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住吉社(新尾頭)


掘川端の見晴らしのいい境内は昔のこと



熱田住吉社

読み方すみよし-しゃ(しんおとう)
所在地名古屋市熱田区新尾頭1丁目9-28 地図
創建年不明(1724年とも)
旧社格・等級等指定村社・十一等級
祭神表筒男命(うわつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
アクセスJR/地下鉄/名鉄「金山駅」から徒歩約10分
駐車場 なし
その他例祭 10月21日
オススメ度

 創建年や創建についてのいきさつに諸説あってはっきりしない。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「社伝に享保九年(1724)12月摂州住吉より勧請し、黄檗宗東輪寺の末寺地蔵堂内に安置したが、宝暦十一年(1761)3月にその西隣に社地を構え、大阪廻船極印講の崇敬により社殿を造営した」
 しかし、同じ『愛知縣神社名鑑』の須佐之男社(柳川)の項ではこう書いている。
「慶長十四年(1609年)堀川を掘鑿の時に、水運の業務を担当の川東の船問屋側は住吉神社を祀り、川西側の川方屋は天王社を祀る」
 名古屋城(web)築城前に堀川の水運の安全を祈願して住吉社を建てたというのと、江戸時代中期になって勧請したのとでは意味が全然違う。
 社伝によるとというのだから神社側がそう言っているというのだろうけど、入り口の社号標の横には「名古屋城建設守護神」と刻まれている。



『尾張名所図会』(1844年)は住吉社をこう紹介している。
「尾頭町西側にあり。もと小社なりしを、宝暦十二年三月一庵を建立し、黄檗宗東輪寺より、栢禅和尚来りて住持せり」
 これまた少し話が違っている。もともと小さな社があって、宝暦12年(1762年)に庵(小屋)を建てて、東輪寺から来た栢禅和尚が祀ったとする。
『尾張徇行記』(1822年)は新尾頭町の地蔵堂の項に、地蔵堂を宝暦11年(1761年)に尾頭橋の西の今の所に移し、境内に住吉祠があり、「是ハ先年堂内ニ安置セシカ、海船運漕守護ノ為施主アリ此祠ヲ創建ス」と書いている。
『熱田区の歴史』ではまた微妙に違っていて、こう書いている。
「享保十九年(1734)摂津の住吉の神を勧請、新尾頭町道筋東側の小祠に奉安したが、宝暦十二年(1762)に今の地に廻船業者の極印講が運送守護のため社殿を創建した」
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は両方の説を踏まえてだろう、享保9年(1724年)12月、もしくは慶長年中(1596-1615年)に作るとしている。



 名古屋城築城の際に祀ったという説と江戸時代中期に勧請したという説と、どちらが正しいかは決めかめるのだけど、『愛知縣神社名鑑』が須佐之男社(柳川)のところで書いている「慶長十四年(1609年)堀川を掘鑿の時に、水運の業務を担当の川東の船問屋側は住吉神社を祀り、川西側の川方屋は天王社を祀る」というのをそのまま信じることはできない。
 堀川は名古屋城築城の物資を運ぶために掘られたとする考え方は近年否定されていて、堀川は名古屋城完成の後に人や物を運ぶために掘られたとされている。少なくとも1609年にはまだ掘られ始めていない。そもそも、清須城下から名古屋城下への町ぐるみの引っ越し、いわゆる清須越しが行われたのは1610年から1612年にかけてで、1609年にこのあたりに船問屋があるはずもない。
 やはり、社伝がいうところの享保9年(1724年)に摂州住吉より勧請して東輪寺の地蔵堂に祀り、宝暦11年(1761年)にその西隣に大阪廻船極印講が社を建てたというのが事実に近いのではないかと思う。



 本社の左右には、天神社と人丸社がある。
『尾張名所図会』の絵図を見ると、本社の左と右にそれぞれ独立してあったことが分かる。
「天満宮 綱敷天神の画像、菅公の御自筆なり
 人丸祠 頓阿の作にて、北村季吟の所持せし古木像なり」
 とある。
 綱敷天神社(つなしきてんしゃ / web)は大阪市北区神山町にあり、菅原道真とゆかりが深い神社だ。
 嵯峨天皇の行幸跡地に太融寺を創建するとともに嵯峨天皇を祀る神野太神宮を建てたことに始まるとされ、太宰府に左遷される途中で道真が立ち寄り、境内にあった紅梅を愛でたという。
 道真が太宰府で死去した後、梅の木の下に祠を作って道真を祀り、道真の無実の罪が晴れた後、社殿を建てて綱敷天神社としたとされる。
 ここ住吉社の天満宮には道真直筆の綱敷天神の画像というものが伝わっており、船頭たちの信仰を集めたという。
 人丸祠に祀られていた木像は、頓阿(とんあ)の作で、北村季吟(きたむらきぎん)が持っていたものらしい。
 頓阿は鎌倉時代後期の僧で歌人、北村季吟は江戸時代前期の歌人(俳人)だ。
『尾張名所図会』に、「社地堀川東岸にして地高く、西の方郊谷にのぞみて風景甚よし」とあるように、ここは熱田台地上の西の縁で、南西方向の谷の風景と伊勢湾を見渡すことができる高台だった。
 そんな風光明媚な場所ということもあり、名古屋におけるひとつの和歌名所のようになっていたらしい。
 伊藤次郎左衞門家14代当主で松坂屋初代社長の伊藤祐民(いとうすけたみ)は、ここに有志を集めて和歌会を催し、多くの和歌を奉納したという。



 現在の住吉社は高台にあるとはいえ、境内からの見晴らしがいいとはいえず、すっかり街中の神社といった感じになっている。
 昭和20年の空襲で被害を受け、戦後の都市計画で境内もずいぶん狭くなった。
 伊勢湾を一望しながら境内に集まって歌を詠んでいた時代の風景を思い描くのはちょっと難しい。




作成日 2017.7.4(最終更新日 2019.9.2)


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