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柳里神社

お国の都合に翻弄された小さな神社

柳里神社

読み方 やなぎさと-じんじゃ
所在地 名古屋市中村区名駅南1丁目24 地図
創建年 1697年(江戸時代前期)
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
軻具土神(かぐつちのかみ)
アクセス 鉄道各社「名古屋駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
その他 例祭 6月4日
オススメ度

 名古屋駅前、笹島交差点の南東に、ビルに挟まれて鎮座している。
 名駅南の須佐之男神社地図)で草取りをしていた方が、近くに「りゅうり神社」がありますよと教えてくれた。辿り着いてみると、幟(のぼり)に「白鷹龍神」とあり、なるほどここのことかと思った。
 しかし、実はこの神社、漢字で書くと「柳里」神社で、「やなぎさと」神社と読む。『愛知縣神社名鑑』にそうフリガナがあるから正式名はそうなのだろう。ただ、ネット情報では「りゅうり」としているところが多いから、この神社を知っている近所の人たちの間では「りゅうり」神社として通っているのかもしれない。
 ただし、昔から柳里神社だったわけではなく、柳里神社と改称したのは大正5年のことだ。
 それ以前は何という名前の神社だったかは情報がなくて分からなかったのだけど、天王社と刻まれた石灯籠があってスサノオを祀っていることからすると、明治以降は須佐之男社か津島社と称していたのではないかと思う。
 江戸時代は疫病除けのために牛頭天王を祀る天王社だったのだろう。
 もう一柱の祭神、軻具土神(カグツチ)は大正5年に秋葉社を合祀したものだ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は元禄十年(1697)正月、と伝える。明治6年、一郷一社の制により廃社となる。同年、公称復旧する。明治11年、社殿を改築した。明治33年、道路拡張により地を全部収用となる。明治34年、官有地の中区笹島町一番の五を借受け遷座した。大正4年、御大典記念に社殿を改造し、大正5年、社地を市より払下げ神社有地とす。大正5年、無格社秋葉社を本社に合祀し、柳里神社と改称する」

 創建は江戸時代前期の1697年だったようだ。
 神社があるのは廣井村の西端に当たる。
 明治元年(1868年)に明治新政府が出した神仏分離令(神仏判然令)によって神社と寺は分けられ、神社から仏教色は排されることになった。
 牛頭天王を祀る天王社は津島社や須佐之男社と名を改めてスサノオを祀るとしたところが多い。
 その後、明治4年(1871年)から明治6年にかけて、明治政府は氏子調(うじこしらべ)または氏子改(うじこあらため)という政策を打ち出した。
 これはお寺の檀家制度の神社版のようなもので、国民は自分が住む郷の神社に氏子として登録することを義務づけるものだった。
 明治5年や明治6年に村社に指定された神社が多いのは、このときそういったあらたな制度が施行されたからで、同時に小さな神社の整理も行われた。
『愛知縣神社名鑑』が書いている一郷一社制によって廃社になったというのはそういうことだ。
 しかし、同年に公称復旧したということは、それだけ氏子が存続を希望してそれが通ったということだろう。

「明治33年、道路拡張により地を全部収用となる。明治34年、官有地の中区笹島町一番の五を借受け遷座した」というのは、鉄道開業と名古屋駅建設に関わってくる話で、ちょっと説明が必要だ。
 東京と京都を結ぶ鉄道路線は当初、中山道ルートで決定していた。
 それに先だち、明治17年に岐阜県の加納宿と愛知県の知多半島の武豊港を結ぶ路線が建設されることになる。これは武豊港で荷揚げした建築資材を岐阜まで運ぶための路線だった(後に武豊線となり現存している)。
 まず加納(翌年岐阜に改称)と熱田との間で開業し、同年に名護屋駅が今の笹島交差点の西に作られた。
 このとき、柳里神社がどのあたりにあったのかがよく分からない。駅の真ん前だったのか、駅の西だったのか。
 その後、中山道ルートはお金がかかりすぎるということで中止になり、東海道ルートで路線が敷かれることになった。これが今の東海道本線だ。
 明治20年代から30年代にかけて、関西鉄道が乗り入れたり、名古屋電気鉄道が開通したりして広小路通が拡張されることになり、柳里神社はそのあおりを食らって土地を奪われ、移されることになったのが明治33年から34年というわけだ。
 この年、名古屋初の跨線橋(こせんきょう)となる明治橋が祢宣町(名駅南1丁目)と牧野町(太閤1丁目)の間に架けられた。
 それは広小路通の一本南、柳街道と呼ばれた通りに架かる橋だった。現在も名古屋三井ビルディングの前に記念碑が建っている。
「めいちはし」としたのは、濁点が濁流に通じることを嫌ったせいだといわれる。ここは川に架かる橋ではないのだけど。
 大正5年、官有地(この頃までに名古屋市のものとなっていたようだ)から神社地に払い下げとなった。

  柳里神社の名前の由来は、柳街道から来ているだろうか。その柳街道は柳並木があったことからそう呼ばれるようになったという説がある。
「りゅうり」神社と呼ばれるのは、境内社として白鷹龍神を祀っていることが関係しているのかどうかは分からない。
 この白鷹龍神がどういういきさつで祀られることになったのかも不明だ。
 300メートルほど東に白龍神社地図)がある。これはもともと江川のほとりの柳橋近く(地図)にあったものだ。
 その白龍神社から400メートルほど南東に洲嵜神社地図)があり、そこでも白龍大神を祀っている。
 これだけ狭い範囲に白龍を祀る神社が集まっていると偶然とは思えない。何か関係があるんじゃないだろうか。
 戦前まで名古屋にはもっと多くの龍神社があったといわれている。地下に龍脈でも通っているかもしれない。だから名古屋は地下街が発達したのだというとこじつけがすぎるだろうか。

 柳里神社に、かつて廣井の山車(だし)が曳き込まれていたそうだ。
 柳里神社も胡蝶車ともう一輌の山車を持っていたという。胡蝶車は明治の火事で焼け、もう一輌は消息不明とのことだ。
 山車曳きは戦後になって復活したとのことで、近所の年配の方なら覚えているかもしれない。
 ちなみに、旧町名の禰宜町(ねぎちょう)は、泥江縣神社(広井八幡社)の禰宜職がここに住んでいたことに由来するとされる。禰宜町はいったん途切れたものの、昭和56年まで続いた町名だから、今でも通用するくらいじゃないかと思う。
 小さな神社にも歴史あり。その感をいっそう強くさせる柳里神社だった。

 

作成日 2017.7.30(最終更新日 2019.5.4)

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