三吉稲荷大明神

あれもこれも山口源兵衛さん?

三吉稲荷社

読み方 さんちき-いなり-だいみょうじん
所在地 名古屋市南区源兵衛町1丁目22 地図
創建年 1753年?(江戸時代中期)
旧社格・等級等 不明
祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
アクセス 名鉄常滑線「柴田駅」から徒歩約10分
駐車場 なし(スペースあり)
webサイト  
オススメ度

 山口源兵衛が源兵衛新田の発展を祈願して建てた神社という。
 しかし、山口源兵衛が源兵衛新田を開発したのは1706年ということを考えると、この神社の創建年とされる1753年は遅すぎないだろうか。
 源兵衛が何年生まれかは分からないけど、新田を開発するくらいの力を持っていたとすると若くても30代だっただろうし、そこから47年を足すとかなりの高齢だ。生きていたとしてもそんなに年数が経ってから稲荷社を建てただろうかと考えると無理がある。最晩年に置き土産として建てたということか。
 山口源兵衛は源兵衛新田の守り神として天王社を建てたとされる。今の源兵衛町の須佐之男社だ。
『尾張志』にも「源兵衛新田むら 天王ノ社あり」とある。稲荷社についての記載はない。
 三吉稲荷の創建年が本当に1753年だとすると、源兵衛新田の村人か領主が建てたのではないだろうか。

 三吉稲荷の三吉は地名ではないし人名でもない。京都の太秦(うずまさ)に三吉稲荷があるからそこから勧請したということか。
 京都太秦の三吉稲荷の三吉がどこから来ているのは分からない。今は中里八幡と一緒に祀られている。
 伏見稲荷大社(web)から勧請したのなら三吉稲荷とは名づけないだろうから、あえて三吉稲荷から勧請したのだろうけど、その理由もよく分からない。
 山口源兵衛は九州の大友家の家来だったという話がある。そのあたりも関係しているだろうか。

 誰が建てたにしても、もともとは源兵衛新田の西の堤の内に塚を築いてその上に祀っていたようだ。
 大正時代に住人が無造作に源兵衛公会堂に移したところ、町内が原因不明の疫病に見舞われ苦しむことになったため、旧地に戻したという話が境内の祈念碑に書かれている。
 源兵衛公会堂というのは源兵衛公民館のことだとすると、天王社(地図)に移したということか。
 旧地に戻したところ疫病はおさまったという。
 昭和34年の伊勢湾台風のときは、天白川の堤防が決壊して貯木場の木材が町を襲った。住人の中の40人ほどが三吉稲荷のある塚に集まって難を逃れたという話も伝わる。
 翌昭和35年に247号線が拡張されることになり、三吉稲荷は天白川堤防沿いの現在地に移された。
 旧地は名鉄柴田駅の東、柴田本通3交差点のひとつ南の交差点付近だったようだ。

 三吉稲荷がある堤防エリアに青峯観音を祀る観音堂がある。
 これも山口源兵衛が祀ったものとされている。
 かつてこのすぐ下の天白川に船着き場があったということで、その守り神としたのかもしれない。
 青峰山は志摩半島の中央部、鳥羽市松尾と志摩市磯部にまたがる標高336メートルの山で、山頂には正福寺がある。
 正福寺は行基が伊勢の神宮(web)のご神託を受けて建立したとされる古刹で、本尊の十一面観音は鯨の背中に乗って現れて青峰山に祀られたという伝説があり、海女や漁師たちの守り神とされている。
 鳥羽藩には過ぎた寺といわれるほど立派な寺院で、伊勢志摩サミットのときカナダのトルドー首相夫妻がプライベートで訪れて結婚記念日を祝ったということでもちょっと話題になった。
 源兵衛新田に祀られたのもこの青峰山にまつわる観音様ということだろう。

 星﨑から南に作られた新田ではいくつかの稲荷社が祀られた。五穀豊穣を願ってということだったのだろうけど、江戸時代中期という時代も関係している。この頃はとにかく稲荷社が流行っていた。
 ただ、明治以降は合祀されるなどして数を減らし、稲荷社として独立しているところは名古屋市内では少ない。大きなところとしては守山区の生玉稲荷神社や緑区の豊藤稲荷神社くらいだ。
 それを考えると、南区南エリアの稲荷社密度は濃い。名古屋の神社のひとつの特徴としてあげられると思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

南区三吉稲荷は太秦の三吉稲荷から?

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