旧東海道沿いの有松の古い町並みの一本南を走るのが国道1号線で、桶狭間交差点から少し南に進んで西に入ったところにこの神社はある。車ではちょっと行きづらいし停めておくところがなさそうだ。 鳥居の額には「御嶽神社」とあり、社殿のたぐいはなく、民家のような建物に「御嶽神社有松日出講」の表札が掛かっている。 御嶽教の講社には違いない。日出講というと、美濃国の覚成が幕末の1850年(嘉永3年)に設立した講社なのだけど、その系統なのかどうかは分からない。有松日出講は日出講の名古屋支部といった位置づけの教会なのかもしれない。 御嶽講社については御嶽神社(高針)や御嶽教東福寿教会のページにまとめたのでそちらをご覧いただければと思う。
『有松町史』によると、桶狭間村では江戸時代の終わりの文久年間(1861-1863年)に御嶽講が発足して、梶野覚清らが先達として御嶽山登山をよく行っていたという。 鳥居の裏に「開祖源有霊神四十五年祭」・「昭和五十七年四月吉日」と刻まれている。この開祖・源有霊神が梶野覚清のことだろうか。 45年祭というのは生誕45年ではなく、おそらく亡くなってから(霊神になってから)45年を記念して建てたということなのだと思う。 昭和57年(1982年)が没後45年なら亡くなったのは昭和12年(1937年)ということになり、それが何歳のときなのかは分からないのだけど、明治生まれということになりそうだ。 少し離れた場所に出雲大社愛知日の出教会(地図)というのがあり、『有松町史』によると、それは梶野覚清が出雲大社教管長千家尊愛の教えを受けて出雲大社教に入信して設立したものだといい、それを明治42年(1909年)としている。 ということは、生まれは明治前半と考えられ、幕末(1861-1863年)に有松に最初に御嶽講を設立した人物と梶野覚清は別ということになる。 最初から日出講と称していたのかどうかは分からない。開祖が梶野覚清というのであれば、有松日出講は梶野覚清が設立した講社ということになりそうだ。
建物の隣にある秋葉社は有松の東町の秋葉社で、この御嶽神社とは直接関係ないと思う。 おそらく秋葉社の方が先にあって、後から御嶽神社が建てられたのだと思うけど、もしかしたら逆かもしれない。他の場所にあったものをここに移してきた可能性もある。
御嶽教や御嶽講社については情報が少なく、把握できていないことが多い。名古屋やその周辺にある有力講社といわれるものは多少分かるようになったけど、おそらく小さな講社はたくさんあって、そのほとんどを知らない。 機会があれば聞き取り調査などをして、分かったことがあれば追記したい。
作成日 2018.10.29(最終更新日 2019.4.5)
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