椿神明社

駅裏にあるお伊勢さんゆかりの神社

椿神明社入り口

読み方 つばき-しんめい-しゃ
所在地 名古屋市中村区則武2-4-10 地図
創建年 不明
社格等 村社・十四等級
祭神

豊宇気比売神(とようけひめのかみ)

アクセス

・鉄道各社「名古屋駅」から徒歩5分から15分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 名古屋駅の西側エリア一帯を名古屋の人間は駅裏と呼んでいる。最近はちょっと気取って駅西と呼ばれることが多い。この地区は空襲で焼け残り、区画整理もなかなか進まなかったため、名古屋の中でも数少ない下町の風情が残る場所だ。
 歴史をさかのぼると、ここは海の底だった。熱田台地の西の低地で、縄文期の海進で長らく水没していた。
 その後、海が後退し、川から運ばれた土砂で陸地化し、少しずつ人が住むようになった。ただし、江戸時代からとかではなく、もう少し前から人の暮らしが始まっていたようだ。
 ひとつの証拠として、『神鳳鈔(じんぽうしょう)』がある。伊勢の神宮の領地一覧が書かれたもので、中村区から中川区にかけて伊勢の神領があったことが分かる。
 伊勢の神宮領を一楊御厨(いちやなぎのみくりや)と呼んだ。
 御厨(みくりや)というのは、神の台所という意味で、神饌を調進する場所のことだ。
『神鳳鈔』は『群書類従』第1巻に収録されており、建久四年(1193年)に編さんが始められ、延文5年(1360年)に完成した。
 となると、遅くとも鎌倉時代にはここに伊勢の荘園があり、人が住んでいたということを意味する。平安期の平安海進で再び水没していたかどうかはやや微妙なところだ。
 中村区は平坦な土地で、坂道がほとんどない。南は海抜0メートルのところがあり、一番高い北側でも海抜3メートルほどしかない。
 江戸期までは大小多くの川が流れており、ちょっとした大雨でもすぐに水に浸かったようだ。
 こんな土地柄ながら、意外にも神社は多い。駅裏の周辺だけでも5社ほど神社がある。椿神明社もそのうちの一社だ。

 江戸時代ここは牧野村と呼ばれた。現在でも牧野小学校などにその名残がある。
 牧野村には五つの神社があった。椿社、厳島社、天王社、稲穂社、神明社で、それらは今も残っている。
 伊勢の神領地ということで、椿社を外宮になぞらえトヨウケヒメを祀り上ノ宮(かみのみや)と呼び、牧野の神明社を内宮に見立てアマテラスを祀って下ノ宮(しものみや)と称した。
 牧野神明社は椿神明社の南西700メートルほどのところにある(地図)。
 椿社と名付けられたのは、椿の大木が何本もあって椿の森と呼ばれていたからだという。
 椿は日本原産の木で、江戸期には品種改良によって多くの品種が生み出された。
 花ごと落ちる様子が頭が落ちるに似ていることから武士は避けたというのは間違った言い伝えで、武士や茶人、町人など、広く好まれていたようだ。
 椿社の椿も評判を呼んで、これを見るために近隣から多くの人たちが訪れたという。

 昭和のはじめまで神社の東には笈瀬川(おいせがわ)が流れていた。
 伊勢の神領を流れていたから「お伊勢川」と呼ばれており、笈瀬川はそこから来ているというのが定説となっている。
 ただ、伊勢の神領内に流れていたのはこの川だけではなく、笈の字を当てたことに何かあったのではないかと考えたりもする。笈(おい)は修験者などが仏像や経巻などを入れて背負う道具のことで、のちに荷物を入れて背負う箱のことを広く笈と呼んだ。
 その他、老瀬や負瀬とも表記することがあったという。ここでも背負うの「負」の字が当てられていることからしても、背負うといったような地形的なところから名付けられた可能性もありそうだ。
 その笈瀬川は、椿神明社のすぐ東を北から南へ向かって流れていた。庄内川支流の惣兵衛川から別れた川で、下流域では中川と呼ばれており、最後は伊勢湾にそそいでいた。
 これが中川運河の前身で、昭和5年(1930年)に完成した中川運河の工事にともない暗きょ化された。
 牧野村は明治22年(1889年)に米野村、平野村、露橋村、日置村と合併して笈瀬村となった。のちに愛知町となるも、神社南の笈瀬通などに地名が残る。
 笈瀬本通商店街は通称かっぱ商店街と呼ばれている。これは昔、笈瀬川にカッパがいたという伝説から来ている。子供好きのカッパで、子供と遊んだり、溺れた子供を助けたり、悪さをして大人に捕まったなどという話が残っている。街のあちこちにカッパの像が置かれているのを不思議に思っていたという人もいるかもしれないど、そういうことなのだ。

 神社境内の奥に立派な石碑が建っている。柵で囲われて近づけないため、何が彫られているのかよく見えない。
 松井石根(まついいわね)大将と聞いてどれくらいの人がピンと来るだろう。南京事件の責任を問われて東京裁判でB級戦犯とされ、処刑された陸軍軍人だ。
 その松井石根の出身地がここ牧野村で、石碑は戦中に松井大将をたたえるため、椿社に建てられたものだ。
 しかし、戦犯の巻き添えを食うことを恐れた関係者によって石碑は一時、池に投げ捨てられ沈められたという。
 戦後、しばらく経ってから引き揚げられ、再び椿社に建てられた。
 南京占領時の現地責任者ということで罪に問われた松井大将ではあったけれど、もともとは中国との共存を思想の根幹としていた人物で、南京事件の当事者とするには気の毒だという声が多かった。
 実際、孫文や蒋介石とも交流があり、中国寄り過ぎるということで解任され、早くに日本に引き揚げてきている。熱海でひっそり暮らし、興亜観音を建立して、自分も庵を建ててそこに住み、毎朝観音経をあげていたという。
 巣鴨プリズンで絞首刑が執行され、靖国神社に合祀された。

 もうひとつのエピソードとして、藤の大木と甘酒の話がある。
 境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行って村がやられてしまった。
 困った村人たちが相談して占ったところ、それは藤の木の祟りだから酒を神様に献上するようにと出た。ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿社と神明社に供えたところ、疫病は治まったというものだ。

 ホームレス対策か、境内のあちこちに柵が作られており、移動できる場所が限られている。松井大将の碑や由緒書きに近づけないだけでなく、手水舎さえ囲われてしまっている。
 おかげで猫たちが安心して暮らせる場所を提供することになった。私が訪れた短い時間だけで3匹の猫を見た。柵の内側でのんきに寝そべってる光景は、都会の中心近くとは思えないようなものだった。
 名古屋駅の表は高層ビルが増え、リニア新幹線駅開業に向けて大がかりな工事が続いている。駅裏にも新しい道路が作られ、この先10年で駅周辺は大きく様変わりしていくことになるのだろう。
 私が子供の頃は駅裏に行くだけでも恐ろしいようなイメージがあったのだけど、そのときから思っても今はずいぶん明るい街に変貌した。
 昭和時代の椿神明社はどんな感じだったのだろうと想像してみる。神社だけは今とさほど変わっていないのかもしれない。おそらくこの先も。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

椿神明社は名古屋駅裏のオアシスの役割を果たしている

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