、その後数万年の間の地面の隆起と沈下も考慮しなければならない。
 縄文晩期から弥生時代にかけて海面は下がっていくものの、名古屋の縄文遺跡はほとんどが標高の高い台地上か丘陵地帯に限られている。
 熱田台地(那古野台地)北部の名古屋城天守閣貝塚長久寺遺跡、中央部の縦三蔵通遺跡旧紫川遺跡富士見町遺跡、南部の新宮坂貝塚、瑞穂台地の瑞穂遺跡、笠寺台地の見晴台遺跡、鳴海丘陵の鉾ノ木貝塚雷貝塚、守山丘陵の牛牧遺跡など、これらの多くは台地の縁で見つかっている。
 縄文時代は気候変動による植生の変化も大きく、それによって移動を余儀なくされたり、食べ物が変わったりして、人口分布や人口の変動も顕著だった。
 早期から前期にかけては中部から関東の人口密度が高く、続いて東北、九州で、西日本はごく少なかった。気温が徐々に上昇したこともあり、中期にかけては人口が早期の2万人程度から26万人ほどに増えたとされる。
 その後寒冷化が始まり、晩期には7万人程度にまで激減してしまう。後期は東日本の人口が圧倒的に多くなって、西日本は過疎化する。近畿地方の人口密度も低い。
 弥生時代に入ると人口は一気に増える。紀元前600年頃には60万人ほどになっていたとされる。稲作による食糧事情の好転で出生率が上がって死亡率が下がったことはあっただろうけど、それだけでは説明がつかないほどの増加だ。この時期に渡来人が波状的に相当数入ってきたと考えるしかない。
 ただし、それは最初に書いたように出戻りだったかもしれない。朝鮮半島南部は長らく日本(倭)の一部だったともいう。


 名古屋における弥生時代の主な遺跡としては、朝日遺跡(西区から清須市)、見晴台遺跡(南区)、西志賀遺跡(西区)、正木町遺跡(中区)、熱田神宮内遺跡(熱田区)、瑞穂遺跡(瑞穂区)、大喜遺跡(瑞穂区)、桜本町遺跡(南区)、矢切遺跡(緑区)、牛牧離レ松遺跡(守山区)などがある。
 旧石器・縄文時代から続くものもあり、弥生時代からのものもあり、古墳時代以降も続いたものと続かなかったものがある。多くは都市開発の中で破壊されるか埋められるかしてしまって、残っているところは少ない。


日本人の遺伝子と縄文人


 尾張氏とは何者かを考えるのであれば、以上のように日本人とはどこから来たどういう人たちなのを考える必要がある。そのためには日本語と遺伝子についても触れておかなければならない。
 ミトコンドリア・イブという言葉がある。現在の人類の遺伝子を辿っていくと、20万年前のひとりのアフリカ人女性に行きつくというものだ。
 日本人の遺伝子には大きな特徴がある。日本人男性の4割から5割がYAP遺伝子(D1・D2・D3)という特殊な遺伝子を持っていて、中国や朝鮮、東南アジアにはほとんど見られないという点だ。
 Y染色体は父親から男子にのみ引き継がれるもので、途中で変わることはない。Y染色体を辿っていけば父親のルーツが分かるということだ。
 ミトコンドリアDNAは母親から子供へと受け継がれるので、ミトコンドリアDNAを辿れば母系が分かる。
 YAP遺伝子は縄文人由来の遺伝子であり、ハプログループのDグループとEグループのみが近く、Dグループは日本とチベット、インド洋のアンダマン諸島くらいしか分布していない。そのうち日本はD2のみで、アイヌと沖縄では更に割合が高く、アイヌの8割以上がYAP遺伝子を持っているというデータもある。チベットではD1とD2とあわせて5割ほどという。
 Eグループはアフリカに多く、中東や地中海沿岸でも見られる。これは5万年ほど前にDグループと分かれたとされる。
 つまり、Dグループの人たちは大陸や朝鮮半島には定着せずに(混血せず)早い段階で日本列島に渡った可能性が考えられるということだ。中国や朝鮮半島の人々はOグループやCグループが大多数で、日本人のDグループとは親類ですらない、まったく別の人種だ。
 あるいは、大陸や朝鮮半島に定着した縄文人と同族の人たちは、後に北からの征服者によって駆逐されたのかもしれない。
 いずれにしても、アフリカを出発したDグループの人たちは、いくつかのルートを通って北海道や琉球に一部が定着しつつ本州で再合流したということがいえる。これが縄文人と呼ばれる人たちだ。
 ミトコンドリアDNAからは、トルコやバイカル湖西、チベット、中国、東南アジアなど16人の母親のルーツがいることが分かっている。
 更に興味深いのが、ネイティブアメリカンや南米人からもYAP遺伝子が見られることだ。インカ帝国やマヤ文明を築いたのも日本を脱出した縄文人の可能性がある。実際、南米で縄文土器が見つかっていたりもする。
 弥生時代は渡来人によって稲作が持ち込まれて始まったもので、縄文人は渡来の弥生人によって駆逐されたみたいなことが通説としてよく語られるのだけど、遺伝子から見てそれはあり得ない。もしそういうことがあったとしたら、縄文人由来のYAP遺伝子を持った日本人が半分近くも存続している説明がつかない。渡来人との混血が進んだのはずっとの後の7世紀に入ってからともいわれている。
 縄文人と弥生人とでは骨格やかみ合わせが違うから弥生人は渡来人だというのもよく言われることなのだけど、戦前の日本人と戦後の日本人を比較すると顔つきや体格などが激変していることを思えば、縄文人と弥生人は連続していると考えても無理はない。戦前から戦後のわずか50年ほどでこれほどの変化があったのだ。縄文から弥生にかけての数百年で大きな変化があったことは驚くに値しない。固い木の実などから柔らかい米中心の食生活になれば、骨格やかみ合わせが変わるのも当然だ。
 稲作などの技術は日本人が自ら導入したとも考えられる。近年のDNA研究などで稲は朝鮮半島を経由しないで中国大陸から直接伝わったルートが有力視されている。渡来人が稲作の技術や道具を持ってやって来たというこれまでの定説はもはや定説ではなくなっている。
 大陸人が日本に持ち込んだというよりも、縄文人が大陸に渡って稲や技術を持ち帰ったのではないか(稲の伝播と稲作の伝播はまた別の話なのだけど)。
 渡来人の側から考えてみれば分かることだ。自分たちが新天地に渡ってその先が自分たちより遅れていたら自分たちの技術や知識を惜しげもなくタダで渡したりするだろうか? そんな気前のいい人間は昔も今もいない。技術を独占して優位に立ちたいと思うのが自然な心理だ。それが日本各地に広がったということは、自分たちが技術や知識を積極的に獲得して広めたと考える方が理にかなっている。
 日本人は風習にしても文化にしても、外国のよい部分は進んで取り入れても押しつけられてはこなかった。明治維新でもそうだ。例外と言えるのは第二次大戦後のGHQによる洗脳くらいだろう。
 それと、言語のことがある。日本語は孤独な言語と呼ばれるように世界のどこにもルーツが見当たらない。いくつかの説は出されているものの、いまだこれという説はない。
 それはつまり、日本語は縄文人が話していた言語ということで、変化はあったにしても、外国の言語に征服されてはいない。もし渡来人が縄文人に取って代わっていたら、当然言語も渡来人のものになっていたはずだ。日本語は中国語とも朝鮮語とも英語ともまったく別の言語なので、そういう意味からも渡来人に征服された事実はないといえる。
 縄文人は弥生人によって東日本に追いやられたという説も当たらない。それなら言語は2つ以上があったはずだ。しかし、日本列島に2つ以上の異なった構造を持つ言語が存在した形跡はない。本州から遠く離れた琉球語ですら日本語の方言だし、アイヌ語は別言語ともされるのだけど、アイヌ語も日本語の変形という説もある。
 日本は中国の漢字を使っているではないかと思うかもしれないけど、それは文字のことであって言語とは別だ。
 日本には飛鳥時代あたりまで文字がなかったというのも嘘だ。日本には古くから文字はあった。神代文字や象形文字と呼ばれるものがそれだ。
 漢字が日本に入ってきたのがいつなのかははっきりしないのだけど、白村江の戦いに敗れて戦後、唐に強制された部分があったかもしれない。その結果、それまで使われていた神代文字のたぐいは捨てさせられたのではないか。それが徹底されたのは、奈良時代初期、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)が成立した頃ではないか。『古事記』は稗田阿礼が”誦習”したものを太安万侶が書き記したとされているけど、古い記録は漢字で書かれておらず、神代文字で記されていたため、太安万侶は読めず、稗田阿礼が読んで聞かせたとも考えられる。
 乙巳の変(645年)で蘇我蝦夷の家が焼かれたときに『天皇記』と『国記』が焼けて『国記』のみが助かったという話も怪しい。これも神代文字で書かれていて焼かれたのかもしれない。
 伊勢の神宮(web)や石上神宮(web)といった古い神社には神代文字で書かれたものが伝わっているという。熱田神宮も所蔵しているはずだ。神代文字は大昔のものではなく、中世においても神社に納める書などに使われたともいう。時の為政者は皆知っていたのではないか。今現在もだ。
 そもそも人間は不便さを感じれば便利さを求めるもので、伝達手段が口伝えしかないことを不便に思えば何かを書いて伝えただろうことは容易に想像がつく。
 一部を除き土器などに文字などが刻まれていないことを古代文字否定の根拠にするのは想像力不足でしかない。
 いずれにしても、縄文時代から海を越えて行き来があったのは確実で、大陸や半島にあったものを日本人が知らなかったはずがなく、古代文字があったことは確実といっていい。



日ユ同祖論という可能性


 日ユ同祖論というものがある。日本とユダヤは同じルーツを持つ民族という説だ。トンデモ説として片づけられることも多いのだけど、個人的に可能性はなくはないと考えている。
 イスラエルの失われた10支族のことを書くと長くなるのでごく簡単にいうと、紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされた北イスラエル王国の10支族は散り散りになってどこかへ消えてしまい、そのうちの一部が日本に渡ってきたのではないかというのだ。一部といってもそれは数万人かそれ以上の規模だったともいう。
 機会があればこのあたりのことも書いてみたいのだけど、ここでは尾張氏はユダヤの末裔の可能性もあるということを指摘しておくにとどめたい。
 ちなみに、古代のヘブライ語と日本語の単語の共通性を言う人がいるけど、似ている単語がいくつかあるからといって日本語のルールがヘブライ語から来ているなどということはあり得ない。今の日本語も和製英語だらけでもルーツが英語ではないのと同じだ。
 天孫族という以上、どこかの土地で自然発生したというよりは別の場所からやって来たと考える方がしっくりくる。それは別にユダヤがどうこうということではなく、他の国からかもしれいないし、国内の移動かもしれない。
 ただ、上で見てきたように日本列島には3万年を超える歴史があるわけで、よそ者がフラッとやってきて簡単に君臨して支配できたとも思えない。尾張氏は何が特別だったのか。どういう力を持っていて、どうやって支配したのか。突き止めるのは無理としても、そういう視点は必要だ。



尾張氏はどこから始まったのか


 尾張氏はいつから尾張で暮らすようになったのかがやはりひとつ大きな問題となる。
 旧石器時代からなのか、縄文時代からなのか、弥生時代からなのか、それ以降かによって意味合いがだいぶ違ってくる。旧石器時代や縄文時代なら原住民が力をつけていって勢力を伸ばしたということになるだろうし、弥生時代以降であれば最初はよそ者で、強い言葉で言えば征服したような恰好だったと考えられる。
 それはマツリについて考える場合でも問題になることだ。
 政はマツリゴトというように、古代において政治と祭祀は一体だったと考えられている。マツリ(祀り)を行う人間がマツリゴト(政治)も行うということだ。
 祖先崇拝といったようなことはおそらく弥生時代以降のことで、始まりは自然崇拝だっただろう。自然畏怖といった方が正しい。
 人間というのは昔も今も決して殊勝なものではない。困ったときの神頼みというのは古代人も現代人も変わらない。ただ、古代人の場合、自然は今以上に脅威だったのは間違いなく、祈りは切実なものだったはずだ。
 自然が自分たちに害を与えないようにカミまたは天に祈るというのは当然のことだ。そして、災害が収まれば天に感謝しただろう。順番は逆ではない。願いがあって、次に感謝がある。天の恵みに感謝するなんてことは二次的、三次的なものだ。古代人を素朴でいい人たちだなどと考えるのは間違っている。
 最初に書いたように、尾張氏が最初に何らかのカミを祀った段階を熱田社の始まりとするならば、原初のカミマツリを熱田社の創祀としてもいいかもしれない。
 ひとつはっきりさせておかないといけないのは、創祀と創建を分けて考えるべきだということだ。祭り(祀り)の始まりが創祀で、社を建てて神社としての体裁を整えることを創建といっていいと思う。つまり、創建がその神社の始まりではない。
 そのときの尾張氏はまだ尾張氏と名乗っていなかっただろうし、熱田社は熱田の地になく熱田社ともいっていなかったはずだ。このときのカミマツリを便宜的に元熱田社と呼ぶことにする。
 では尾張氏の本拠はどこにあったかということになる。その場所が元熱田社の始まりの場所でもあったはずだ。
 縄文時代からいたのか弥生時代以降なのかがやはり問題となるのだけど、どちらにしても遺跡から推測することは難しい。始まりの地が今の名古屋市内とも限らない。可能性としてはどこでもあり得る。
 名古屋でいえば、熱田台地、瑞穂台地、笠寺台地、鳴海丘陵(大高)あたりが候補地として挙がるだろうけど、どこも決め手に欠ける。まったくノーマークの場所ということも考えられる。これだけ分からないということは、むしろその可能性が高いと考えた方がいい。遺跡密度が高い場所が始まりの場所とは限らない。
 ひとつ鍵を握っていそうなのが清須市から西区にかけて広がる朝日遺跡の存在だ。
 縄文時代中期から人が暮らし始めたところで、五条川左岸の標高2-4メートルの微高地上に位置する。ここは縄文海進では水没していたであろう場所で、海岸線が後退して五条川が運んだ土砂によって形成された沖積地といわれる場所だ。つまり土地としては新しい新興住宅地といえるところだった。
 弥生時代中期に最盛期を迎え、東海地方だけでなく全国規模で見ても当時最大級の環濠集落となった。
 これは中国の『三国志』魏志倭人伝や『後漢書』東夷伝に書かれている2世紀後半の倭国大乱の時期に当たる。朝日遺跡も集落を二重三重の濠で囲んで、濠には乱杭などの罠を仕掛けるなど、争いがあったことを想像させるものとなっている。
 ただ、魏志倭人伝がいう倭や邪馬台国などは九州ローカルの話だと個人的には考えているので、朝日遺跡の勢力が倭国大乱に関わっていたとは思わない。
 朝日遺跡がある清須という土地は、北の一宮、稲沢と南の名古屋の中間地点に当たる。織田信長が一時本拠とした清須城があったことでも知られている。
 この清須や周辺に尾張氏ゆかりの神社などが見られないことからすると、朝日遺跡は尾張氏の本拠ではなかったのではないか。朝日遺跡は古墳時代になると急速に過疎化して、その後捨てられている。
 2世紀末には、奈良県桜井の三輪山の北西に一大集落ができる。纒向遺跡(まきむくいせき)と呼ばれているところだ。この地がヤマト王権の始まりの地というのが近年の定説とされている。
 纒向遺跡は不思議な遺跡で、農業の痕跡がなく、日本各地からそれぞれの地方特有の土器が持ち込まれているという特徴を持っている。そのことから、全国から人が集まって一種の政治都市を作ったと考えられている。持ち込まれた土器の半数が尾張や伊勢湾周辺のものということで、尾張からも相当数の人間が参加したようだ。それは尾張氏だったのか、朝日遺跡の人たちだったのか。それとも別の新興勢力だったのか。



尾張氏は何が特別だったのか


 最初の方で尾張氏は天孫族だと書いた。正しくは天氏と言った方がいいかもしれない。天を名乗る一族ということだ。以降、天氏とする。
 天氏はどうして特別であり得たのか。何故、天氏から尾張氏となったのか。どうやって尾張氏は尾張国を支配下に治めることができたのか。どうして尾張氏は歴史の表舞台から姿を消したのか。
 尾張氏が有していた優位性が何だったのかは想像するしかないのだけど、血筋が高貴だったのか、呪術に優れていたのか、政治力があったのか、強力な武力を持っていたのか、財力があったのか、特別な技術や知識を持っていたのか、いずれにしても特別な何かがあったには違いない。だからこそ、尾張や周辺一帯を支配できたのだろう。
 大胆な仮説を言ってしまうと、日本神話が語る一部、もしくはかなりの部分は尾張国や尾張氏が元になっているかもしれない。尾張氏は天皇家になり得た一族であり、ある部分では天皇(大王)だったともいえる。そんな話は信じられないという人が大半だろうけど、尾張氏は天氏だったということを前提とするとそれはあり得ることだ。なにしろ天氏なのだ、天の王、天王を名乗ることはごく自然なことと言っていい。
 それでも尾張氏は敗れた一族だ。あるいは譲ったと言ってもいい。それこそが日本神話が語る国譲りだったのではないか。国譲りというのは単に領地を取られるとかそういうことではない。地位も権力も武力も歴史も名前さえも奪われることを意味する。
 尾張氏や尾張国を今の愛知県西部だけで考えると視野が狭くなる。東は三河、北は信州・美濃、西は大和、南は伊勢志摩一帯が尾張氏の勢力範囲だったと考えていい。もう少し拡げて、越前や丹波あたりも入れていいだろう。
 尾張は東国と西国の境界であり、入口であり出口でもある。弥生文化と縄文文化が交錯する場所という言い方もできる。



尾張氏の祖は天火明というのだけど


 尾張氏の系統については『先代旧事本紀』と海部氏系図(「本系図」・「勘注系図」)が表に出ている情報としては手がかりとなる。
『先代旧事本紀』は平安時代前期に成立したとされる史書で、第5巻「天孫本紀」に物部氏と尾張氏の系譜を載せている。ここでは物部氏と尾張氏は同じ祖を持つ同族のように扱っている。
 海部氏系図の海部氏(アマベ)は尾張氏と同族とされる一族で、尾張氏と同様、天火明を祖としている。海部氏は京都の丹後一宮・籠神社(web)の社人を代々務めた家で、現宮司の海部光彦氏はその第82代に当たるとしている。系図は長らく秘され、現在は現存する最古の系図ということで国宝に指定されている。
 他にも大阪住吉大社(web)の社人を務めた津守氏やなども尾張氏一族とされる。
 尾張氏がどうして始祖を天火明(アメノホアカリ)としたのかはよく分からない。天火明の父である天忍穂耳命(アメノオシホミミ)でもよかったのに、そうしていない。もっと言えば、天忍穂耳命は天照大神(アマテラス)と素戔嗚(スサノオ)のウケヒ(誓約)から生まれたとされるので、アマテラスやスサノオを始祖としてもよかった。
 日本神話でいえば、アマテラスとスサノオ、ツクヨミ(月読)は伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)から生まれたとする。なので、さかのぼるならイザナギ・イザナミを祖としてもいい。
 天皇家の祖といえるのが瓊瓊杵(ニニギ)だ。ニニギは天孫降臨で地上に降って木花開耶姫と結婚し、その系統が初代天皇の神武天皇につながる。父は天忍穂耳命で、天火明の弟に当たるとされる(異説はいろいろある)。
 尾張氏の系図を信じるなら、尾張氏は天皇家と同族ということになる。天火明を始祖としたのは、ここで天皇家の瓊瓊杵(ニニギ)系統と分かれたということを示したかったのかもしれない。
 ただ、表に出ている系図がそのまま真実とは限らないし、そもそも系図があんな単純になるはずもない。兄弟が3人いればそれぞれの下につながって、それぞれが分かれていくし、婚姻によって他の家と複雑に絡み合っていく。長子相続とは限らず、男子がいなければ女子が家を継ぐこともあっただろうし、養子も当然ある。婚姻で同族になるのであれば、天皇家を含めて古代の有力氏族のほとんどは親類ということになってしまう。後ろから系図をさかのぼれば、天照大神も素戔嗚も大国主や大山祇なども尾張氏といえなくもない。



尾張氏の系図を考える


 尾張氏が天氏からいつ尾張氏になったのは意外と難しい問題だ。
 系図でいうと、天火明の次が2代天香語山/天香久山(アメノカゴヤマ・アメノカグヤマ)・3代天村雲(アメノムラクモ)・4代天忍人(アメノオシヒト)/天忍男(アメノオシオ)/瀛津世襲(オキツヨソ)/建額赤(タケヌカアカ)・5代天戸目(アメノトメ)と、ここまでが天で、次の6代建斗米(タケトメ)以降は天がつかなくなる。この間に天を名乗らなくなったのか、名乗れなくなったのか。もしくは系図上のことだけで引き続き天を称していたのか。
 この後、7代建宇那比(タケウナヒ)・8代建諸隅(タケモロズミ)と建が続き、9代倭得玉彦(ヤマトノエタマ)・10代弟彦(オトヒコ)となり、11代(12代とも)が乎止与(オトヨ)で初代尾張国造とされる。
 乎止与の子が13代建稲種(タケイナダネ)で、14代尾綱根(オツナネ)、15代尾張弟彦(オワリオトヒコ)、弟彦が応神天皇に尾治連姓を賜ったとされる。
 21代尾張大隅(オワリオオスミ)は壬申の乱の際に大海人皇子(のちの天武天皇)側について援助し、尾張宿禰姓を賜って熱田社の宮司となり、次の稲置(イナギ)のときの熱田社の大宮司となったと系図は伝えている。
『古事記』・『日本書紀』によると、瀛津世襲の妹の余曾多本毘売命(世襲足媛)は第5代孝昭天皇の皇后となり、その子が第6代孝安天皇となった他、建稲種命の妹の宮簀媛(ミヤズヒメ)は日本武の妃となり、尾張弟彦と同様に尾綱根命も応神天皇のとき大臣となり、その子の意乎己(オオコ)は仁徳天皇の大臣となり、応神天皇は建稲種の孫の仲姫命を皇后とし、継体天皇は尾張連草香の娘・目子媛を皇后として、その子が安閑天皇、宣化天皇として即位した。



元熱田社はどこかにあったはず


 尾張氏の流れは以上のようだったということを踏まえた上で、熱田社の始まりについてもう一度考えてみたい。
 カミという概念がいつ頃生まれ、神社がいつ始まったのかという問いに答えるのは難しい。自然崇拝があり、祖先崇拝へと移っていったというのは現代人が考えることで実際にそうだったかどうかは分からない。
 尾張氏となる以前の天氏一族が何らかのカミマツリを行っていた可能性は充分にあるにしても、それが直接熱田社につながったかどうかは何ともいえない。
 具体的な熱田社の始まりとは何なのかというのも難しい問題なのだけど、何らかのカミを特定の場所で祀ったことを熱田社の始まりとしていいかもしれない。
 神話は神話として、現実は現実としてある。たとえば天火明もしくはそのモデルとなった人物は確かにいただろう。この世に生まれ、生きて死んでいったのは間違いない。
 天火明が何のカミを祀ったかを推測するのは難しい。カミマツリ自体は縄文時代から始まっていることだから、おそらく弥生時代に相当するであろう時代に生きた天火明も何らかのカミマツリをしたには違いない。それを熱田社の始まりとすべきかどうか。
 天火明は尾張を中心としたいくつかの神社の祭神として祀られている。尾張国一宮の真清田神社(web)や京都の籠神社、名古屋でいえば東谷山山頂の尾張戸神社、熱田神宮内の孫若御子神社などがそうだ。しかし、少ないといえば非常に少ない。尾張氏の祖とされながら、これは少なすぎないだろうか。
 あるいは、天火明ではなく別の祭神名で祀られているのかもしれない。『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として、物部氏や穂積氏の祖である饒速日(ニギハヤヒ)と同一としている。
 天照国照の名からアマテラスはもともと女神の天照大神ではなく、天照国照、つまりニギハヤヒ(饒速日)こそが本来のアマテルだったのではないかという説もある。
 別の伝承ではアメノホアカリ(天火明)=ニニギ(瓊瓊杵)とするものもある。もしそれが本当ならなかなか大変なことで、『日本書紀』が誤魔化そうとした核心はそこにあったのかもしれない。
 いずれにしても今の熱田神宮では天火明を祭神とはしていない。境内摂社の孫若御子神社で祀っているとはいえ、これはおそらく明治以降のことで、古くからそうだったわけではない。
 尾張国一宮の真清田神社にしても、最初から天火明を祀るとしていたわけではなく、古くは國常立(クニノトコタチ)や大己貴(オオナムチ)とされていたこともあり、天火明とされたのは江戸時代に入ってからだ。
 以上からすると、どうやら元熱田社は天火明とは関係がなさそうだということになる。
 ただし、ヤマトタケルの草薙剣を祀るために創建したのが熱田社だという定説を私は信じていない。それ以前に元熱田社は必ずあったと思っている。
 ヤマトタケルが実在して本当に景行天皇の皇子だったとすれば、それは3世紀もしくは4世紀のことだ。それ以前に尾張氏が何のカミも祀っていなかったなどということは普通に考えてあり得ない。
 では、天火明が生きたのは何世紀だったのかということが問題となる。
 これもなかなか難しいのだけど、乎止与が尾張氏11代(または12代)で、一世代25年とすると250年さかのぼった紀元前1世紀ということになるだろうか。昔の人はそれほど長生きではないとすると200年。それでも紀元1世紀ということになる。15年で代替わりしたとすると2世紀とも考えられるか。
 神武天皇即位を『日本書紀』が辛酉(かのととり/しんゆう)としていることから、西暦に直して紀元前660年とするのだけど、さすがにこれは無理がある。それは縄文時代晩期に当たる。
 実在した可能性が高いとされる天皇としては第10代崇神天皇がいる。都とした瑞籬宮(みずかきのみや)は纒向遺跡の中だ。崇神天皇が3世紀後半の人物だとすると、神武天皇は1世紀後半から2世紀あたりの人ということになるだろうか。
 熱田神宮は公式見解として、創祀を113年といっている。これは景行天皇43年に当たることからそうしているのだけど、この年号には何かしらの意味というか根拠があるのではないかと個人的には考えている。まったく荒唐無稽なことではなく、実は本当のことが伝わっているのかもしれないとさえ思う。



熱田社はどうして三宮だったのか


 熱田神宮の不思議のひとつに、尾張国の一宮ではなく三宮だったというのがある。
 一宮制度が定まったのは平安時代後期とされているのだけど、律令時代に国司がその国に派遣されたときに参拝する順番で一宮、二宮、三宮が決められたともいい、実際はもう少し早かったかもしれない。
 645年の大化の改新の後、尾張国の国府は今の稲沢市に置かれた。
 奈良時代には総社は国府宮神社として知られる尾張大国霊神社(web)と定められた。
 一宮制における尾張国二宮は犬山市の大縣神社(web)だった。
 そのこともあって、一宮・二宮・三宮は稲沢の国府から近い順番で決められたのではないかという説もあるのだけど、一般的には上から一宮・二宮・三宮という格付けと考えられていた。
 ただ、尾張国においては少し事情が違っていたかもしれないと私は考えている。
 大縣神社の祭神ははっきりしないものの、尾張国開拓の祖神とされている。一説では天津日子根(アマツヒコネ)とされ、これは天忍穂耳の弟に当たる。
 犬山市の隣の春日井市には高座山や高蔵寺といった地名がある。タカクラというと熱田の北に高蔵があり、高座結御子神社もある。高座結御子神社の祭神は高倉下で、これは尾張氏2代の天香語山の別名ともいう。
 尾張氏1代の天火明が一宮市一帯を開拓し、犬山から春日井あたりを2代の天香語山が開拓したとすれば、尾張国三宮は3代の天村雲が開発を行い、それに伴って神社を建てたという可能性はないだろうか。だからこその三宮ではないのかと。
 だとすれば、日向三代ならぬ尾張三代において尾張国の基礎が築かれたということになるのではないか。
 アメノムラクモといえば、草薙剣の最初の名前は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だったと『日本書紀』本段にある(一書によるとという但し書き付きで)。草薙剣を祀るという熱田神宮の由緒は、アメノムラクモの剣、つまり天村雲その人を祀ったことから来ているという発想は飛躍が過ぎるだろうか。あるいは、天村雲が祖神を祀ったのが元熱田社の始まりだったかもしれない。



記紀における草薙剣を追う


 古くから熱田社は草薙剣を祀る神社と認識されていた。いつからそうなったのかは分からないのだけど、『古事記』、『日本書紀』(以下”記紀”とする)に草薙剣にまつわる話が書かれたことが大きなきっかけだったには違いない。少なくとも奈良時代までには草薙剣の伝説はよく知られるものとなっていたのだろう。
 草薙剣に関しては後世に話がかなり盛られて尾ひれがついてしまっているので、記紀に何が書かれているかをまずはっきりさせておきたい。
『古事記』は、須佐之男が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、十握剣(とつかのつるぎ)でヤマタノオロチの尾を切ったとき、十握剣が折れてしまったので尾を割ってみると都牟刈大刀(むつかりのたち)が出てきたので天照大神に献上し、それが今の草薙大刀(くさなぎのたち)と書く。
 ここで留意しておくべきことは、須佐之男が持っていたのは”剣”で、ヤマタノオロチの尾から出てきたのは”大刀”と書いている点だ(詳しくは後述)。
『日本書紀』は素戔嗚尊が十握剣でヤマタノオロチの尾を斬ると十握剣の刃が少し欠けたので尾を割いて見ていると剣があり、これが今の草薙剣で、一書によると天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といい、日本武尊が草薙剣と名づけたとする。ここでは天つ神に献上したといっている。
 一書の第二でも、ヤマタノオロチの尾を斬るとスサノオの剣の刃が欠けたので見てみると剣があり、ここではスサノオが草薙剣と名づけたと書いている。それは今、尾張国の吾湯市村(あゆちむら)にあって熱田の祝部(はふり)が祀っている神とし、スサノオの剣は蛇麁正(おろちのあらまさ)と名づけて石上神宮にあるとする。
 一書の第三では、スサノオの剣は韓鋤剣(からさびのけん)で、尾を斬るとやはり剣は欠け、草薙剣と名づけたという。それは最初、スサノオが所有していて今は尾張国にあるとする。スサノオの剣については吉備の神部(かむとものお)のところがあると書いている。
 一書の第四は、スサノオの剣は天蠅斫剣(あめのははぎりのつるぎ)といい、尾を斬ると刃が欠けて、中から草薙剣が出てきて、スサノオは自分は所有できないので五代孫の天之葺根神(あめのふきねのかみ)に天に奉じさせたとする。
 注意しなければならないのは、草薙剣の元の名は天叢雲剣というのが必ずしも定説ではなかったということだ。『日本書紀』の本文の中で、一書(あるふみ)にいわくという形で一度語られているにすぎない。そこでは大蛇のいる上に常に雲があったのでそう名づけたと説明されている。
 しかし、一ヶ所とはいえ、草薙剣の元の名が天叢雲剣と呼ばれていたという伝承は素通りできない。上の方でも書いたようにムラクモといえば尾張氏3代天村雲を連想させるからだ。
『古事記』はヤマタノオロチは「高志」から毎年やって来ると書いている。この高志は今の越前・越後・越中などのことで、古くは越国(こしのくに)と呼ばれていた。越後国一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ/web)の祭神は天香山命だ。天火明の子であり、天村雲の父に当たる。
 ここでいう雲というのは重要なキーワードなので頭に入れておいてほしい。越国からやって来る八岐大蛇の頭の上にはいつも雲があって、その八岐大蛇が所有していた剣なので天叢雲剣と呼んだというのは何かを象徴していると考えなければならない。
 天村雲だけでなく、八雲や出雲など、出雲地方とスサノオには雲がつきまとう。八雲から”出る”と出雲となり、三重県には雲出川が流れている。安曇、東雲、雲仙など、雲にまつわる地名は何かを示している可能性がある。
 草薙剣に関して記紀が共通しているのは、スサノオが持っていた剣よりもヤマタノオロチの尾にあったの剣の方が強くてスサノオノの剣は欠けた(折れた)という点だ。これもきっと何かを暗示している。
 それにしても、どうしてヤマタノオロチの”尾”から剣が出てきたのか不思議に思ったことはないだろうか。普通、剣を飲み込んだのなら斬ったときに腹から出てくるはずだ。しかし、どの伝承でも尾から出てきたといっている。
『尾張国風土記』逸文では、ヤマタノオロチの尾を割って出てきた草薙剣を熱田で祀っているから尾張という国号がついたと書いている。しかしそれは逆なのではないか。尾張の剣だったから、ヤマタノオロチの尾を割いたときに出てきたという話が語られるようになったと考える方が自然だ。おそらく、記紀が編さんされた奈良時代の人たちにしたら、この話を読めば尾張の剣ということが言いたいのだなと分かったのだろう。
 いずれにしても、その剣は一度はスサノオのものとなった。にもかかわらず、スサノオは戦利品としてその剣を所有したがらなかったと記紀は伝えている。自分にはその権利がないと思ったのか、畏れ多いというような思いだったのか、自分には不要だと思ったのか。
『古事記』では天照大神に献上したといっているものの、『日本書紀』では単に天に送ったというニュアンスで書かれている。もし尾張氏が天氏だったのならば、その時点で尾張氏のところに戻ったとも考えられる。一時的に越国に奪われていたものをスサノオが取り返したと取れなくもない。
 ただ、そうなるとその後のヤマトタケルの話との整合性が取れなくなるという問題が出てくる。
 ヤマトタケルと草薙剣についても、記紀の内容をまずは把握しておきたい。



草薙剣とヤマトタケル


『古事記』は邇邇芸(ニニギ)が地上に降臨する際、天照大神と高木神はニニギに八尺鏡・八尺勾玉・草薙剣を授けたと書いている。
『日本書紀』の「葦原中国平定」の段の本文に剣や宝物の話は出てこない。一書の第一に八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣の三種の神器を降臨するニニギに授けたと書いている。その他には一書第二に先述の如くお召しになるものが授けられとあるだけで、それ以外の記述はない。
 一書というのはいうなれば異伝のようなもので、そういう伝承もありますよということだ。『日本書紀』が本文に書いていることが一応、正史ということになる。しかし、その異伝を『古事記』は採用して、ニニギには鏡と勾玉と剣を授けたとしている。
『古事記』で次に草薙剣が登場するのはヤマトタケルのところだ。父である景行天皇に東国の荒ぶる神々や従わない人間を平定するように命じられたヤマトタケルは、伊勢の神宮にいた叔母の倭姫(ヤマトヒメ)を訪ね、そこで神宝の草薙剣を授かったとしている。
 相模国の国造にだまされて火攻めにあったときに剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというエピソードが語られるのだけど、『古事記』では天叢雲剣がこの一件で草薙剣と呼ぶようになったという伝承を採用していない。最初に登場したときは都牟刈大刀で、ヤマトタケルに授けられたときはすでに草薙大刀となっていた。
 その草薙大刀をどうして伊勢の神宮のヤマトヒメが持っていたのかという説明もない。
 少し不思議に思うのは、初代神武天皇となる神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)のところで草薙剣が登場しない点だ。
 カムヤマトイワレビコは日向を発って東の大和を目指したものの、白肩津というところで登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)の軍勢に敗れ、敗走中の熊野村で気を失ってしまう。そこで天照大神と高木神は建御雷(タケミカヅチ)に相談したところ、国譲りのときに使った横刀(佐士布都神とも甕布都神とも布都御魂とも)を下ろせばいいということになり、高倉下を通じてカムヤマトイワレビコに渡り、相手軍はひとりでに切り倒されてしまったという。高倉下は天香語山の別名という説があることはすでに書いた。
 このときの剣(大刀)は石上神宮の御神体となっている。
『古事記』は葦原中国平定の際に思兼神(オモイカネ)が伊都之尾羽張神(イツノオハバリ)を推奨し、結局はイツノオハバリの子のタケミカヅチが平定に赴くことになったと書く。伊都之尾羽張の別名を天之尾羽張剣といい、これはイザナミが火の神カグツチを産んだときに火傷で命を落としてしまい、怒ったイザナギがカグツチを斬り殺したときの剣とされる。
 このあたりの関係性が複雑で難しいのだけど、天之尾羽張剣というのは尾張を連想させるのに充分だ。天之尾羽張剣が尾張のものだとすると、タケミカヅチは尾張の子ということにもなる。
 いずれにしても、カムヤマトイワレビコにもたらされた剣は草薙剣ではなくスサノオからタケミカヅチを経由した剣だったことは何か暗示的だ。その剣をもたらしたのが高倉下(天香語山)となると、更に事態は複雑になる。
 神武東征について『日本書紀』は『古事記』よりも詳しく記しているのだけど、基本的な話の展開に違いはない。
 第10代崇神天皇のとき、疫病などで民の半数が死んでしまったため、皇居内に祀っていた天照大神と倭大国魂神(ヤマトオオクニタマ)を外に出すことになり、天照大神を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)に命じて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀り、倭大国魂神を渟名城入姫命(ヌナキイリビメ)が祀るもこちらは上手くいかなかったという。
 ちなみに、『古語拾遺』は記紀が記していない部分を補足するように、このとき草薙剣は豊鍬入姫に託され、あらたに齋部氏(いむべ)に命じて分身の鏡と剣を作らせたと書いている。それが天皇即位のときに使われる神璽(しんじ)となったのだと。
 第11代垂仁天皇の代に、皇女の倭姫(ヤマトヒメ)が豊鍬入姫に代わって祀ることになり、ここから各地を転々として最終的に伊勢に落ち着いたとしているのだけど、草薙剣がヤマトヒメの元にあった経緯については『日本書紀』も書いていない。
 ただ、ヤマトタケルが東征の際に伊勢の神宮のヤマトヒメのところに立ち寄って草薙剣を受け取ったということは記紀で共通している。
 ここでも一説によるととして、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払ってヤマトタケルを助けたので草薙剣と呼ぶようになったという説話が挿入されている。



ヤマトタケル帰還してミヤズヒメと再会する


 ヤマトタケルは東征からの帰りに尾張国のミヤズヒメのところに戻ってふたりは結ばれ、草薙剣をミヤズヒメの元に置いたまま伊吹山の神を退治にしにいって病気になり、伊勢国の能褒野(のぼの)あたりで命を落としたという話も記紀で共通している。細かい部分の違いはあるものの、大筋に違いはない。
 気になるのは、『尾張国風土記』逸文の内容だ。ヤマトタケルはミヤズヒメのところで夜便所に行ったときに腰に下げていた草薙剣を桑の木に掛けて、そのまま忘れて寝てしまい、ふと思い出して取りに戻ったら神々しく光り輝いていて取ることができなかったので、自らの形影(みかげ)としてミヤズヒメに祀るように言ったと書いている。
 各国の風土記は『古事記』編さんと同時期に元明天皇が命じたとされるもので、各国がそれぞれの風土や伝承などをまとめて朝廷に提出したものだ。記紀とは違った伝承も多く書かれていたようだけど、残念ながら『尾張国風土記』は失われて、他の書に引用された部分が逸文として残るのみだ。
 この話からすると、ヤマトタケルは草薙剣を置いていきたくて置いていったのではなく持っていけなかったというニュアンスにも取れる。深読みするならば、どういう経緯か尾張の剣だった草薙剣がいつしか天皇家に奪われていて、それをヤマトタケルが返したということだったかもしれない。それは後の草薙剣盗難事件とも関わってくることだ。
 もうひとつ気になるのが、『常陸国風土記』では倭武天皇・倭建天皇 、『阿波国風土記』逸文では倭健天皇命となっている点だ。ヤマトタケルは天皇という認識があったのだろうか。
 気になるついでに書いておくと、『先代旧事本紀』はヤマトタケルは東夷を退治した帰りに尾張で亡くなったといっている。これはあまり問題にされることがないのだけど、けっこう重要なことだ。『先代旧事本紀』は伊吹山の神征伐についても、ミヤズヒメについても触れていない。そこまで詳しく書く必要を感じなかったというのならそうなのだろうけど、尾張で亡くなったとしていることは引っかかる。
 土地勘がある人なら分かると思うけど、伊吹山を後にして能褒野(三重県亀山市)で力尽きたというのはとても不自然なことだ。伊吹山は琵琶湖の北東にあって、能褒野はそこから大きく東を回った南東に当たる。病気でフラフラになっているのにどうしてこんなところまで歩いてきたのか。これでは大和から遠ざかっている。この先は伊勢だけど、伊勢に向かう必要があったのかどうか。一直線に大和を目指すなら琵琶湖を舟で下った方がずっと早いし楽だ。大津から徒歩で大和に向かうならそれほどの距離はない。能褒野あたりから大和へ向かうには険しい鈴鹿峠越えか伊賀越えくらいしかなかっただろう。それはずいぶん無理がないだろうか。
 そう考えると尾張国で亡くなったという『先代旧事本紀』の方を信じたくなるのだけど、ヤマトタケルには白鳥伝説というのがある。死んだあとに白鳥となって大和に戻っていったというものだ。その後、大和から河内へ飛んでいったので、伊勢、大和、河内にそれぞれ白鳥陵が築かれた。もし尾張国で穏やかに死んだのならそういう伝説は生まれなかったように思う。
 ヤマトタケルは各地の英雄伝説を寄せ集めて生み出した架空の人物だという人がいるけど、そんなことはあり得ない。ヤマトタケルの死を知った景行天皇や妃、皇子たちは激しく嘆き、能褒野に駆けつけた様子が記紀に書かれている。そのとき詠んだとされる四首の歌は、歴代天皇の大御葬(おおみはふり)でずっと詠まれてきた。昭和天皇の大喪の礼のときもだ。
 ヤマトタケルは我々が考えている以上に大きな秘密がある。それはおそらく、尾張氏にも深く関わることだ。
『日本書紀』で次に草薙剣が登場するのは草薙剣盗難事件のところだ。その間の熱田社創建については書かれていない(『古事記』は推古天皇まで)。



ヤマトタケルの死から新熱田社へ


『尾張国熱田太神宮縁起』と題された熱田社の縁起書がある。
 寬平2年(890年)10月15日の日付があり、貞観16年(874年)に熱田社別当だった尾張清稲なる人物が書いたものを、890年に国司の藤原村椙が加筆訂正したとされているものだ。内容に矛盾があることから鎌倉時代初期成立ではないかともされているのだけど、熱田社創建縁起はこの書を元に語られることが多い。
 平安時代から鎌倉時代にかけては神仏習合が進んで仏教勢力が勢いを増して神社関係はそれに押されていた時期で、劣勢を挽回すべくこういった縁起書のたぐいが盛んに作られたことを考えると、熱田社に関する由緒もかなり割り引いて読む必要がある。だいぶ話を膨らませている可能性が高い。
 この書だけでなく、中世から近世にかけて多く書かれた熱田社に関する縁起書もそうだ。少なくとも書かれている内容を鵜呑みにするのは危険だ。
 それはともかくとして、『尾張国熱田太神宮縁起』によれば熱田社創建までのいきさつは以下のようになる。
 景行天皇40年、天皇の命を受けたヤマトタケルは建稲種(タケイナダネ)の案内で氷上邑(火高火上)に立ち寄り、そこでタケイナダネの妹の宮酢媛(ミヤズヒメ)に出会う。そして契りを結び、長く逗留したとしているのだけど、これは記紀にはない話だ。
 東征を終えたヤマトタケルは氷上邑のミヤズヒメの元に戻り、このときも長くとどまって穏やかな日々を過ごしたと同書は語る。
 伊吹山に荒ぶる神がいると聞いたヤマトタケルは草薙剣をミヤズヒメに預けたまま伊吹山に向かい、暴風雨にやられて体調を崩し、尾張国に戻ろうと鈴鹿山を越えたあたりで重体となり、ミヤズヒメに預けた草薙剣のことを思って歌を詠い、鈴鹿川の中瀬で命尽きたという。
 ヤマトタケルは長く尾張にとどまったということと、鈴鹿山を越えて鈴鹿川の中洲で亡くなったというのは記紀にはないオリジナルなものだ。
 ただ、これもちょっと信じがたい。琵琶湖北東の伊吹山から鈴鹿峠を越えて尾張を目指すというのはルートとしてあり得ないのではないか。尾張に戻るなら、後に鎌倉街道や旧東海道が通った北回りを行くのが自然だ。関ヶ原から垂井、大垣に進んで揖斐川あたりで川を下った方がずっと早い。
 このあたりの経緯について記紀ではどう書いているかというと、『古事記』は伊吹山の山辺で白い猪が出てきて、これは神の使いだろうから帰りに殺せばいいだろうと言って山に登ると雹(ひょう)に降られて苦しめられ、当芸野(たぎの)あたりで調子が悪くなり、尾津岬で歌を詠い、能煩野(のぼの)で例の有名な「倭はくにのまほろば」という歌と他二首を詠い、そこで亡くなったとする。
『日本書紀』はこう書く。五十葺山(胆吹山)でヤマトタケルの前に現れたのは大蛇で、神の使いだろうから放っておけばいいといい、山に登ると雹に打たれ、霧で道に迷い、酔ったようになったので山の下の泉で水(居醒の清水)を飲んだら正気に戻り、尾張へ戻ったもののミヤズヒメの家には入らず、伊勢に向かい尾津浜で食事を取って歌を詠い、能褒野に到ったところで病気がひどくなり、俘(とりこ)にした蝦夷を伊勢の神宮に献上し、吉備武彦を遣わして天皇に報告させ、能褒野で亡くなったのだと。
 ヤマトタケルは伊吹山の荒ぶる神を退治にしにいって、そこで戦いに負けて命を落としたと思い込んでいたらそうではなかった。そういう勘違いをしている人は私だけではないと思うのだけど、記紀を読む限り、ヤマトタケルは伊吹山の神と戦っておらず、神が姿を変えた白猪や大蛇を神の使いと勘違いしたため山の神の怒りを買い、雹に打たれて体調を崩し、何故か伊勢方面へと向かって能褒野で死んだという経緯のようだ。
 つまりヤマトタケルは病死だ。戦に負けたわけではないし、草薙剣を持ってなかったから死んだわけでもないのだ。山を甘く見て軽装で山登りして風邪を引いて肺炎になって死んでしまったみたいなものだ。英雄の最期としてあまりにあっけないということで後世の人たちが脚色したということだろうか。
 それにしてもヤマトタケルはどうして伊吹山からまっすぐ大和を目指さず東を大回りして伊勢方面へ向かったのだろう。『日本書紀』では尾張に帰ったのにミヤズヒメのところへは戻らなかったとしている。それは草薙剣を取り戻す意志はなかったということだ。
 共通しているのは能褒野で亡くなったということで、そこに何か秘密というか言わんとしていることがあるのだろう。能褒野には何があるのか。伊勢方面へ向かった理由は何だったのか。
 ヤマトタケルが亡くなったのは景行天皇43年という。東征に出発したのが景行天皇40年なので、3年間の出来事だ。亡くなったときは30歳だったと『日本書紀』は書いている。『日本書紀』はその後のミヤズヒメや尾張については何も記していない。
『尾張国熱田太神宮縁起』では、ヤマトタケル亡き後、ミヤズヒメは独り身を守り、氷上邑で草薙剣を祀ったという。その後、老いたミヤズヒメは身近な人々を集めて自分はもう祀れないからどこかに社を建ててそこで祀って欲しいと頼み、熱田の地がいいだろうということで、熱田社が建てられたとしている。
 その地には楓(かえで)の木があり、その木は自ら燃えて水田に倒れても燃え続けたため熱田と呼ぶようになったという熱田の地名由来も記している。
 ミヤズヒメが亡くなると、暮らしていた館に祠が建てられ、氷上姉子神社となったとしている。
 こういった経緯から、火上山の氷上姉御神社は元熱田社というような言われ方をしている。しかし、この話をそのまま信じていいのだろうか?



ミヤズヒメは本当に火上山にいたのか


 火上山周辺の遺跡を見てみると、縄文時代の氷上山貝塚群斎山貝塚群、旧跡時代の石器が見つかった廟所・平野遺跡、弥生時代の菩薩遺跡姥神遺跡などがあるものの、尾張国国造の乎止与(オトヨ)やタケイナダネがいた尾張の本拠地とするには弱いような気がする。
 古墳でいうと、西隣の東海市にある兜山古墳が4世紀末のものとされ、尾張では最古級の部類に入る。齋山稲荷神社古墳も4世紀までさかのぼる可能性を指摘されているものの、いずれも小型の円墳だ。
 古い前方後円墳でいうと、守山区志段味の東谷山の麓に白鳥塚古墳がある。4世紀前半とも後半ともされ、愛知県では3番目に大きな前方後円墳だ。白鳥塚の名が示すように、ここにもヤマトタケルの伝承がある。
 東谷山の山頂には尾張戸神社古墳があり、これも4世紀のものとされる。他には中社古墳南社古墳など、志段味地区は古墳密集地帯となっており、古墳時代の尾張氏の拠点のひとつが守山区にあったと考えてよさそうだ。
 尾張戸神社はミヤズヒメが天火明を祀る社を勧請したのが始まりという話があり、一緒に祀られる天香語山(高倉下)は庄内川を挟んで北の高座山に鎮座した後、川南の東谷山に移ったという気になる言い伝えもある。
 ミヤズヒメの館が実際はどこにあったにせよ、熱田社を建てて以降、中心が熱田に移って、そこで勢力を拡大して、やがて東海地方最大の前方後円墳である断夫山古墳を築くに到ったということは考えられる。ただ、熱田の北には高蔵(高蔵遺跡)があり、そこに古くからの勢力がいたことを考えると、そのあたりはどうなのかとも思う。
 上の方に書いたように、人の流れは一方通行ではなく、一度出ていった勢力が戻るということもあっただろうか。
 ひとつ頭に入れておく必要があるのは、弥生時代から古墳時代にかけて、火上山と北の笠寺台地、熱田台地は海で隔てられていたということだ。後に陸地化して、今はその間を天白川が流れている。この天白川流域というのも大きな鍵を握っていることを認識しておかないといけない。
 古代における川は今でいう高速道路のようなもので、高速移動するには欠かせない交通手段だった。川は生活にも必要不可欠であり、川湊は必ず押さえなくてはならない。川の流路は時代によって大きく移り変わっているのだけど、名古屋北部は庄内川、南部は天白川が非常に大きな役割を果たしていた。



熱田社はどうして熱田の地だったのか


 草薙剣を祀る場所としてどうして熱田が選ばれたのか。
 当時の熱田は熱田台地の先端で、熱田台地は海に向かって突き出す細長い岬のような恰好をしていた。
 古くは蓬莱島、江崎(会崎)などとも呼ばれていたことからもうかがい知ることができる。
 熱田の地がどうして熱田と名づけられたのかも気になるところだ。『尾張国熱田太神宮縁起』がいうように楓の木が勝手に燃えて田んぼに倒れても燃え続けて田んぼが熱くなったからなどということを本気で信じる人はいないだろうけど、それだけよく分からないということだ。
 最初から「アツタ」だったかどうか。「アタ」だったかもしれず、それがアッタ、アツタに転じたのではないかと個人的には考えている。もしくは、ア-ツタだったか、ア-ツ-タだったか。
 平安時代の『和名抄』には厚田郷が出てくるのだけど、これが熱田のこととは限らない。太毛郷を熱田とする説もある。
 熱田の”熱”は古くは、以下のように書いたという。



 生丸
  火



 幸丸
  火



 丸い火というと日の丸を思い浮かべるけど、尾張氏にはどこか火がつきまとう。火上山もそうだし、尾張氏の祖は天火明だ。熱田社よりも古いのではないかとされ、今は熱田神宮境内摂社となっている日割御子神社は火神を祭神としたと熱田社縁起はいっている。
 火と日は同義語、もしくはかなり近い認識が古代にはあったのではないだろうか。
 尾張の地名由来についてもう少し書くと、もともとはヲハリだっただろうか。オトヨなども本当はヲトヨだったはずだ。
 尾張の由来についても諸説あってはっきりしない。例のヤマタノオロチの尾から剣が出てきたからとか、地形が尾が張っているようだからとか、ハリは開拓するという意味の「治」から来ているなどだ。しかし、どれも決め手に欠けて定説とはなっていない。
 尾張氏15代の尾張弟彦が応神天皇に尾治連姓を賜ったとされることから、尾張と尾治などが混在するようになる。しかし元から尾張という字を使っていたように思う。
 誰だったか忘れてしまったのだけど、尾治姓を尾張に戻したいと願い出て許されたという話をどこかで読んだ。それだけ尾張という字が大事だったのだろう。 
 尾張を分解すると、尸・毛・弓・長になる。
 尸は死体を意味する「しかばね・かばね」や祖先を祀るときに神霊の代わりとなる人を意味する「かたしろ」、政(まつりごと)を意味する「つかさどる」と読む。
 毛は髪の毛のような毛や、わずかなもの、もしくは単位としての意味の他、大毛や上毛野のように地名として使われることがある。
 はっきりとは言えないのだけど、「ヲハリ」という音と尾張という字には二重の意味があるような気がする。天氏ではなくなって終わった一族ということでオワリ氏を名乗ったなどという自虐的なシャレではないだろうけど。
 地名が先か氏族名が先かでいうと、尾張の場合は氏族名が先だったと私は考えている。尾張氏をよそ者ではないと思っているのがその根拠のひとつだ。
 名古屋の地名は、熱田台地が細長い地形で長屋と呼ばれていたのが転じたという説がある。
 愛知の由来は年魚市潟(あゆちがた)や『古事記』にも出てくる吾湯市村(あゆちみら)から来ているとされるも、「あゆち」の由来についてはよく分かっていない。



元熱田社はどうなってしまったのか


 熱田に草薙剣を祀る社が建てられたとき、元熱田社はどうなってしまったかということについて考えてみたい。
 熱田社の縁起は熱田社以前の元熱田社について一切語っていない。まったく無関係だったのか、それとも口をつぐんでいるだけなのか。あるいは、語れない事情があるのか。
 ヤマトタケルやミヤズヒメ、草薙剣の話をどこまで事実と捉えるかは難しいところなのだけど、景行天皇を基準に考えると、どうしても3世紀から4世紀のことにならざるを得ない。実はヤマトタケルはもっと古い時代の人で、景行天皇の皇子ではないという可能性もある。たとえば1世紀とか2世紀の人とした方が話としては辻褄が合いやすい。
 記紀がいうようにヤマトタケルは景行天皇の時代の人とすると、現熱田社の創建は4世紀ということになる。その場合、元熱田社は新熱田社に併合されたのか、それとも消え去ってしまったのか。
 尾張氏が自分たちの祖神を祀る社を建てなかったということなどあり得ない。祖神を祀るとしなくても、何らかの祀りは行っていたはずで、神社創建に到らなかったということは考えにくい。その元熱田社ともいうべき神社はどこへ行ってしまったのか? 尾張国一宮の真清田神社がそうだったとは思えない。
 考えてみると、ヤマトタケルがもたらした草薙剣を尾張氏がこぞって祭り(祀り)上げるというのもおかしな話だ。ヤマトタケルは天皇の皇子とはいえ、尾張国や尾張氏からしたら通りすがりの人に過ぎない。ミヤズヒメが妃となったとはいっても、正室を意味する皇后になったわけではない。ふたりの間に子供がいたという話もない。
 ヤマトタケルがヤマトヒメから草薙剣を預かった時点では、その剣は天皇即位に必要な三種の神器ではなかったのではないか。『古語拾遺』はトヨスキイリヒメが天照大神を外で祀るときに一緒に預かったといっているけど、それが本当とは限らない。
 もし三種の神器なら、実戦で使う使わないは別にしても、天皇ではない人間が気軽に賊退治に持っていけるはずもない。もし持てるとすれば、ヤマトタケルが天皇だった場合だけだ。
 話を戻すと、元熱田社について、熱田社が語らないだけでなく、歴史に携わる人の誰も元熱田社のことを問題としていないのは不思議だ。尾張氏について語るなら元熱田社についても語る必要がある。
 もしかすると、元熱田社は草薙剣以降の新熱田社によって上書きされてしまったのかもしれない。二重写しとなって滲んでしまったような部分が見え隠れしているのはそのせいではないか。写真にたとえるなら多重露光のようなものだ。
 そのあたりを上手く説明するのは難しいのだけど、尾張氏の祖神を祀っていたところに草薙剣を祀らなければならなくなって、尾張氏の祖神も捨てきれず、草薙剣が三種の神器に格上げされたことで尾張氏祖神の影が薄くなってしまったといったところだろうか。しかし下地は完全には消えていないように見える。
 この後の熱田社は自分たちの思惑を超えて思いがけない方向へと進んでいくことになる。キーとなるのが、天智・天武・持統天皇だ。



天智・天武・持統天皇、問題はこの三人だ


 ここで簡単に歴史のおさらいをしておきたい。
 622年、第33代推古天皇の摂政を務めていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去したあたりから事態が大きく動くことになる。
 626年、蘇我馬子をあとを子の蝦夷が継いで臣(おみ)となり、628年に推古天皇が崩御。後継者争いが起こり、結局は第34代舒明天皇が即位して蘇我蝦夷が政治の実権を握った。
 641年に舒明天皇が崩御し、皇后だった第35代皇極天皇(のちに重祚して第37代斉明天皇に)が即位した。
 この後、蘇我氏はますます勢いを強め、それを見かねた中臣鎌足が中大兄皇子とともに蘇我氏を倒したのが乙巳の変とされる。645年のことだ。
 皇極天皇は第36代孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となった。
 この頃、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が争いを繰り広げていて日本も否応なく巻き込まれる恰好になった。
 660年に百済が滅亡すると、朝鮮半島の均衡は崩れ、日本は百済を救済すべく唐・新羅連合軍と戦ったのが白村江の戦いだった。それが663年のことだ。
 しかし、大敗を喫し、このとき国を失った大量の百済難民が渡来してくる事態となる。戦後処理と称して、この後、唐から大勢の人間が日本に来るのだけど、そのとき何らかの条件を出されたに違いない。漢字を使用するように強要されたのもこのときだったとも考えられる。
 孝徳天皇亡き後、皇極天皇はもう一度即位して第37代斉明天皇となるのだけど、白村江の戦いの直前に急死している(660年)。しかし、中大兄皇子が第38代天智天皇として即位するのは668年のことで、その間、皇位は空白だったことになる。いろいろ理由は言われているのだけど、即位できない事情があったのだろう。反対が多かったのではないかと思う。
『日本書紀』は天智7年春1月3日に即位したと書き、ある本では天智6年3月即位とあるともいっている。
 皇后は古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子)の娘・倭姫王(やまとひめのおおきみ)で、子供はいなかった。
 蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘との間に、大田皇女(おおたのひめみこ)、鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)が生まれ、このふたりは大海人皇子に嫁いだ。大海人皇子は後の第40代天武天皇で、鸕野讚良皇女が第41代持統天皇となる。
『日本書紀』は中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)を同母兄弟としているけど、本当は違うのではないかというのはよく言われることだ。実の弟に自分の娘4人を嫁がせるというのは確かに普通ではない。ただ、ここではこれ以上掘り下げない。
 天智天皇として即位した668年(天智7年)に草薙剣盗難についての一文が挿入されている。沙門の道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げた。しかし途中で風雨にあって道に迷い戻ったとだけ書いている。
 沙門(しゃもん)というのは僧と訳されることが多いのだけど、本来は修行者という意味だ。寺に属する僧侶とは少し違う。この道行が新羅に逃げたとあることから新羅の沙門とされがちなのだけど、『日本書紀』はそうはいっていない。道行が新羅に逃げて風雨にあって迷って戻ったと書いているだけだ。新羅の沙門と決めつけることはできない。
 更に言えば、ここではどこから盗んだかも書いていない。熱田社の草薙剣とはいっていないことから、朝廷、もしくは別の場所にあった可能性も考えられる。それが本物か分身かは分からない。
 668年といえば記紀が編さんされた700年代初頭から見てわりと最近の出来事だ。古伝承というわけではないから、まったくの作り話とも思えない。そういうたぐいの出来事があったことはあったのだろう。
『尾張国熱田太神宮縁記』などの熱田社の縁起書がここから話を膨らませて物語を作ったため、話の方向性が変わってしまったというのがある。清雪門を通って逃げたからこれ以降は開かずの門になったとか、伊勢国から海を渡ろうとしたら剣がひとりでに熱田社に戻ったのでもう一度盗み出して摂津国から舟を出したら難破したのであきらめて戻そうとしたら剣が道行から離れず自首したなど、小説のようになってしまった。道行は実は新羅王の王子ということが分かり、知多に法海寺(web)という寺を開いたなどという話さえ作られた(法海寺縁起)。
『古語拾遺』も草薙剣盗難事について触れていて、そこでは草薙剣は天璽(てんじ/皇位のしるし)で尾張熱田社にあって賊が盗もうとしたけど境内から出ることができなかったと書いている。
 ただ、『古語拾遺』は平安時代に書かれたもので、『古事記』、『日本書紀』を土台としているため、飛鳥時代の668年当時の状況を正しく理解していたかどうかという問題がある。
 このとき熱田社にあった草薙剣はまだ三種の神器ではなかったのではないかと個人的には考えている。この盗難事件こそが尾張氏所有の神剣を三種の神器にしようとした企みだったのではないかと。
 ここで気になるのはやはり、『日本書紀』が新羅と名指ししていることだ。新羅といえば百済を助けようとして日本が戦った相手だ。しかも、668年は新羅が唐とともに高句麗を倒して朝鮮半島を統一した年に当たる(唐を完全に追い出したのは676年)。日本に勝った戦利品として何か象徴的なものを手に入れようと新羅が考えた可能性もなくはない。それが草薙剣だったとすると、それはそれで重要な意味を持つことになる。
 天智天皇の次の天武天皇、持統天皇は親新羅政策を採ったことを考えると、そのあたりも裏で関係しているのかもしれない。
 この後、草薙剣は『日本書紀』において、また唐突な登場をすることになるのだけど、その前にまず壬申の乱について見ておかなければならない。



壬申の乱と隠された尾張氏の貢献


 671年、天智天皇は病の床にいた。各地の寺社で祈祷などが行われるもよくなる気配は見えず、天智天皇は弟の大海人皇子を枕元に呼んで天皇位を継いで欲しいと打診する。しかし、大海人皇子は自分は剃髪して僧となり吉野で修行して天皇のために祈りますと固く辞退した。もしそこで受けていたら殺されていただろうことを察してのことだとされる(『日本書紀』は蘇我臣安麻呂が返答に気をつけた方がいいと忠告したとする)。天智天皇は太政大臣としていた息子の大友皇子を次の天皇にしたいと考えていた。頼りにしていた中臣鎌足はこの前年に死去している。
 大海人皇子が吉野に去ったとき、虎に翼をつけて野に放つようなものだとある人はいったという。
 同年12月3日(672年1月7日)、天智天皇崩御。
 この後、大友皇子が即位したとはどこにも書かれていないものの、明治になって第39代弘文天皇として追号された。即位しなかった理由はないのでしたと考えるのが当然だ。
 吉野にいる大海人皇子の元にある報告が届く。尾張・美濃の国司に天智天皇の陵を作るから人を集めるようにという命令が下り、それらに武器を持たせているというのだ。他にも不穏な動きが表れたため、大海人皇子は挙兵を決意したと『日本書紀』は書く。しかし、実際のところ仕掛けたのはどちらが先だったかは分からない。『日本書紀』が大友皇子が即位したことを書かなかったのは、大海人皇子を悪者にしたくなかったことの表れだろう。
 このときの大海人皇子は当然ながら兵を持っているわけではない。身の回りの世話をする人間が多少いたくらいで、吉野の僧兵といったものもこの時代はまだいない。ゼロから兵を集めて正規軍の近江朝廷方に勝ったということは、あらかじめ根回しをしていたと考えるのが自然だ。それは同時に、それだけ大勢の勢力が近江方(天皇側)ではなく大海人皇子側についたということを意味する。勝算もあるかないか分からないのに、それは何故だったのか。
 まずは不破の関を押さえるように命じ、大海人皇子も吉野を脱した。不破関は今の岐阜県関ヶ原にあって、ここと南の鈴鹿関をふさいでしまえば、西国と東国を分断することができた(天武天皇として即位した後、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所を設置している)。
 天下分け目の関ヶ原というの1600年の戦いだけでなく、この壬申の乱でもそうだったのだ。戦いは東国対西国の様相を呈すことになる。
 草壁皇子と忍壁皇子、舎人、女性陣など30人余りで吉野を出た大海人皇子一行は、伊勢国を経て美濃国へと到る過程で、伊賀、伊勢、熊野、美濃などの協力を取り付けることに成功する(名張の郡司は出兵を拒否した)。
 一行が不破に到ったとき、尾張国司の小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が2万人の兵と共に帰属したという。大海人皇子は喜んで、各地の守りにつかせたと『日本書紀』はいう(2千人だったという説もある)。
 しかし、戦が済んで、近江方の処分を発表する段になったとき、小子部連鉏鉤は山に隠れて自殺していたことが知らされる。大海人皇子は、鉏鉤は功労者で罪なく死ぬということは何か謀(はかりごと)があったのだろうかといぶかったといっている。
 これは後世の人間の勝手な解釈なのだけど、尾張の国司だった小子部連鉏鉤が引き連れていたのが、近江方が命じた天智天皇陵を作るためと称して武器を持たせて集めたという軍勢だったのではないかと考える。
 しかし、兵を集めるのに時間がかかかって不破関に着いたときにはすでに大海人皇子軍が陣取っていたため、なし崩し的に大海人皇子側につくしかなかったのではないか。
 それにしても尾張国はこの当時、尾張氏が強い力を持っていたところで、朝廷から派遣された国司などが尾張国で2万人も集められたとは思えない。せいぜい2千人といったところではなかったか。
 人数はともかく、結果的にこれが勝敗の行方を左右することになった。もし鉏鉤の軍勢が先に不破関を押さえていたら、大海人皇子は東国との連絡を絶たれ、近江方と挟み撃ちになって負けていたはずだ。そのことに罪の意識を感じた鉏鉤はひとりで隠れて自殺したとすれば筋が通る。
 東国から兵を集めることに失敗した近江方は、大海人皇子が東国を味方につけたという知らせに動揺し、逃げ出す者もいたという。大和と近江の二方向から進軍した大海人皇子隊は近江方を蹴散らし、琵琶湖の瀬田橋の戦いで大勝して勝敗は決した。翌日、大友皇子が首を吊って自殺したことで乱は終結した。
 673年、大海人皇子は天武天皇として飛鳥で即位した。
『日本書紀』が書いていないことがいくつかある中で、尾張に関係することを二つ追記しておきたい。
 ひとつは山口の戦いだ。
 那古野台地の北縁、その東部に山口町がある。今では信じがたいのだけど、名古屋城ができるまでの那古野台地北一帯は起伏の激しい森林地帯だった。名古屋城下を作るときに加藤清正らが山を削って谷を埋めて平らにしたのだけど、それ以前は名古屋山などと呼ばれていた。山口はその山の入り口という意味で呼ばれていたところだ。
 ここで大海人皇子軍と大友皇子軍が激戦を繰り広げたことはあまり知られていない。壬申の乱の戦の舞台は吉野だけではなかったのだ。
 今は民家の庭に取り込まれる恰好になっている「おとも塚」というものがある。これは戦で命を落とした大友軍兵士を葬った塚だと伝えられている。
 もうひとつは『続日本紀』(797年)の尾張大隅に関する記述だ。
 そこには吉野を出た大海人皇子に尾治大隅(尾張大隅)が私邸を行宮として提供して軍資金を出したと書かれている。行宮というのは天皇の仮住まいのことだ。
『日本書紀』にはこの尾張大隅の名は出てこない。行宮があったのは美濃国野上だったというのが有力な説なのだけど、『続日本紀』がわざわざこんな嘘を書くとも思えない。
 天智天皇から天武、持統天皇に到る間、どうも尾張氏について口をつぐんでいるような気がしてならない。嘘をいっているのではなく、あえて触れないようにしているようなのだ。
 即位後、早い段階で伊賀国の紀臣阿閉麻呂らに壬申の乱の恩賞を与えているのに尾張氏の功績には触れていない。ずっと後になって、伊賀、伊勢、美濃、尾張に対して調か役のどちらかを免除するということと、八色の姓で他の氏族と共に連の姓を与えたとしていることくらいだ(684年)。尾張氏に対しては何ら特別のことをしていない。
 その尻ぬぐいというか埋め合わせをしたのは持統天皇だった。持統天皇10年(696年)になってようやく天皇は尾張宿禰大隅に直広肆(ぢきくわうし)の位と水田40町を与えている。
 持統天皇は文武天皇に譲位して上皇になった最晩年の702年に、三河への長い旅に出ている。10月10日に三河に到り、11月25日に戻り、12月22日に崩御しているので死の直前の旅だ。
 帰りに尾張、美濃、伊勢、伊賀に立ち寄ってそれぞれで恩賞などを与えている。しかし、旅の目的はよく分かっていない。尾張、美濃、伊勢、伊賀は壬申の乱に功のあった国ではあるのだけど三河はそうではない。三河ではひと月ほど滞在したようだ。
 尾張では尾治連若子麻呂と牛麻呂に宿禰の姓を与え、国守の多治比真人水守に封一十戸を与えたと『続日本紀』は書いている。
 公式記録にはないのだけど、このとき熱田社と氷上姉子神社に寄って多大な寄進をしたという伝承がある。何故そのことを『日本書紀』や『続日本紀』は書かなかったのか。
 持統天皇時代の690年に、氷上姉子神社が火上山の山頂から少し東の現在地に移されている。これは持統天皇が即位した年だ。このときも何かあったかもしれない。
 天武・持統天皇には公にできない尾張氏との関わりがあったのではないかというのは勘ぐりすぎだろうか。
 天武、持統などの天皇名は生前の呼び名ではなく漢風諡号といわれる死後に贈られる諡(おくりな)だ。奈良時代の大学頭・文章博士だった淡海三船(おうみのみふね)が元正天皇まで一括して選んだとされている(神宮皇后も)。
 この淡海三船(722-785年)は壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗れた大友皇子のひ孫に当たる(尾張介・三河守を歴任しているのが気になるけどたまたまか)。
 淡海三船が歴代天皇に関してどの程度の知識と公平性でつけたのかは分からないのだけど、”天”の字を持つのは天智天皇と天武天皇しかいない。一方が天の智、一方が天の武となると、象徴的な意味で対比させたと考えていいだろう。
 和風諡号はそれぞれ、天智が天命開別天皇(あめみことひらかすわけのみこと)、天武が天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのみこと)となっている。
 他に天から始まる和風諡号を持つのは、第35代皇極天皇の天豊財重日足姫天皇、第36代孝徳天皇の天万豊日天皇、第45代聖武天皇の天璽国押開豊桜彦天皇、第49代光仁天皇の天宗高紹天皇がいる。
 天智・天武天皇が”天”の字を自ら欲したかどうかは分からない。天といえば天氏だった尾張氏を思い起こさせる。
 天武天皇の大海人皇子の大海人は海部(海人)氏一族の凡海氏(おおしあまうじ)が養育したことから名づけられたとされる(天武天皇崩御後の殯で最初に幼少時のことを語った凡海麁鎌は大海人皇子の乳兄弟とされる)。海部氏は尾張氏一族だ(海部=アマ=天)。
 尾張氏は天武天皇の味方であり後ろ盾ともいえる存在なのに、それを大っぴらにできなかった理由があるのではないかと私は考えている。
『日本書紀』が伝える天武天皇の病気の要因が草薙剣の祟りと出たということはそのあたりのことと無関係とは思えない。



天武天皇がやりたかったこととやったこと


 天武天皇は歴代天皇の中で非常に異質な存在だ。クーデターや暗殺によって天皇位についた天皇は何人かいるけど、大がかりな戦争によって皇位を得たのは天武天皇しかいない(初代神武天皇は例外だ)。
 他の氏族を遠ざけ、皇室の人間を中心に政治を行うことを皇親政治といって天武から聖武天皇まで行われたのだけど、天武ほど徹底した天皇はいない。大臣を置かず、天皇に権力を集中させた。ほとんど独裁状態だ。
 これは必ずしも悪いことではなくて、権力者が有能であればかえって上手くいく面も多い。実際、天武天皇場合はそれが成功した。
 即位期間は16年ほどと長くはなかったものの、この間に行った功績は大きい。律令による中央集権がここから加速し、政治、歴史、文化などを整備し、天皇号や日本という国号を最初に正式採用したのは天武天皇とされている。伊勢の神宮を皇室の最高神として整えたり、天皇即位の大嘗祭を制度化し、神宮の式年遷宮を始めたのも天武だ。『古事記』、『日本書紀』の作成も天武の発案だし、神道だけでなく仏教についても国の管理下に置いた。
 天武天皇があれほどのことができたのは、やはり戦争によって皇位を獲得したことが大きかっただろう。それまである意味では畿内ローカルだった朝廷が、壬申の乱の戦によって全国区になったという言い方ができるように思う。天皇の存在感はこれを機に大きく増すことになった。
 これらの一連の動きが地方に与えた影響は甚大だったに違いない。中央が強くなれば相対的に地方は弱くなる。豪族たちの権利は弱められ、尾張氏ももちろん例外ではなかっただろう。中でも尾張氏に対する天武の態度というのは不自然で違和感を覚える。意図的に無視しているような気がしてならない。壬申の乱であれだけ貢献しているにもかかわらずだ。
 草薙剣返還騒動はその反動だったのではないか。
『日本書紀』はこう書く。
 天武14年(685年)9月24日、天皇が病気になったので、三日間、大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経(ずきょう)させ、三寺に稲を納めた。
 この後、国内外の多くの臣下に対して贈り物や官位などを賜り、宴を開いたといった記事が続く。
 朱鳥元年(686年)5月24日、天皇の病が重くなったので、河原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させた。
 この月、勅をして左右の大舎人らを遣わし、諸寺の堂塔を掃き清めさせた。また全国に大赦をし、獄舎はすっかり空になった。
 6月10日、天皇の病を占うと、草薙剣の祟りがあると出た。即日、尾張国熱田社に送って安置させた。
 9月9日、天皇の病ついに癒えず、正宮で崩御した。
 天皇の病の原因を占ったところ草薙剣の祟りと出たため、尾張国熱田社に「送って安置させた」といっている。前後の説明がないので詳しいことは分からない。
『日本書紀』の情報は断片的だ。だから、熱田社縁起などはその間の事情を想像で補って勝手なストーリーを作っている。そのことに気をつけなければいけない。『日本書紀』がいっているのは、668年に沙門の道行が草薙剣を盗み出して新羅に逃げようとしたけど失敗して、686年に天武天皇の病気の原因を占ったら草薙剣の祟りと出たのでその当日に尾張国熱田社に送ったということだけだ。
 素直に考えれば、道行から取り戻した草薙剣は天皇の元にあり、18年後に熱田社に返されたと考えられる。668年は天智天皇が即位した年であり、686年は天武天皇が崩御した年だ。
 けれど考えてみるといろいろおかしなことがある。草薙剣盗難事件は天智天皇のときに起きた出来事で、大海人皇子は関わっていないだろう。天武天皇の病気がいよいよ重くなってから占ったのも不自然だ。病気を発症した前年の9月の時点で占っていてもよかっただろうに。
 5月に天武天皇が重体となり、6月に占ったということは、それを行ったのは鸕野讚良(持統天皇)の可能性が高い。つまり、草薙剣を熱田社に渡す判断は鸕野讚良のものだったのではないかということだ。「返還する」ではなく「送り置く」という表現がそれを暗に語っているように思う。
 この後、皇位継承でかなりごたついて、最終的には天武の皇后だった鸕野讚良が第41代持統天皇として即位することになる。天武天皇にはたくさんの皇子がいたので、通常であれば皇后即位というのはあり得ないのだけど、結果的にはそうなった。このことも後の歴史に大きな影響を与えることになる。
『日本書紀』は持統天皇即位について、物部麻呂朝臣が大楯を立て、神祇伯の中臣大嶋朝臣が天つ神の寿詞を読み、忌部宿禰色夫知が神璽の剣・鏡を皇后に奉ったと書いている。
 剣と鏡を神璽(しんじ)としつつ、勾玉については触れていない。剣や鏡についても具体的な名前や説明がなく、この剣は草薙剣ではない可能性が高い。ということは、この時点ではまだ三種の神器が皇位に必要不可欠という概念はなく、草薙剣は三種の神器ではなかったということではないのか。もし草薙剣が天皇位に必要不可欠なものであれば、天武天皇亡き後に取り返せばよかった。それくらいの力がこのときの天皇にはあったはずだ。しかし、その後も草薙剣を取り返そうとした天皇は現れなかった。更に言えば、熱田社は天皇ゆかりの神社ですらなかったらしいのだ。



草薙剣返還、そのとき熱田社は


 草薙剣が突然戻ってきた熱田社がどうだったかというと、これがかなり慌てた様子だったことが伝わってくる。本社では受け入れ態勢が整っていないということで、一時的に置いておく場所が必要となった。置かれたのは尾張氏一族で祝部の田島氏の邸宅だったという。
 草薙剣を安置しておく部屋を影向間と呼んで、そこで祀っていたらしい。
 影向(ようごう)というのは、神仏が仮の姿をとって現れることをいう。権現(ごんげん)は神が仏などの姿を借りて現れることをいうのに対して、影向はもっと広い意味で神仏が現れることをいい、姿を見せないこともある。
 草薙剣が熱田社に戻された後も影向間での祀りは続き、後に影向間社という社が建てられた。熱田神宮の境内と境外に小さな社があり、ほとんど気にする人はいないのだけど、今でもそこは熱田の神の避難所ということになっている。
 熱田神宮では酔笑人神事(えようどしんじ)というちょっと変わった神事が行われている。5月4日の午後7時。白装束の16人の神職がおっほっほっほ、わっはっははと笑うというものだ。祝詞を読むでもなく、ただ暗闇の中で神職たちが声を出して笑うだけだ。
 これは草薙剣が戻ってきたことを喜んだ故事にちなむものといい、天武天皇崩御からほどなくして始まり、今に伝わっているとされる。大っぴらには喜べなかったので、夜になって暗いところでこっそり笑い合うというものだったようだ。尾張氏や熱田社側も天武天皇に対しては含むところがあったということだろう。
 草薙剣が戻ったことに驚き喜びはしただろうけど、同時に困りもしたのではないかと想像する。草薙剣盗難事件が本当にあったかどうかは何とも言えないのだけど、一度奪われてそれが天皇の元にあるとなれば、もう戻ってくることはないとあきらめたに違いない。
 しかし戻ってきた。草薙剣不在の間の熱田社がどうなっていたかという話は伝わっていない。むしろこれで尾張氏の祖神を祀る本来の姿を取り戻すことができると喜んだかもしれない。実際、草薙剣がなかったら今の熱田社はそういう神社だっただろう。
 ヤマトタケルが置いていったのか、本来尾張氏に伝わる剣だったのか、いずれにしても元熱田社の祭神は草薙剣ではない。
 草薙剣が戻った686年以降に、本当の意味で熱田社は二面性を持つ神社になってしまったという言い方ができる。天皇家から預かったという事情がある以上、こちらを前に立て、尾張氏の祖神は奥に引っ込んでもらうしかない。
 草薙剣は明治になるまで土用殿という本殿とは別の社で祀られていた。これは1517年に足利義稙(あしかがのよしたね)の発願により造営されたとされるもので、『尾張名所図会』(1844年)を見ると、本殿の横に並んで建ってたことが分かる。
 ただ、土用殿ができる以前から草薙剣は別の社で祀られていたというから、やはり本社の神と草薙剣は別と考えるのが妥当だ。
 ちなみに、土用というのは古代中国の五行思想において、火・水・木・金・土の中で土は四季の中心ということで、そのあたりから名づけられたと考えられる。



八劔社創建に関する謎


 時系列順にいくと、次の大きな出来事は708年(和銅元年)の八劔社創建だ。これも熱田社の謎を深める要因のひとつとなっている。
 八劔社(八剣宮)は、元明天皇が新剣を作ることを命じ、その新剣を祀るために建てられたとしている。
 第43代元明天皇は天智天皇の皇女で、持統天皇の異母妹に当たる。天武天皇と持統天皇の息子の草壁皇子の皇后となったので、持統天皇は義母でもある。草壁天皇が即位することなく早世し、息子の第42代文武天皇が25歳で崩御してしまい、その息子の首皇子(おびと/後の聖武天皇)が幼かったため、皇后を経ないで中継ぎの天皇として即位した。
 中継ぎといっても『古事記』完成や『風土記』の編さんを命じたり、日本初の貨幣ともされる和同開珎の鋳造を行ったりと、けっこう多くの業績を残している。奈良の平城京に遷都したのも元明天皇だ。
 ただ、このとき政治の実権を握っていたのは藤原不比等なので、実際にこれらは元明天皇の名を借りて藤原不比等が行ったものとも考えられる。
 藤原不比等は中臣鎌足の次男で、本当は天智天皇の子ともいわれている。『日本書紀』の編さんにも深く関わり、その意向が反映されているともいう。
 その元明天皇が新剣を作ることを命じた理由はよく分からない。これも大きな謎のひとつだ。
 686年に草薙剣は熱田社に戻ってきたはずなのに、どうして708年に新剣を作る必要があったのか。新剣が必要なら別に熱田でなくてもよかった。都でも他のどこでもいい。
 南区鳥栖の八劔社に奇妙なというか引っかかる由緒が伝わっている。
 八劔社に納めるための剣を作ったのは鳥栖の地の鍛冶で、多治比真人が新剣を祀るための仮神殿を建て、安部朝臣とともに37日間の修祓(しゅばつ=清めの儀式)を行ったのち、9月9日に八剱社に納めたというのだ。その由緒では、草薙剣を盗まれたのは708年で、そのことを元明天皇に知られることを恐れた熱田の人間がこの地でこっそり新剣を作ったという話になっている。
 しかし、そんなことはあり得ない。というのも、ここで登場する多治比真人と安部朝臣は、多治比池守(たじひのいけもり)と阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)のことで、この二人は708年に元明天皇から平城京造営の責任者である造平城京司長官に任命されているからだ。
 つまり、熱田に納めるための新剣は、元明天皇が多治比池守と阿倍宿奈麻呂に命じて行わせたに違いないということになる。
 この多治比氏は尾張にゆかりのある人物で、辿ると継体天皇につながる。多治比氏は宣化天皇の
三世孫・多治比古王を祖とする一族で、宣化天皇は継体天皇と尾張草香の娘・目子媛の子供だ。熱田の断夫山古墳の被葬者は目子媛という説もある。
 新剣製造の責任者が多治比池守と阿倍宿奈だったことは『尾張志』(1844年)にも書かれている。
 平城京遷都の責任者二人が元明天皇の命を受けて尾張で新剣を作り、それをあらたに建てた八劔社で祀ったということにどういう意味があったのか。前後関係でいうと、新剣を八劔社に祀ったすぐ後に二人は造平城京司長官に選ばれている。新剣作りと平城京遷都に何らかの関連があったと考えるのが自然だ。ただ、それ以上のことはよく分からない。
 八劔社創建の目的を社伝は”西夷降伏の祈願を行うため”としている。この西夷が何を指すのかは謎なのだけど、平城京遷都と関わりがあるのかもしれない。
 元明天皇は708年に平城京遷都の詔を出し、藤原京から平城京に遷都されるのは2年後の710年のことだった。
 八劔社の八はいやますますという意味の彌(いや)から来ているということを言う人もいるのだけど、八というのは重要な字であることからするとやはり最初から数字の八から来ていると考えるのが自然だ。剣は八本作られたとも、七本作って草薙剣とあわせて八本にしたともいわれる。少なくとも一本ではなかっただろう。
 空海は熱田から三本の剣を受けて龍泉寺(web)に埋めたという伝説があり、それがこの八剣だったかもしれない。
 現在、八剣宮は熱田神宮境内に取り込まれる恰好となり、本社と同じく熱田大神と相殿神を祀るとしているのだけど、本来は別々の独立した神社だった。
 八劔社が熱田社と関わっていることは間違いないけど、その正体は謎という他ない。



熱田社は”何でもない神社”だった?


 それにしても、『日本書紀』が熱田社創建について触れていないというのはおかしなことだ。一方で、草薙剣の由来や動向については詳しく記している。この矛盾をどう捉えるべきなのか。
 熱田社が重要視されるようになるひとつのきっかけになったのは『古語拾遺』だったかもしれない。
『古語拾遺』は807年(大同2年)に斎部広成(いんべひろなり)が書いたもので、天地開闢から天平年間(729-749年)までの歴史などについて記されている。
 斎部はもともと忌部を名乗る神祇一族で、ニニギと一緒に天降った天太玉の子孫とする。
 本来は中臣と同格だったはずなのに、大化の改新以降、神祇に関する重要な地位を中臣が独占するようになり、これは納得できないといった訴えを含んだ内容となっている。
 その中にこんな一文がある。
「況復草薙神釼者尤是天璽自日本武尊愷旋之年留在尾張国熱田社外賊偸 不能出境神物靈驗以此可觀然則奉幣之日可同致敬而久代闕如不修其祀所遺一也」
 草薙剣は天璽(皇位の証)で、ヤマトタケルが尾張の熱田社に留め置き、盗賊が盗もうとしたけど果たせなかったくらいだから霊験あらたかなのは明らかなのに、幣帛を奉ってさえいないのは敬意を欠くことだといった内容だ。
 つまり、斎部広成がこれを書いた平安時代初期の807年時点で熱田社は朝廷からの奉幣を受けていなかったということになる。720年完成の『日本書紀』で、686年に草薙剣は熱田社に送られて安置されたとあるにもかかわらず、80年以上も草薙剣を祀る熱田社は天皇家(朝廷)にとって「なんでもない神社」だったということだ。
 これがきっかけになったかどうかは定かではないものの、822年(弘仁13年)に至ってようやく従四位下という神階が与えられたことが『日本紀略』(成立は11-12世紀頃)から分かる。
 その後、833年に従三位から正三位(『続日本後紀』)、859年に正三位から従二位(『日本三代実録』)、従二位から正二位(『日本三代実録』)と昇格し、966年に正一位に上り詰めた(『日本略記』)。
 この間の927年に編さんされた『延喜式』神名帳では名神大とされていることから、平安時代中期以降になってようやく霊験あらたかな官社と認められたということになる。
 しかし、熱田社が熱田神宮と神宮号を初めて得るのは明治元年(1868年)のことだ。それまで熱田社は神宮ですらなかった。



神宮号について


 少し話は脱線するけど、神宮号とは何かについて書いておきたい。
 伊勢神宮(web)の正式名がただの”神宮”ということはわりと知られている。便宜上、他と区別するために伊勢の神宮、伊勢神宮と呼んでいるだけだ。
 古くは神宮といえば石上神宮(web)のことだった。石上神宮の御神体となっているのは、スサノオ、タケミカヅチ、神武天皇が関係する剣を物部氏が祀ったものだ。その本体はスサノオと見るべきだという説があり、私もそうだと思っている。
 そのスサノオからアマテラスに皇室の神を変更をしたのが天武・持統天皇だったのではないか。皇室の中心神社はここで石上神宮から伊勢の神宮に変わった可能性がある。
 ちなみに、『日本書紀』に出てくる神宮は、伊勢神宮、石上神宮、出雲大神宮で、『延喜式』神名帳では伊勢神宮の内宮を大神宮とし、鹿島神宮(web)と香取神宮(web)としている。
 鹿島・香取は、国譲りの立役者であるタケミカヅチとフツヌシを祀る神社だ。
 明治以降に増えた神宮は、天皇を祀る神社や皇室ゆかりの神社に限られている。新しく建てられた平安神宮や橿原神宮、明治神宮などがそうだし、古い神社でいうと宇佐神宮や氣比神宮などがそれに当たる。熱田神宮もそのひとつということだ。
 脱線ついでに石上神宮の出雲建雄神社についてもここで触れておきたい。



天武天皇は何を仕掛けたのか


 出雲建雄神社は現在、石上神宮の摂社となっており、出雲建雄神を祀るとしている。出雲建雄の正体については明らかにされていないものの、草薙剣の荒魂というのが一般的な解釈となっている。石上神宮で草薙剣が祀られていることに違和感を覚えるのだけど、荒魂としていることは更に引っかかる。
 荒魂(あらたま/あらみたま)というのは和魂(にぎたま/にぎみたま)の対比とされる概念で、神の荒々しい面、活動的な面を指すとされる。伊勢の神宮の内宮では荒祭宮が、外宮では多賀宮がそれぞれの荒魂を祀るとしているように、古い神社では荒魂と和魂を別々に祀ることがあった。
 出雲建雄といえば、多くの人が出雲の建、スサノオのことを連想するだろう。しかし、見え透いていて嘘くさい。ここにも何かを仕込んでいる。出雲建雄をスサノオのことだと思い込むと罠にはまる。
 この神社が初めて祀られたのが朱鳥元年(686年)という話がある。これは天武天皇が崩御した年だ。江戸時代の縁起としてこんな話が伝わっている。
 布留邑智(ふるのおち)という社人が、ある夜、布留川の上に八重雲が 立ち湧き、雲の中で神剣が光り輝いている夢を見て、翌朝夢で見た場所に行ってみると8つの霊石があり、神が現れ吾は尾張氏の女が祀る神である。この地に天降って皇孫を保んじて諸民を守ろうと告げたため、石上神宮の前の丘の上に社を建てて祀ったと。
 尾張氏の女といえば、やはりミヤズヒメということになるだろうし、そのミヤズヒメが祀る神といえば草薙剣ということになる。だから、草薙剣を祀っているというのが石上神宮側の認識ということなのだろう。ただ、どうして荒魂としたのかはやはりよく分からない。そこに秘密を解く鍵がありそうだ。
 石上神宮の主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)で、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊とされている。これはタケミカヅチが葦原中国(あしはらのなかつくに)平定のときに使った剣で、カムヤマトイワレビコが東征中ピンチに陥ったとき、タカクラジ(高倉下)を通じてカムヤマトイワレビコにもたらされた剣だ。それによってカムヤマトイワレビコは大和入りを果たすことができ、神武天皇として即位した後、剣は物部の祖のウマシマジが宮中で祀り、その後、物部の伊香色雄命(イカガシコオ)がこの地に祀ったのが石上神宮の由緒として伝わっている。
 石上神宮はもう二本、剣を御神体として祀っている。布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)と布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)だ。
 布留御魂大神は十種神宝に宿る神霊というからニギハヤヒのことだ。布都斯魂大神は天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊というからスサノオがヤマタノオロチを退治したときに使った剣で、スサノオのことということになる。ヤマタノオロチの尾を斬ったときに出てきたのが草薙剣で、スサノオの剣は刃が少し欠けたというから、本物であれば一部が欠けているということになる。
 以上のように、石上神宮というのは尾張氏と重なっている部分が多い。タカクラジは尾張氏2代のアメノカゴヤマ(天久山/天語山)のことというし、ニギハヤヒはアメノホアカリ(天火明)と同一神ともいう。そこへ持ってきて草薙剣まで祀っているとなれば、尾張氏や熱田社と無関係なはずがない。
 出雲建雄神を祀ったのが朱鳥元年(686年)というのも気になる。社人が夢を見たどうこうは後付けの話で、祀らせたのは天武天皇だったのではないか。『日本書紀』がいう天武天皇の病気の理由が草薙剣の祟りというのは、この件と関係があるのかもしれない。
 668年に熱田社から草薙剣が盗まれて686年に返還されたと仮定した場合、その間は宮中の天皇の元にあったと考えるのが自然ではあるのだけど、もしかすると石上神宮に移されていたのか。それを行ったのが天武天皇として、何を意図したのかは分からないけど、可能性としてはありそうな気もする。
 江戸時代、出雲建雄神社は本社の神の子供が祀られているということで若宮と呼ばれていたという。そのあたりも含めて考えると、何かぼんやりとした幻のようなものが浮かび上がってくると思わないだろうか。
 我々は天武の仕掛けにまんまとはまっているような気がしてならない。天武以前と天武以後とでは、日本の仕組みがまったく変わってしまったといっても言い過ぎではない。
 天武が作りかえた日本の歴史、いわゆる女神アマテラス神話を私たちは信じすぎていないだろうか。
 天皇家を神格化する上で邪魔になった尾張氏を封印したのが天武だったのではないかと私は疑っている。尾張氏の歴史を出雲神話という形の中に封じ込めてしまったようにも思える。否定するのではなくあえて尾張氏の名を出さなかった理由はそういうことだったのではないだろうか。



草薙剣右往左往物語


 平安時代以降、草薙剣を含む三種の神器が重要な存在となるのは、源平合戦と南北朝時代だ。
 栄華を誇っていた平氏打倒に立ち上がった源頼朝に呼応して源氏勢力は結集し、追い詰められた平氏一門は都を離れて西へと落ちていった。1183年のことだ。
 平氏総大将の平宗盛も、第81代安徳天皇と三種の神器とともに都落ちすることになった。
 そこから平氏は連敗を重ね、安徳天皇一行は瀬戸内海を転々とし、九州も源氏に押さえられていたため、本州最西端の長門国彦島に追い詰められ、壇ノ浦で最後の決戦ということになった。それが1185年だ。
 もはやこれまでと悟った天皇一行は死を決意する。二位尼は宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水すると、建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げたと『吾妻鏡』は書いている。このとき安徳天皇は6歳だった。
 戦の後、建礼門院は助け上げられ、箱に入っていた八咫鏡と八尺瓊勾玉は回収されたものの、二位尼と安徳天皇は助からず、宝剣は海の底に沈んでしまったとされる。
 この宝剣を草薙剣とすべきかどうかは難しい問題ではあるのだけど、記紀が語る内容からすると、草薙剣の分身という言い方ができると思う。少なくとも天皇即位に必要な三種の神器という認識だったには違いない。
 この宝剣がないまま即位した第82代後鳥羽天皇は大いに焦った。絶対に探し出すように命じ、海女を潜らせたり、寺社に祈祷させたりして必死の捜索を行うも、見つけ出すことができなかった。
 義経は後白河法皇から安徳天皇の命と三種の神器を守ることを強く命じられていたにもかかわらず、それを果たせなかったことが命を縮めるひとつの理由となったともいえる。
 後鳥羽天皇は2年後の1187年にも厳島神社(web)の神主の佐伯景弘に命じて再び大がかりな捜索を行わせている。佐伯景弘は2ヶ月探しても見つけることができず、更に25年後の1212年、すでに退位して上皇となっていた後鳥羽上皇は最後の捜索を行わせるも、ついに宝剣が見つかることはなかった。
 こういう経緯を考えると、鎌倉時代に熱田社の草薙剣が朝廷に召し上げられる可能性は大いにあったということになる。表立った話としては伝わっていないものの、裏では何かあったかもしれない。
 1221年、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の勢力が弱まったと見て幕府打倒を目指すも失敗。承久の乱と呼ばれることになるこの反乱未遂の結果、後鳥羽上皇は隠岐の島(島根県)に流された。宝剣さえ見つかっていればと頭をよぎることもあっただろうか。
 それから111年後の1332年、鎌倉幕府打倒を目指して失敗した後醍醐天皇も隠岐に流されることになる。この後醍醐天皇もまた、三種の神器と深く関わることになる天皇だ。歴史というのは意外なところでつながるものだ。
 隠岐国も古代史の中で重要な鍵を握る場所なのだけど、ここではこれ以上話を拡げるのはやめておく。名前を持たないこの島に、皇室の人間が一生に一度は必ず訪れるという。



後醍醐天皇と隠岐の島


 後醍醐天皇もまた、歴代天皇の中で異彩を放つ天皇のひとりだ。
 鎌倉時代末の1288年に生まれ、1318年に第96代天皇として即位したのは31歳のときだった。
 最初の3年は父の後宇多法皇が院政を行い、その後は兄の後二条天皇の皇太子の邦良親王が成人するまでの中継ぎの天皇とされていた。しかし、これに満足するような人間ではなかった後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕に執念を燃やすことになる。
 最初の倒幕計画が発覚したときはおとがめなしとされたものの、二度目は許してもらえず隠岐に島流しとなった。
 それでもめげなかった後醍醐天皇(このときは当然天皇ではなくなっている)は隠岐を脱出。この頃、日本各地で討幕運動が起きており、後醍醐天皇もそれに便乗した。楠木正成、足利高氏、新田義忠らの活躍で鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇は京都に戻り建武の新政と呼ばれる政治を行うことになる。
 しかし、これに不満を持った足利尊氏が離脱し、新田義忠、楠木正成と戦いとなり、後醍醐天皇側が敗北。後醍醐天皇は三種の神器を持ち出して比叡山にこもった。この間に京都では光明天皇が三種の神器なしで即位した。
 この後、いったんは和睦して後醍醐天皇は三種の神器を渡し、太上天皇の号を与えられ、皇子の成良新皇が皇太子に定められた。
 しかし、渡した三種の神器は偽物なのだよと言い残して後醍醐天皇は吉野に逃れ、朝廷を開いた。これが南朝と呼ばれるもので、京都の北朝が並び立つ南北朝時代が始まる。
 それからいろいろあって、最終的には1392年に三代将軍足利義満が両方を説得して南朝が降伏して三種の神器の本物とされるものを北朝に渡して、南北朝時代は終わった。
 この南北朝というのは実は今でも尾を引いていて、完全解決したとは言えない部分がある。現在の天皇は北朝の流れを汲むのだけど、明治44年に明治天皇が正統なのは南朝としたため、北朝の5代の天皇(光厳・光明・崇光・後光厳・後円融)は歴代天皇に数えられていない(北朝6代の後小松天皇が第100代天皇となる)。どうしてそういうことになったのかはややこしくてここでは書ききれない。最近は聞かなくなったけど、一昔前までは自分は南朝の末裔だとか北朝の末裔だとかで自称天皇という人がけっこういた。熊沢天皇などは有名なので知っている人もいると思う。あれは一宮市の人だ。
 後醍醐天皇が最初に渡した三種の神器が本物だったのか、最終的に南朝が差し出した三種の神器が本物だったのかは今となってはよく分からない。南北朝時代も熱田社に対して何らかの働きかけがあったと想像する。



熱田社の平安から江戸時代


 少し話を戻すと、平安時代後期の1114年、熱田社の大宮司がそれまでの尾張氏から藤原氏に代わるという大きな出来事があった。尾張員職(かずもと)が夢のお告げと称して外孫に当たる藤原季範(ふじわらのすえのり)に大宮司職を譲った。尾張氏は権宮司に下がった。
 この藤原季範の娘である由良御前が源義朝の妻となり、頼朝を生んだ。この時代は妻の実家で出産するならわしだったので、頼朝は熱田社の近くの員職別宅で生まれたという説がある。
 その縁もあって、頼朝は熱田社を特に大事にして寄進や社殿の修繕などを行っている。
『平治物語』では鞍馬山を抜け出した義経は奥州平泉の藤原秀衡の元へ向かう途中に熱田社で元服したと書いているのだけど、これはあまり知られている話ではなく、熱田神宮もそんなことは言っていないと思う。
 藤原氏というと西行のことを思い出す人もいるだろうか。本名を佐藤義清といい、この佐藤氏は藤原秀郷の流れを汲む名門一族だった。鳥羽天皇の北面の武士をしていたこともあったエリート武士の義清は、23歳のとき、妻子を捨てて出家して西行を名乗った。その後の生涯を旅と歌に捧げることになる。
 西行は奥州平泉で義経に会ったという話もある。
 熱田社を訪れた西行は二十五橋でこんな歌を詠った。
「かくばかり木陰涼しき宮だちを誰が熱田と名ずけめん」
 こんなに木陰が涼しげなお宮を誰が熱田なんて名づけたのだろうといったちょっとシャレのような歌だ。するとどこからこんな返しの歌が返ってきたという。
「やよ法師東の方へ行きながらなど西行と名告り初めけむ」
 おう、法師さんよ、東に向かいながらどうして西行なんて名乗っているんだいといった意味だ。後世の作り話だとしてもこのエピソードがけっこう好きだ。
 何にしても、平安時代後期に熱田社は半ば藤原家のものとなった。時代の趨勢といえばそうかもしれない。熱田の藤原家は千秋家を名乗り、戦国時代にかけて武家化していくことになる。それもまた時代の流れというものだっただろう。
 千秋季光は織田信秀の家臣となり、加納口の戦いで戦死したのに続き、息子の季忠は信長に従って桶狭間の戦いに参加して討ち死にした。
 季忠の息子はそのときまだ母のおなかの中におり、14年後の1574年に信長に謁見した際、このまま武士をやっていたら千秋家が途絶えてしまうから、宮司職に専念するようにと命じられ、以降は戦に参加することはなくなった。そのとき刀ひと振りとともに野並村を所領として与えられている。
 信長と熱田社でいえば、桶狭間の戦い(1560年)に向かう途中に熱田社によって戦勝祈願をしたというのは有名な話だ。戦に勝利した後、信長が寄進したとされる信長塀は今も残っている。
 秀吉も家康も、戦国武将は熱田社を大事にした。
 江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉は西行に憧れていた。西行の東北への旅をなぞったのが『おくの細道』だ。
 その旅の中で加賀小松の多太神社(太田神社/小松市web)に立ち寄り、平氏の武将として戦って命を落とした斎藤実盛の遺品の兜を見てこう詠んだ。
「むざんやな甲の下のきりぎりす」
 芭蕉は熱田にも何度が訪れており、熱田社も参拝している。
 1684年の『野ざらし紀行』の中で、「熱田に詣づ。社頭大いに破れ、築地は倒れて草むらに隠る。かしこに縄を張りて、小社の跡をしるし、ここに石を据ゑて、其の神と名のる。蓬・荵心のままに生えたるぞ、なかなかにめでたきよりも心とまりける」と書いている。
 江戸時代前期の熱田社はかなり荒れていた様子がうかがえる。ただ、それを古びていた趣があっていいと言っているのが芭蕉らしい。
 芭蕉は大津膳所の義仲寺(琵琶湖観光web)で木曽義仲の墓と並んで眠っている。遺言で義仲の隣に墓を建てて欲しいと言い残したのだ。
『尾張名所図会』の熱田社は、広い境内に立派な社殿を持つ大社として描かれている。境内社もたくさんあった。
 それに対して享禄古図と呼ばれる絵図はかなり様子が違っている。享禄は1528-1531年なので、戦国時代中期あたりだ。
 その絵を見ると、神社と寺がごた混ぜになっていて尾張造りの本殿の横に五重塔が建っている。更に全面的に赤く塗られている。鳥居も社も皆、赤い。現在の熱田神宮に残る唯一の赤い社が南新宮社なのだけど、すべてがそんな感じだ。赤いといっても稲荷社のような赤ではなく、厳島神社のようなイメージが一番近いかもしれない。今の熱田神宮とのあまりのギャップに絵を見るとちょっと笑える。
 江戸時代の熱田社は、東海道の宮宿と一体化して、大変な賑わいだった。御師もいて、全国からの旅人が熱田社を参拝した。



新熱田社の祭神についてあらためて考えてみる


 これまであまり触れてこなかった新熱田社(現熱田社)の祭神についてあらためて考えてみたい。
 現在の熱田神宮は主祭神として熱田大神(あつたのおおかみ)を、相殿神として天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀るとしている。
 熱田大神は草薙剣を神体とする天照大神のことだと熱田神宮は言っている。
 熱田神宮の神の草薙剣と天照大神がイコールといわれてもすぐには納得できない。それはすごく唐突に思える。
 ただ、スサノオがヤマタノオロチから奪った草薙剣をいったん天照大神に奉じたという『日本書紀』の一書を信じるなら、草薙剣は一度は天照大神が所有したということで、その後、天降るニニギに授け、ヤマトヒメが預かり、ヤマトタケルに渡したという流れになるので、まったく無関係ではないのか。
 中世においては、草薙剣の正体はヤマトタケルという考え方があった。現代人の我々にも少なからずそういう思いがある。
 しかしながら、草薙剣=天照大神という考え方は平安時代からすでにあったようなのだ。平安時代末に書かれたとされる『熱田明神講式』にそれが示されている。伊勢の神宮の天照大神は草薙剣のこととする考え方すらあったようだ。
 忘れてはならないのは、『延喜式』神名帳(927年)において、熱田神社一座とされている点だ。つまり、平安時代中期の時点で、熱田社の神は一柱とされていたということだ。相殿神が祀られるのはそれ以降ということであり、草薙剣の他の神が祀られはいなかったことも意味する。もしくは、主祭神と草薙剣はすでに一体化していたということだ。
 ただし、草薙剣は中世の段階で本殿とは別の社に祀られていたという話もある。その場合、少なくとも祭神は二柱以上ということになり、そのあたりをどう理解すればいいのかは難しいところだ。
 それと、相殿神について矛盾というか不自然なことがある。草薙剣を天照大神の神体としながら相殿神としても天照大神を祀っている点だ。更に摂社の一之御前社では天照大神の荒魂を祀るとしている。
 勝手な解釈が許されるなら、草薙剣を神体とする天照大神と相殿神として祀られる天照大神は別の神とも考えられる。
 上の方で少し書いたように、かつての天照は女神の天照大神のことではなく天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(『先代旧事本紀』)のことで、これは天火明の別名という説がある。草薙剣の方、もしくは相殿神のどちらかが天火明だとすれば納得はできる。納得できるからといって事実とは限らないのだけど、熱田社の二重性を考えると、こういった影の部分が出てくるのは必然のようにも思える。
 もし本社で祀られていないとしても、元熱田社の祭神がどこかに隠れているのではないか。ひとつの可能性として一之御前社を疑っている。
 一之御前をどう読むのかは古くから意見が分かれていたようで、今は「いちのみさき」としているのだけど、『尾張名所図会』は「イチゴゼン」としており、『尾張志』はイチノミサキというのはよろしくないイチノゴゼムと読むべきだといっている。
 先ほど書いたように現在は天照大神の荒魂を祀るとしており、江戸時代までは大伴武日命(おおとものたけひ)を祀るとしていた。本社後ろの北西の一之御前社で大伴武日を、北東の龍神社で吉備武彦を祀っていた。これはヤマトタケル東征の副将軍を務めたとされる二人なので、近世においては本社の神を草薙剣=ヤマトタケルと考えていたということかもしれない。
『熱田大神宮御鎮座次第神体本記』によると、一之御前社の創建は景行天皇の時代という。これをそのまま信じていいとは思わないのだけど、一之御前社のある場所は2012年に解放されるまで禁足地となっていて一般人は立ち入ることができなかったので、熱田社が重要視していたのは間違いない。
 一之御前の御前が「みさき」なのか「ごぜん」なのかはやはり重要で、『熱田大神宮御鎮座次第神体本記』は「一神前」(いちのみさき)と書き、『熱田本社末社神体尊命記集説』では「一御崎」(いちのみさき)とあるので、熱田社側は「みさき」という認識だっただろうか。「ごぜん」であれば、高貴な人の尊称といった言い方で、第一の御前様とくれば主祭神そのものかもしれないし、尾張氏の祖神とも考えられる。あえて名前を伏せて祀ったのではないかというと考えすぎだろうか。



境内社と楊貴妃伝説


 境内社は今も多く残っている。
 別宮の八剣宮、摂社は一之御前社、日割御子神社、孫若御子神社、南新宮社、御田神社、下知我麻神社、上知我麻神社、龍神社、大幸田神社、末社は清水社、東八百萬社、西八百萬社、内天神社、乙子社、姉子神社、今彦神社、水向神社、素盞嗚神社、日長神社、楠之御前社、菅原社、徹社、八子社、曽志茂利社、大国主社、事代主社、影向間社がある。
 ただ、失われてしまった境内社も少なくない。『尾張志』には、左王御前社・右王御前社、今宮社、二名新宮社、立田社、賀茂社、金神社、月神社、山神社、土神社、浅間社、赭社、王若宮社、稲荷社があると書かれており、風神社、雨神社、神明社、三輪社、愛宕社、籠守社、國玉社、八王子社、洲原社、角宮社、油部屋社、児社、松尾社の廃址があるとも書いている。
 面白い逸話が伝わっている。
『尾張名所図会』は『雲州樋河上天淵記』(北畠親房/大永3年(1523))などを紹介しつつこんなふうに書いている。
 唐の玄宗皇帝が日本を侵略しようとする意志を見せたため、熱田の神が楊貴妃として生まれて、玄宗帝を骨抜きにして日本への野心を捨てさせたのだけど、正体がばれて殺され、熱田に戻ってきたというのだ。
 玄宗帝の在位は712-756年だから奈良時代前期のことになる。
 楊貴妃の死から50年後の806年に玄宗と楊貴妃を題材にした長編詩『長恨歌』を白居易が書き、陳鴻が小説『長恨歌伝』を書いたことで話が広まった。楊貴妃の死後に玄宗が楊貴妃の魂を道士に探させ、海の上にある蓬莱で見つけ、玄宗と楊貴妃は再会することができたというような話だ。その後、日本でもこの題材をとった文学作品が多く作られた。
 蓬莱(ほうらい)というのは古代中国で海の上にある仙人が住む山と考えられていた場所だ。そこには不老不死の薬があるとされ、秦の始皇帝は徐福に命じてそれを探させ、徐福は日本まで来たという伝説もある。
 熱田の神が楊貴妃になって玄宗帝を虜にした云々というのは、熱田が古くから蓬莱島と呼ばれていたことから作られた話なのだろうけど(ひつまぶしで知られる「あつた蓬莱軒」(web)の店名の由来はここから)、熱田の地が蓬莱島と呼ばれたのには何か理由があったはずだ。楊貴妃伝説も何らかの史実を反映しているのかもしれない。
 今の清水社があるあたりに楊貴妃の墓とされるものがあったようだけど、明治になって撤去されたようだ。



神仏習合と熱田神宮寺


 熱田神宮寺がいつ建てられたかについてははっきりしない。『張州府志』は聖武天皇時代(724-749年)、『尾張志』は仁明天皇(833-850年)の勅願、『尾張名所図会』は仁明天皇の勅願で、最澄・空海が開基としている。
 いずれにしても平安時代にはすでにあって、最盛期は五重塔や三重塔、多宝塔やたくさんの堂が境内に建ち並んでいたようだ。
 1595年の熱田の火事で堂宇などが焼け、豊臣秀頼が本堂や三重塔などを再興するも、江戸時代は衰退して、江戸末期までは本堂とわずかに堂を残すとみとなっていた。本尊が薬師如来だったため、薬師堂とも呼ばれていた。
 ついでに書くと、神仏習合時代の本地仏は、熱田大神が大日如来、相殿神の天照大神が大日如来、素盞嗚尊が阿閦如来、宮簀媛命が宝生如来、伊弉冊尊が阿弥陀如来、建稲種命が釈迦如来で、八剣神は八劔大菩薩ともいわれ不動明王とされた。
 諸説あったようだけど、何故かイザナミが入っていて、ヤマトタケルの本地仏というものがあったのかどうかは分からない。



草薙剣を見た人たち


 草薙剣について少し補足すると、草薙剣は誰も見てはいけないということになっている。皇居にある草薙剣の分身とされる剣さえも天皇は見ていないとされる。だから、それが実際にどういう剣なのかは誰も知らないはずだ。
 しかし、”それ”を見たという人たちが何人かいる。
 ひとりは平安時代の第57代陽成天皇(876-884年)で、夜こっそり宮中にある草薙剣を鞘から抜いたところ、強い光を発して神殿内を照らしたので驚いて戻したという。
 陽成天皇は幼い頃から奇行が目立ち、天皇時代に宮中で殺人事件を起こしたともされる人物なので、あり得ない話ではない。
 次は江戸時代のことで、熱田の神官4、5人が外箱を取り替えるために中身を取り出して確認することになった。長さ1メートル50センチほどの木の箱を開けると石の箱があり、まわりには赤土が詰められていた。石箱を開けるとくりぬかれた樟(くすのき)があり、その中に赤土に埋められた状態で剣があったという。
 剣の長さは85センチ(二尺七寸)ほどで、刃先は菖蒲の葉のような形状をしており、中程は盛り上がって厚みがあり、根元の方の18センチ(六寸)ほどが魚の背のようにギザギザ(脊骨が節立)になっていたと証言している。色は全体に白っぽかったという。
 神殿内は霧が掛かったようで文字ははっきりと読めなかったともいう。
 神官たちが見たものが本物の草薙剣とは限らないのだけど(古代より熱田社には多くの剣が奉納された)、本物だとすると多くの示唆に富んでいる。
 まず赤土というから普通に考えると酸化鉄を含んだ土で酸性ということになる。おそらく保護のためだろうと思うのだけど、赤土が錆を生じさせないのかどうかが気になる。入れ物の樟は鉄剣なら錆につながるような気がするけどどうなんだろう。
 銅製なら赤土でも大丈夫として、全体に白かったという証言と合わない。銅に含まれる錫(すず)の分量が多いと白銀色になるとはいえ、それはやはり銀色であって白っぽいという表現にならないのではないか。
 鉄でも銅でもないもっと別の金属から草薙剣は作られたのではないかと私は考えている。たとえば失われた伝説の金属ヒヒイロカネのようなものだ。
 これはジョークとかではなく、あり得る話だと思うのだ。三種の神器と呼ばれるような特別なものを、ありきたりの鉄や銅などで作ったと考える方がおかしいくらいで、逆に言えば、特別な素材で作ったからこそ特別な剣になり得たと考えるべきではないだろうか。
 それと、霧で文字がはっきり見えなかったという話を信じるなら、剣には何らかの文字が刻まれていたということになる。もしその剣が本物の草薙剣であれば、その文字は漢字以前の神代文字であり、重要なことが刻まれているに違いない。読めなかったということは、読めない字だったのではないか。あるいは、表沙汰に出てきないことが刻まれていたかだ。
 草薙剣を盗み見た神官たちは謎の死を遂げたり流罪になったというのは都市伝説としてありがちなオチだ。



熱田神社から熱田神宮へ


 慶応4年(1868年)6月、神宮号が宣下されて熱田神社は熱田神宮へと名を改めた。
 その前年の慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が35歳で崩御したため、明治天皇は14歳で即位することになった。
 明治天皇すり替え説は根強くあって、ここでも南北朝の問題が絡んでくるのだけど、そこまで書くと脱線しすぎるのでやめておく。
 明治新政府は王政復古や祭政一致を掲げ、神道を国教化し、神社を国の管理下に置いて神仏判然令(神仏分離令)を出した。
 熱田神社が神宮号を得ることができたのはこういう経緯があったからなのだけど、熱田社側からの働きかけもあったのではないかと思う。
 明治4年(1871年)には官幣大社に列格した。
 これで勢いづいたのか、熱田神宮は三種の神器を祀っているのだから伊勢の神宮と同格であるべきだと言いだし、大宮司の千秋季福は政府に訴え出た。しかしこれは却下され、一度は断念することになる。
 続いて大宮司になった角田忠行(賀茂御祖神社少宮司や廣田神社宮司を務めた国学者)も引き続き政府に訴え続け、明治22年(1889年)に伊勢の神宮に準ずる神璽勅封と権宮司設置など一部が認められた。
 同じ年に伊勢の神宮と同じように社殿を神明造とすることを決定し、それに伴い神宮同様に社格から脱して神宮と同格にするようにと要求を出した。このとき尾張神宮と名乗る案も出たという。
 ただ、さすがにそれは無理があった。伊勢の神宮の強い反対もあり、実現することはなかった。
 それでも神明造に建て替えることは実行され、明治26年(1893年)に熱田神宮はそれまでの伝統的な尾張造を捨て、神明造の神社となった。
 もはや熱田神宮は尾張氏の神社ではなくなってしまった。



空襲、そして草薙剣疎開


 昭和20年(1945年)、アメリカ軍の爆撃機が数度にわたり熱田に飛来して爆弾を投下し、多くの犠牲が出た。
 5月17日の空襲でいくつもの社殿が焼け、国宝に指定されていた海上門が焼失。6月9日の空襲による被害がもっとも大きく、愛知時計電機船方工場で働いていた人など1,000名以上の死傷者を出した。7月29日には加藤清正が造営した国宝の鎭皇門も焼けてなくなってしまった。
 いよいよ終戦が近いとなった7月31日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一を呼び、草薙剣を疎開させるので疎開先を決めるようにと指示を出した。
 誰がどういう理由で決めたのかは分からないのだけど、疎開先は岐阜県高山市の飛騨一宮水無神社(web)ということになった。
 非常に古い歴史を持つ神社で祭神として大年神を祀っている。そもそもの御神体は位山(くらいやま)だ。
 古代の飛騨には飛騨王朝があり、それは皇室の祖先に当たり、位山は王朝の陵だという話がある。
 まったく作り話と思えないのは、古来、天皇即位の大嘗祭で天皇が持つ笏(しゃく)は位山の櫟(いちい)の木から作られるという決まりが今でも続いていることからも伺える。
 笏というのは貴族や神職が正装のとき手に持っている細長い板のことだ。6世紀に中国から日本に伝わったとされるのだけど、もっと古くからあっただろうと思う。
 平成のときももちろん、今回の令和の大嘗祭でも位山の櫟が水無神社の神職によって伐られて献上された。
 全国数万の神社がある中で、草薙剣の疎開先が飛騨一宮水無神社が選ばれたのには必ず理由がある。昭和天皇の意向も当然あっただろう。
 疎開前に終戦を迎えたため、その話は立ち消えとなるも、終戦後にGHQが来るということでやはり移すということになり、8月22日に宮内省の勅使が熱田神宮で草薙剣を受け取り、陸軍の護衛で水無神社まで運ばれた。これを御動座といっている。
 天皇をはじめこのときの日本人はGHQによって天皇制が廃止されるかもしれないと本気で恐れていただろう。そうなると草薙剣など三種の神器も取り上げられることは充分に考えられた。
 しかし、天皇制は維持され、草薙剣もどうやら大丈夫そうだということになり、水無神社から戻すことになった。そのときは陸軍は解散させられていたため、熱田神宮の神職が取りに行き、帰りは国鉄高山本線で運ばれた。それが9月19日のことだ。
 社殿は伊勢の神宮の式年遷宮のときの古用材を譲り受けて昭和30年(1955年)に再建された。
 明治の建て替えと戦後の再建で熱田神宮に古い社殿はまったく残っていない。今の熱田神宮に古めかしさが欠けているように感じるのはそのせいもある。



イザナギまで辿り着けるかどうかにかかっている


 ここまで尾張氏に軸足を置いて熱田社の歴史を見てみた。
 もちろん、どの時代においても有力な氏族がたくさんいて、中央や他の氏族との関わりの中に尾張氏や熱田社はあった。
 縄文時代でいえば、西日本よりも関東、信州、東北の方がずっと人口密度は高く、西より東に日本の重心があった。弥生時代から古墳時代に関しても、畿内と九州だけに勢力があったわけではない。関東の古墳群を見てもそれは明らかだ。東日本だけでなく、北海道や琉球、朝鮮半島南部まで含めて考察する広い視野が必要だろう。
 今回は残念ながらそこまで話を掘り下げることはできなかった。熱田社についての内容から逸脱してしまうのと私の力不足ということもある。
 尾張氏はどこから来てどこにいて何をしてどこへ行ってしまったのか。その問いに対する答えを私は持たない。
 熱田社は長らく尾張氏が社人を務めてきた。しかし、熱田社の田島家が尾張氏の本家とは限らない。たぶん違うというのが個人的な感触としてある。
 尾張氏は天氏だと繰り返し書いてきた。名古屋には天のつく地名がいくつかある。
 天皇はどうして天王ではなく天皇と表記するのか。
 天皇の文字を分解するとどうなるか?
 そこに最大のヒントが隠されているかもしれないと言ったら、あなたは信じるだろうか。
 一番重要な鍵を握っているのはイザナギだ。そのことに気づいている人がどれくらいいるだろう。
 イザナギ・イザナミに辿り着けさえすれば、天皇家も尾張氏の正体もおのずと見えてくる。



まとめに代えて


 ここに書いたのはひとつの考察であって、それ以上のことを主張するつもりはない。多くの部分で理解不足だったり間違っていたりすることもあると思う。それでも、読んだ人が何かを感じ、考え始めるきっかけになれば、書いた意味はあったといえる。
 学者や研究者が導き出した答えは素材に過ぎない。食材にたとえるなら、いい食材を厳選してそれを活かした調理をして美味しい料理に仕上げることが立場に縛られない我々一般の人間がやるべき仕事だ。
 専門性が高くなるほど視野は狭くなり、不自由になるのはどの世界でも同じだ。専門家が言うことを無批判に信じてはいけない。少なくとも、それがすべてではない。
 古史古伝が伝える超古代王朝だとか、異星人が地球人の遺伝子操作をしたなどといった話も真面目に検討すべきだと私は考えている。それが真実というのであれば受け入れるしかないし、可能性を最初から無視してしまうのは歴史をやる人間の態度として間違っている。視野は広いほどいい。
 もうひとつ言っておきたいのは、歴史を考察する場合、こちらから向こうを見て考えてはいけないということだ。現代人の常識や価値観で歴史を測ろうとすると必ず間違える。歴史はその時代の人間の立場に自分の視点を置いて考えなければならない。我々と同じように彼らもまた過去を見て、不確かな未来を想像しつつ行動を決定している。そのとき正解は見えていないし、未来はまだ決まっていない。
 歴史をやる人間に必要な能力は、共感力と想像力だ。文献を読み解く力などは二の次、三の次のことでしかない。



令和における熱田神宮の役割とは


 天皇(現上皇さま)の退位のビデオメッセージが国民に向けて放送された日、皇太子(今上天皇)は熱田神宮にいた。
 平成31年、天皇が退位の報告をするため伊勢の神宮を訪れたとき、熱田神宮の宮司は急きょ呼ばれて伊勢の神宮に駆けつけたという。
 令和元年、今上天皇初の地方公務先となったのは愛知県尾張旭市の森林公園とあま市七宝町だった。
 断夫山古墳の初の発掘調査を今年中に行うことが最近発表された。
 熱田神宮はここ数年で大きな動きがいくつかあった。本殿裏手の一之御前社がある場所が2012年12月に突如一般公開されたのもそのひとつだ。2013年に創祀1900年を祝う大祭が行われることに伴うものというのが表向きの理由だった。しかし、この場所は長らく禁足地とされていた場所で、非常に神聖とされたところだ。草薙剣はこの禁足地の地下に安置されていたという噂もある。何故そこが急に開かれることになったのか。
 前後して大きな人事異動もあった。このとき、重要な人物が熱田神宮を去っている。2018年には神社本庁のゴタゴタもあって宮司の交替もあった。
 熱田神宮はどこへ向かおうとしているのか。そして、草薙剣が令和の時代に果たす役割とは何なのか。
 現上皇さまが譲位をしたことを軽く考えてはいけない。そこには重大な意味とメッセージが込められている。理由や必然もなく生前に譲位することなどあり得ないことだ。
 言い方を換えれば、近い将来において今上天皇が果たすべき役割が非常に大きいということなのだろう。そのことと熱田神宮や草薙剣は少なからず関わりがある。
 令和の天岩戸開き。そんなことが本当に起きるのではないかと、ひそかに私は期待している。




作成日 2019.9.19(最終更新日 2021.3.15)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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草薙剣をめぐる右往左往物語
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