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生玉稲荷神社


名古屋を代表する稲荷神社のひとつ



生玉稲荷神社拝殿

読み方いくたま-いなり-じんじゃ
所在地名古屋市守山区小幡中3丁目13-44 地図
創建年伝1200年頃(鎌倉時代前期)
旧社格・等級等無格社・八等級
祭神倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
大巳貴神(おおなむちのかみ)
保食神(うけもちのかみ)
大宮女神(おおみやのめのかみ)
大田神(おおたのかみ)
アクセス名鉄瀬戸線「小幡駅」から徒歩約17分
駐車場 あり
webサイト 公式サイト
その他例祭 旧暦二月初午の日
オススメ度

 名古屋市内には独立した稲荷神社が少ない。規模が大きなところでいうと、中区の古渡稲荷神社や緑区の山藤稲荷神社くらいだ。
 一方で、ある程度の規模の神社には境内社としての稲荷社がたいていある。なので、稲荷社は多いといえば多いし、少ないといえば少ない。
 全国で見ると、主祭神として祀っているところが3,ooo社ほどあり、社としてあるのが約30,000社、小さなものをあわせるとその数倍ともいわれる。
 稲荷社はもともと、渡来系の秦氏(はたうじ)が山城国(京都)の稲荷山三ケ峰に稲荷神を祀ったのが始まりとされる(711年)。
 秦氏は秦の始皇帝の末裔を名乗り、283年に朝鮮半島の百済(くだら)から日本に渡ってきて帰化した弓月君を祖とする。ただ、いろいろな説があり詳しいことは分かっていない。
 太秦(うずまさ)の秦氏が松尾社(まつのおしゃ / web)を創建(701年)したのに対し、伏見の稲荷社(伏見稲荷大社 / web)を創建したのは弟の秦伊呂巨(はたのいろぐ)の家系としている。
 秦氏は本来、技術者集団としての性格が強く、日本に様々な技術や知識を持ち込んだことで大きく貢献し、のちに政治権力にも飲み込まれつつ関わっていくことになる。深草や嵯峨などを拠点としつつ、各地に勢力を広めていった。
 大きく力を持つようになったのは、都が平安京に移されたのがきっかけだった。遷都に関わっていたという見方もある。
 稲荷社が都の守護神として知名度と権威を上げる一方、東寺(web)建造に尽力して東寺の守り神となったことで真言密教などの仏教系とも結びついていく。
 神道における稲荷神はウカノミタマ(宇迦之御魂神/倉稲魂命)とされ、仏教における神は荼枳尼天(だきにてん/インドの女神ダーキニー)とされる。
 その後、様々な神や仏と習合しながら稲荷神は武家から民衆の間に広まっていくことになった。
 明治の神仏分離では稲荷神社と稲荷系の寺院に分かれた。仏教系の稲荷の代表が愛知県豊川市の豊川稲荷(web)だ。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが天正乙酉年(1585)の頃小治田、小幡城主、織田家は城内の守護神として祀り、徳川家康も深く信仰した。天正十二年(1584)四月家康が小幡の城主織田源三郎方に一泊した折、幟竿三本を稲荷山より伐り用達した後家康書類を添えて陣中用幟一本を寄進したという。慶安三年(1650)九月、大洪水に社殿流失したが再建、今日到った。明治6年、据置公許となる。昭和49年5月社殿を造営、境内を改修した」
 ここには書かれていないのだけど、社伝では鎌倉時代前期の1200年頃創建としている。



 鎌倉時代前期にこの地に稲荷神を祀ったのはどんな勢力だったのかということになるのだけど、そのあたりのことを探りつつ、まずは小幡の地形や歴史的な経緯を見ておきたい。
 ここは北の庄内川と南の矢田川に挟まれた台地上で、縄文時代の牛牧遺跡(地図)が見つかっていることからも古くから人が暮らす土地だったことが分かっている。牛牧遺跡は縄文時代から古墳時代にかけて長い間集落として使われていたため、多くの出土品がある。
 中型から大型の古墳が何基も築造されたところでもあり、志段味とは別の勢力がいて、ヤマト王権とつながっていたことを示唆している。
 生玉稲荷神社の600メートルほど南にある小幡白山神社地図)は6世紀頃の築造とされる33メートルほどの円墳の上にある。この神社は600年代初頭に、欽明天皇の皇子である小墾田王(おはるだおう)がこの地にやってきて創建したという伝承が残っている。
 白山神社の西600メートルほどには瓢箪山古墳(5世紀末から6世紀初頭の前方後円墳/地図)が、白山神社の南西2キロには市場白山神社地図)があり、100メートルを超える4世紀後半の前方後円墳がある。
 生玉稲荷の東には小幡長塚古墳(6世紀前半、81メートルの前方後円墳/地図)や茶臼山古墳(6世紀中頃、63メートルの前方後円墳/地図)などがある。
 古墳の上に神社を建てることが全国的なスタンダードなのかどうかは知らないのだけど、この地方ではよくある。
 古墳時代から鎌倉時代までは600年もの歳月が流れているから直接的な関係はなさそうだけど、ここ小幡がそういう土地だったということは前提条件として頭に入れておく必要がある。



 津田正生は『尾張国神社考』の中で瀧川弘美曰くとして、小幡の地名は尾張戸神社の尾張戸から来ているという説を紹介し、『延喜式』神名帳(927年)の尾張戸神社は宮地村の大永寺の西の天神森にあったと主張する。東谷山(尾張山)山頂にある神社は尾張戸神社ではなく山田郡尾張神社だという。
 それとは別の説として、小幡の神社創建に関わったとされる欽明天皇の皇子の小墾田王から小幡の地名は来ているというのもある。
 天皇の皇子がこんな尾張の片田舎にやってきたというのは唐突な話にしか思えないのだけど、『新撰姓氏録』(815年)にそういったことが書かれているという(未確認)。
 第29代欽明天皇は第26代継体天皇の息子に当たる。
 継体の最初の妃は尾張草香(おわりのくさか)の娘の目子媛( めのこひめ)だった。
 その間の子供が安閑天皇(27代)、宣化天皇(28代)として即位している。
 欽明天皇は、継体が即位してから立皇した手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間に生まれた皇子だ。
 この時代の天皇家(大王家)と尾張は関わりが深い。小墾田王は天皇系図に出てこないので母親が分からないのだけど、天皇の後継者争いに敗れて尾張まで逃れてきたという可能性もあるのではないか。話が突拍子もないだけに、なんらかの史実を反映しているとも考えられる。



 時代は移って鎌倉時代。江戸時代になってから水野街道(今の瀬戸街道)として整備される道はすでにあったと思われる。ただ、小幡の集落はもともと生玉稲荷があるあたりにあって、その後、街道の発展とともに街道筋に移っていった。
 水野街道は尾張藩初代藩主義直が鷹狩りをするため瀬戸の定光寺へ行く道を整備したのが始まりで、義直が定光寺に葬られたことから歴代の尾張藩主もこの道を使うことになった。
 小幡白山神社は水野街道から少し北に入ったところにある。生玉稲荷は白山神社の真北600メートルに位置している。この位置関係はたまたまだったのか意識したのかは分からない。
 小幡の白山神社は複雑な経緯を辿っているのだけど、もともとあったのは愛宕社だった。この愛宕社を建てたのがどういう勢力だったのかも気になるところだ。
 鎌倉時代、小幡に暮らしていた人たちが稲荷神を祀ったというのもピンと来ない。本当に初めから稲荷社だったのだろうか。



 もう少し時代は進んで戦国時代。
 生玉稲荷神社の西300メートルほどの場所に小幡城(地図)が築かれた。
 織田家の家臣だった岡田重篤(おかだしげあつ)が1522年に築城したと伝わる。
 守山城主だった織田信光が入城するも、1555年に信光が殺されていったんは廃城になった。
 1580年頃、小幡の領主だった織田正信(おだまさのぶ/源三郎/赤千代)が稲荷社を城内の守護神として祀ったとされる。正信は信成の長男で、母は信長の妹(小幡殿)なので、信長の甥ということになる。
 本能寺の変(1582年)ののち、正信は信長の次男の信雄に従うことになる。
 1584年の小牧長久手の戦いの際、家康は犬山城から長久手に向かう途中で小幡の正信宅で一泊したとされる。そのとき、正信の家臣がうちの稲荷はいいんですよと家康に勧めて、稲荷山から切り取ってきた竹を旗竿にして贈ったというエピソードが『愛知縣神社名鑑』にある話だ。
 合戦前の備えとして、本多広孝や松平家忠らを派遣して改築したあと守備させたという話もある。
 小牧長久手の戦いののち、再び廃城になった。
『寛文村々覚書』(1670年頃)には、「織田源次郎三代居城之由、今ハ畑ニ成」とある。



 江戸時代の書の中でこの稲荷社と思われるものが出てくるのは『尾張志』(1844年)のみで、『尾張徇行記』(1822年)や『寛文村々覚書』には出てこない。
『寛文村々覚書』は小幡村には社が十二社あり、白山、諏訪明神、愛宕、富士浅間、神明、山神七社を挙げる。
『尾張志』にはこうある。
「三社ノ社 小幡むらにありて白山愛宕八幡を合せ祭る 府志に疑らくは神名式に載たる多奈波太ノ神社ならむ天棚機媛命を祭るといへり今社傳を失ふ故に知れさるよし書は誤也その多奈波太神社は田幡村にあり 當村に松林多し 村人小社を建て鎮守として皆山神と号す□て六ヶ所いありむらし小治田ノ連等が住し里なれは其祖神を祭りし古社なるへし」
「愛宕社 神明社 稲荷社 諏訪社 大田神ノ社 同村にあり」
 白山・愛宕・八幡をあわせて三社社と呼んでいたのは今の小幡白山神社のことで、『延喜式』神名帳の山田郡多奈波太神社ではないかとする説は間違いで、かつて小治田連が住んでいたところなので祖神を祀ったのが始まりだろうといっている。
 大田神の社は京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社/web)の摂社から勧請したものだろうか。祭神はアメノウズメ(天鈿女命)とされる。
 その他、稲荷社に関する情報はない。



 1650年に大洪水で社殿が流失したというのは本当だろうか。北を流れる庄内川とは1キロ以上離れているし、庄内川が海抜10メートル程度なのに対して神社がある土地は海抜30メートルほどある。ここまで水が溢れて社殿まで押し流すとなると天変地異くらいの災害だ。南の矢田川と両方が氾濫したのかもしれない。
 第二次大戦の空襲でも全焼してしまった。小幡が原に軍の射的場があったのでそこが目標となったのだろう。
 そうえいば、生玉神社の名前の由来が分からない。改称されたのは明治12年(1879年)で、それまでは小幡稲荷などと呼ばれていた。私はずっと「なまたま」と思っていたのだけど、正しくは「いくたま」だ。公式サイトにも由来は書いていないので、どこから来ているのか分からないのかもしれない。



 結局、鎌倉時代初期に誰がどんな神を祀る社として建てたのかは分からずじまいだ。時代的にいうと、山田重忠が山田荘の地頭だったときなので、もしかしたら山田重忠が関わっているかもしれない。もしそうだとすると、山田重忠が稲荷神を祀るだろうかという疑問を抱く。稲荷神を祀るようになったのは江戸時代になってからではないかとも思うけど、そうだという確証はどこにもない。
 少し気になったのは『愛知縣神社名鑑』に書かれた特殊神事の項で、それによると茅輪くぐりや赤丸神事を行っているとあることだ。もしそれらが江戸時代以前から行われているとすれば、もともと稲荷社ではなかった可能性が高くなる。茅輪くぐりは牛頭天王(スサノオ)に由来する神事で、赤丸神事は赤ん坊の虫封じとして行われるものだ。どちらも起源は古く、稲荷社で行うような神事ではない。
 とはいえ、今は立派な稲荷社としてやっている。それがすべてといえばすべてだ。
 毎月1日と15日は、朝6時から10時まで境内で朝市が開かれている。




作成日 2017.3.25(最終更新日 2021.4.28)


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