神明社(荒子)

荒子観音と一体化した神仏習合の名残

荒子神明社

読み方 しんめい-しゃ(あらこ)
所在地 名古屋市中川区荒子町字宮窓134番 地図
創建年 不明
旧社格・東急等 村社・十二等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
アクセス 地下鉄東山線「高畑駅」から徒歩約11分
あおなみ線「荒子駅」から徒歩約12分
駐車場 あり(荒子観音のものが無料)
その他 例祭 10月6日
オススメ度

 荒子観音の隣というか、仕切りがあってないようなものだから敷地内にあるといっていい神明社。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが文化九年(1812)11月9日、荒子観音寺の守護神として鎮祭、天保二年(1831)社殿を改修する。明治に制度改革により分離、明治5年7月村社に列格した」
 神仏習合の江戸時代は、寺の中に社があるのが普通で、それが神明社だった例も少なくない。
 ただ、1812年というのはいかにも遅すぎる。他の鎮守社があったにしても、1812年に寺の守り神として神明社を建てるというのはしっくりこない。
 荒子観音は奈良時代前期の729年(天平元年)に建てられたとされる古刹だ。
 もともと高畑村にあったものを鎌倉時代あたりに荒子村の現在地に移したとされる。1キロほど北西というから今の高畑公園あたりだろうか。津田正生は『尾張国地名考』の中で高畑村と八田村の境といっているので、それが本当であれば更に北ということになる。

 荒子村の地名由来について津田正生はこう書いている。
「あらこは新治(あらたばり)の下略傳聲也野山をうち開きて田畑を起すをいふ」
『尾張徇行記』(1822年)も天野信景の「中世新タニ開墾セシヲ荒圃トイヒシヲ、土俗訛テクワウコト呼シヨリ、終ニ文字モ荒子ト書ナセル成ヘシ」という説を紹介しつつ、新城などと同じく新たに開墾したというところから村名は来ているとする。
 荒子は平安時代中期の延喜年中(901-923年)に成立した伊勢の神宮(web)の荘園、一楊御厨(いちやなぎのみくりや)の一部だったので、神明社を祀ることは自然なことだ。最大限さかのぼると平安時代創祀という可能性があるのだけど、鎌倉時代創祀という話もある。

 荒子村にあった神社については少し分かりづらい部分がある。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。
「富士権現壱社 社内弐畝歩 前々除 当村観音寺持分」
「観音堂壱宇 地内壱町三反七畝歩 前々除 右地内ニ」
「社七ヶ所 内 山王 白山権現 弁才天 神明 鹿嶋大明神 天王 風宮」
「寺壱軒 天台宗 野田密蔵院末寺観音別当 浄海山観音寺」
 現状で荒子に独立社として残っているのは、この神明社と冨士天満社(荒子)の二社のみとなっている。
 荒子観音の境内社として弁財天と弁才天、日吉大社、白山妙理大権現がある。山王が日吉大社なのはいいとして、鹿嶋大明神と天王、風宮は見当たらない。神明社の祭神に武甕槌命(タケミカヅチ)が入っているので、鹿嶋大明神は神明社に合祀されたのだろう。天王と風宮はどうなってしまったのか。
『尾張徇行記』には冨士権現だけが独立して前々除となっており、山王、白山権現、弁才天、神明、鹿嶋大明神、天王、風宮の七社は観音寺の界内にあると書いているので、冨士権現をのぞいた七社は江戸時代から観音寺の社だったということのようだ。
『尾張志』(1844年)はこう書く。
「神明ノ社 末社に鹿島社天王ノ社あり
 山王ノ社
 白山ノ社
 辯才天ノ社
 富士天満天神相殿社 中脇といふ處にあり
 風宮ノ社 宮窓といふ地にあり」
 鹿嶋社と天王社は神明社の末社になっており、風宮は別の場所にあったらしい。ただ、宮窓は荒子観音があるところでもあるので、やはり風宮も荒子観音の敷地内にあったということだろうか。そのあたりの変遷というか位置関係がよく分からない。
『尾張名所図会』(1844年)の「荒子観音寺」の絵を見ると、今と同じ場所に神明社が描かれているので、江戸時代後期から変わっていないことが分かる。奥の方に小さな社が描かれており、「山王」・「弁天」とある。

 荒子観音寺(あらこかんのんじ)は、正式名を浄海山圓龍院観音寺(じょうかいざんえんりゅういんかんのんじ)という天台宗の寺だ。荒子にある観音寺ということで荒子観音と呼ばれている。
 729年に泰澄が創祀して、741年に泰澄の弟子の自性が堂宇を整えたと寺伝はいう。
 泰澄は白山を開いた修験の人で、各地を回って寺を開いたという伝説が残っている。
 荒子観音の本尊である聖観世音菩薩は泰澄作と伝わるもので、秘仏になっており、33年に一度公開される。
 ただ、これらの話は江戸時代の終わりに書かれた『浄海雑記』によるものなので、どこまで信憑性があるのかは分からない。
 一時は十二坊を持つ大寺院となったものの、その後、戦乱に巻き込まれるなどして衰退。
 戦国時代の永禄年間(1558-1570年)に、尾張における天台宗の一大学問所となっていた密蔵院(春日井市)に属して、全運上人が再興したとされる。
 荒子城主だった前田利家も修造している。
 しかし、豊臣秀吉による太閤検地によって土地を取り上げられて再び衰退。
 江戸時代に入ると尾張徳川家藩主の義直が庇護したことで盛り返し、尾張四観音のひとつに数えられるようになった。
 円空仏を1200体以上所持する寺としても知られている。
 円空(1632-1695年)は美濃国(中島郡中村とも)の生まれとされ、生涯に12万体の仏像を彫ったとされ、現在までに5,300体ほどが見つかっている。特に愛知県、岐阜県に多い。
 最近になって隣接する神明社の中からも円空仏が見つかり、ニュースで報じられていた。
 仁王門の仁王像二体も円空の作とされる他、円空仏は毎月第2土曜日(13時-16時)に拝観することができる。

 余談なのだけど、本堂の左手にある仏像ルームが最高にカッコイイことになっているので荒子観音を訪れた際はぜひ見て欲しい。
 中央に炎を背負った青い不動明王と、秋葉権現がいて、その前にフルカラー着色の二十八部衆が隊列を組んで立っている。
 それぞれの像は小さいのだけど、完全に仏像フィギュアコレクション・ルームの様相を呈している。
 ガチャガチャの仏像フィギュアを集めている私としては、この部屋丸ごと欲しいと本気で思った。
 仏像はフィギュアだと最初に言ったのがみうらじゅんかどうかは知らないけど、仏像コレクターの気持ちは分かる。仏像というのは、一体手に入れると次から次へと欲しくなる中毒性がある。戦国武将も小さな仏像を持ち歩いていたというけど、あれは身を守るためというだけでなく愛でるという側面もあったのではないか。

 神明社の本社は覆殿というのか覆屋といったもので囲われており、茅葺き屋根になっている。鰹木はなく、千木は女神千木だ。これは江戸時代のものだろうか。
 明治以降に神仏分離したとはいえ、今も神仏習合の名残が見られるところだ。現代人の感覚からしても、寺と社が渾然一体となったこのスタイルが自然なような気もする。

 

作成日 2017.10.20(最終更新日 2019.6.27)

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昔も今も荒子観音とともにある荒子の神明社

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