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守山区天王社・小社(まとめ)

【下志段味長戸天王社】

下志段味長戸天王社

所在地 名古屋市守山区下志段味長戸 地図
 アクセス 市バス「天王橋停留所」下車(印場←→高蔵寺)
駐車場 なし

 長戸川に架かる天王橋近くにある天王社。
 赤色に塗られた典型的な姿の天王社で、社号標もあって分かりやすい。
 守山区にはこうした小さな天王社が多い。どうして守山区にだけこれほど多く残ったのか、残すことができたのかは分からない。
 他の区では熱田・秋葉・津島をセットにした屋根神様のパターンが多いのに対して、守山区は津島社ではなく天王社という名前で残した。理由は不明ながら地域性には違いない。

 社の北を東西に流れている長戸川は、尾張旭市と守山区にまたがる滝の水池を水源として、下志段味落合で庄内川に注いでいる。
 志段味一帯は玉野川(庄内川)がよく氾濫して被害を受けた地区で、小川や溜め池も多い。
 地域の守り神として天王社が祀られたのだろう。それは神仏習合の牛頭天王だったのだろうけど、スサノオも意識したものだったかもしれない。

作成日 2018.5.27

【四軒家1天王社・秋葉社】

四軒家1天王社

所在地 名古屋市守山区四軒家1丁目 地図

アクセス

市バス/名鉄バス「四軒家停留所」下車
駐車場 なし

 四軒家地区集会所の隣にある天王社。
 横に並んでいるのは秋葉社のようだ。
 集会場は弘法堂でもある。中に弘法さんが祀られているという。

 江戸時代のこのあたりは大森村の支村の森孝新田と呼ばれた場所で、尾張藩の家老、成瀬隼人正の松林があった。
 それが明治になって官有林となり、管理をする杣人(そまびと)の小屋がこちらに四軒、あちらに三軒というようにあったことが四軒家(しけんや)、三軒家(さんげんや)の由来とされる。
 江戸時代の文人、
露竹斎宇朝(ろちくさいうちょう)は、「隼人林、古松左右におい茂りて淋し」と書いている。

作成日 2018.5.27

【喜多山1天王社】

喜多山1天王社

所在地

名古屋市守山区喜多山1丁目1 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「喜多山駅」から徒歩約4分
駐車場 なし

 名鉄瀬戸線・喜多山駅の南、瀬戸街道沿いの北側にある天王社。
 瀬戸街道は古くからあった道で、南区の星﨑あたりで作った塩を信州方面へ運ぶために利用されていた。江戸時代は名古屋と瀬戸をつなぐ重要な道で、尾張藩祖代藩主の義直が定光寺に通うために整備したりもした。その義直は瀬戸定光寺に葬られることになり、尾張藩代々の藩主は廟所への行き帰りにこの道を通った。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、ここは東の大森村と西の小幡村の間ということが分かる。西一帯にあった小幡射的場は明治になって作られた日本陸軍の施設だ。
 喜多山の地名は北山にめでたい字を当てたものというのだけど、いつ頃から使われるようになったのかはよく分からない。昭和以前ではあるけど、それほど古い表記ではない。
 街道沿いにはポツポツ家が建っていたようだから、それらの家が祀ったのが最初かもしれない。元からこの場所にあったとは限らない。

 外観は守山区に残る天王社の典型的なもので、やや特徴的な赤色で全体が塗られている。
 社の中には津島神社(web)の御札が祀られていた。新しいようだったので毎年受けているのだろう。
 素朴な木像も納められているのだけど、新しいものなのか古いものなのか。古いものであれば牛頭天王をかたどった神像ということになるだろうか。

作成日 2019.7.18

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

喜多山にあるけど小幡一番組天王社らしい

【小幡南天王社】

小幡南天王社

所在地

名古屋市守山区小幡南3丁目17 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「小幡駅」より徒歩約10分
駐車場 なし

 名鉄瀬戸線の線路から少し南へ入った住宅地に祀られている天王社。
 社と覆屋が赤く塗られているのは守山区一帯に多く残る天王社の特徴だ。
 おそらくもともとは厄除けのために牛頭天王を祀っていて、今は津島神社(web)から御札を受けてスサノオを祀っているだろう。
 江戸時代はこういった天王社が名古屋中にあったはずで、どうしてそれが守山区にだけ多く残ることになったのか、理由は考えてもよく分からない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、瀬戸線が通る以前は瀬戸街道の南は雑木林だったようだ。道沿いに家が点在しているくらいで、小幡村の集落は今の小幡駅とその西側にあった。
 現在の社がある場所は雑木林の中なのだけど、すぐ東に細い道が通っていたことからすると、わりと古くからこのあたりにあったのかもしれない。早ければ江戸時代中期以降、遅ければ明治に入ってからとも考えられる。
 小幡南のこのあたりが住宅地になったのは戦後しばらくしてからのことだ。
 小幡南の町名は平成6年(1994年)に成立した。
 3丁目は、大字小幡字山脇と字存命の全域と字深河の一部から成っている。

 こういった経緯を考えると、江戸時代中期以降、もしくは明治に祀った天王社を戦後に区画整理されたときに現在の場所に移したと考えるのが自然な気がする。隣の民家の方ならそのあたりの事情をご存じだろうか。

作成日 2019.7.26

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小幡南天王社

【慶生壽竜神】

慶生壽竜神

所在地

名古屋市守山区小幡1丁目1 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「小幡駅」より徒歩約2分
駐車場 なし

 名鉄瀬戸線小幡駅の北を平行して通っている瀬戸街道から少し北に入った住宅地の中に小さな社がある。
 社の後ろにけっこう大きな木があって注連縄がまかれているから、これが御神木なのだろう。
 ネット情報によると、慶生壽竜神という龍神を祀っているとのことだ。社の裏手に社名が書かれた札があるそうなのだけど見逃してしまった。
 これは何と読むのだろう。慶生は「けいせい」でいいとして、壽は「ことぶき」か「じゅ」だろうから、「けいせいじゅ-りゅうじん」なのか、「けいせいことぶき-りゅうじん」なのか。
 慶も壽もめでたいとか喜ばしいといった意味だから、喜ばしいことがたくさん生まれるようにという願いから名づけられただろうか。
 御神木は樟(くすのき)ではないかと思うけどあまり自信がない。
 この木に棲む蛇を祀ったのが始まりとも考えられる。
 ここはマンション駐車場の一角で、この木をわざわざ残して社で龍神を祀っていることからすると、何か特別ないわれがあるのかもしれない。
 南の瀬戸街道は古くからあった道で、江戸時代に名古屋と瀬戸方面を結ぶために整備された。江戸時代のこの場所は小幡村だった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、この頃までにすでに街道沿いに家が建ち並んでいる。
 木は数百年というほどではないけど数十年は経っているので、さかのぼるとすれば昭和初期か、古ければ明治、大正ということもあるだろうか。
 供えられている榊が新しかったので、日常的にお世話をしている人がいるようだ。龍神は大切にした方がいいので、ぜひこれからも守り伝えていってほしい。

作成日 2019.9.30

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小幡の慶生壽竜神

【小社(小幡中1)】

小社(小幡中1)

所在地

名古屋市守山区小幡南1丁目13 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「小幡駅」より徒歩約12分
駐車場 なし

 白山神社(小幡)の北東にある小さな社。
 地図を見るとここは小幡白山神社と白山保育園の敷地内に見える。ただ、この白山保育園を経営しているのは小幡白山神社ではないはずなので、そのあたりの関係性がよく分からない。
 白山保育園は昭和24年(1949年)にともしび幼稚園小幡分園として開園したもので、現在は社会福祉法人白山福祉会というところが経営している。小幡白山神社が境内の一部をともしび幼稚園に売却して今のような恰好になったのではないかと思う。
 この小社がもともと小幡白山神社の境内社だったかどうかは何ともいえない。もしかすると、ともしび幼稚園が祀ったものかもしれない。
 カラーリングからすると天王社ではなく稲荷社のように見えるけど、それを示すものは何もない。なので、とりあえず小社としておく。
 フェンスに囲まれており、近づくことはできない。参拝客を受け入れている様子はないので、一般向けの社ではなさそうだ。

作成日 2019.10.1

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小幡の白山神社とは関係なさそうな小社

【天王社(小幡白山神社内)】

小幡白山神社天王社

所在地

名古屋市守山区小幡南1丁目13 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「小幡駅」より徒歩約11分
駐車場 なし

 白山神社(小幡)内にある天王社なのだけど、境内社ではなく別の場所にあったものを境内に移したのではないかと思う。社の感じが守山区に点在する天王社と共通している。
 この社に関する情報が得られなかったため、これ以上のことは分からない。
 かつて小幡村にたくさん祀られていたであろう天王社の生き残りだろう。

作成日 2019.10.2

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小幡白山神社に間借りする天王社

【小幡常燈天王社】

小幡常燈天王社

所在地

名古屋市守山区小幡常燈10 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「小幡駅」より徒歩約9分
駐車場 なし

 瀬戸街道や名鉄瀬戸線から少し南に入った住宅地の一角にある。
 社は屋根まで木造の質素なものながら瓦屋根付きの覆殿はちょっと贅沢だ。しかも、わりと広い敷地を与えられている。
 地面のうねり具合や広さからすると、もともとこの場所に民家が建っていたとは思えないから、古くからここにこうやって祀られていただろうか。
 社の中に津島神社の神札が祀られているので天王社ということが分かる。今は津島社と称しているかもしれない。
 江戸時代の小幡村はそこそこ大きな村だったのだけど、民家は瀬戸街道沿いと北側に集まっていて、街道より南は雑木林と田んぼが広がっていた。
 今昔マップを見ると明治、大正、昭和と少しずつ家が増えていった様子が見てとれる。ただし、発展はゆるやかで、社があたるあたりが本当に住宅地になったのは1960年代以降のことだ。
 名鉄瀬戸線の前身の瀬戸自動鉄道が開業したのが明治38年(1905年)のことだった。
 現住所の小幡常燈は小幡と常燈(じょうとう)が平成6年(1994年)にあわさってできた町名で、字常燈の地名はそれ以前からあった。
 常燈というと街道や宿場にあった常夜灯を思わせる。瀬戸街道沿いの常夜灯がこのあたりにあったことが由来かもしれない。
 天王社がいつからここにあるかは分からない。江戸時代から祀られていたものなら明治か昭和にここに移された可能性が考えられる。

作成日 2019.10.2

【守山3天王社】

守山3

所在地

名古屋市守山区小幡3丁目11 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「瓢箪山駅」より徒歩約8分
駐車場 なし

 すいどうみち緑道と名づけられた道沿いにある。
 犬山市の木曽川から取水した水は、春日井市を縦断して庄内川の底を横切り、守山区を通って千種区の鍋屋上野浄水場(web)に送られる。これが名古屋市民の水道水となっているものだ(総距離約25キロ)。
 これは暗きょになっているのだけど、北の庄内川から南の矢田川までの約2.5キロをすいどうみち緑道として整備しており、そこは遊歩道になっている。
 社があるのは陸上自衛隊守山駐屯地のすぐ南東だ。
 明治30年(1897年)に日本陸軍第3師団歩兵第33連隊が名古屋城から移転してきたのが始まりで、終戦後米軍に接収され、昭和32年に米軍が撤収した後、昭和34年に守山駐屯地となった。
 江戸時代のこの場所が何村だったのかは微妙なところだ。東の小幡村の村域内だったのか、小幡村の支村だった廿軒屋の内なのか。西の守山村ではないと思う。
 覆殿の中を覗くと、やや大きめの社と左右に一社宮の神棚が収まっている。カラーリングからして中央が天王社なのは間違いないと思うのだけど、左右の小さい方は分からない。どこかの家庭で祀られていたものだろうか。向かって左の千木が内削ぎで右が外削ぎになっているので、最初からこのように対比させて祀っていたかもしれない。
 もともとこの場所にあったのか、どこか別の場所から移されてきたのかの判断はつかない。
 覆い殿の脇に3つの石碑が並んでおり、形や素材は違うもののいずれも山神と彫られている。村のあちこちに祀られていたものをここに集めたのだろう。

作成日 2019.10.3

【大牧町天王社】

大牧町天王社

所在地

名古屋市守山区大牧町6 地図

アクセス

名鉄瀬戸線「守山自衛隊前駅」より徒歩約20分
ゆとりーとライン「金屋」より徒歩約6分
市バス「大牧町」よりすぐ
駐車場 なし

 守山いつき病院の北の住宅地の中にある。
 守山いつき病院はかつての守山市民病院で、平成25年(2013年)に市民病院が民間に譲渡して経営母体と名称が変更になった。
 社がある大牧町は平成2年(1990年)に大字大森垣外・大字牛牧・大字小幡・大字金屋坊・金屋2丁目の各一部より成立した。
 大牧町の町名は大森垣外と牛牧からそれぞれ一時ずつ取って付けられたもので、住民のアンケートによって決定されたという。
 近くには縄文時代以降の牛牧遺跡や弥生時代の牛牧離レ松遺跡守山瓢箪山古墳などがあり、古くから人が住んでいた土地ということが分かっている。牛牧という地名も古いとされる。
 大森垣外は江戸時代の大森垣外村だったところだ。大森海道村とも表記した。
 ただ、町としては新しく、大牧町あたりに家が建ったのは1960年代以降のことだ。今昔マップで明治以降の変遷を辿ると町の発展の様子が見てとれる。このあたりは丘陵地帯で雑木林が広がっており、北側は墓地だった。
 明治に陸軍の三十三連隊が移ってきて土地が開かれた。これは戦後に自衛隊の守山駐屯地となった。

 社の外観は赤く塗られていないので天王社らしくないのだけど、天王社らしい。
 玉垣はまだ新しく、裏を見ると平成二十年十二月吉日とある。それがここに移された年なのだろう。それ以前はどこにあったのかは調べがつかなかった。
 左隣が空き地で、右の家は新しいので、この家が建ったときかもしれない。右の家の敷地に食い込んでいる恰好になっているから、この家の方が引き受けたのだろうか。もしくは土地の一部を譲ったのか。
 大森垣外村で祀られていた天王社ではないかと思うけど、それはあくまでも推測でしかない。

作成日 2019.10.4

【下志段味天王社】+石碑

下志段味天王社

所在地

名古屋市守山区大字下志段味字石米 地図

アクセス

市バス「天王橋停留所」または「雨池停留所」より徒歩で
駐車場 なし

 八幡神社(下志段味)の境内にある天王社。しかし、境内社ではないと思う。外観が守山区に点在する典型的な天王社のもので、置かれている場所からしても境内社っぽくない。
 下志段味の八幡神社も明治5年(1872年)に現在地に移されている。それまでは800メートルほど北西の庄内川のすぐ南にあった。
 天王社が移されたのもこのときなのか、もっと後なのかは分からない。
 天王社の隣には廿三夜の石碑も建っている。これも他から移されてきたものではないかと思う。
 天王社の左手には石碑や地蔵像が並んでいる。

下志段味石碑

 中央の石碑には「大峯山大権現」と刻まれている。奈良県吉野の修験の寺、大峯山大寺の信仰を示すものだ。江戸時代にはこのあたりにも修験者がいたのだろう。
 向かって右手の石碑にも何か刻まれているのだけど、表面が風化して文字が読めない。下半分は大権現だろうか。
 これらの石碑も村にあったものをここに集めたのではないだろうか。
 神社の境内には様々な時代の様々な信仰が折り重なっている。

作成日 2019.10.5

【村合町天王社】

村合町天王社

所在地

名古屋市守山区村合町 地図

アクセス

ゆとりーとライン「川宮」から徒歩約7分
駐車場 なし

 神明社(村合町)の中にある天王社。
 外観や扱いからして元からの境内社ではないと推測できる。
 ここは江戸時代の大森垣外村だと思うのだけど、ちょっと自信がない。
 村合町の神明社もはっきりしないところがあって、創建のいきさつがよく分からない。江戸時代の書のどの神明が今の村合町の神明社に相当するのか掴めなかった。
 このあたりが区画整理されたのは1960年代以降のことで、それまでは道沿いに大森垣外村時代から続く集落があるだけだった。まわりは田んぼが広がっていた。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神明社がある場所に鳥居マークが描かれているので、この頃までには神明社が現在地にあったことが分かる。
 このときすでに天王社は神明社の境内にあったのかどうかは何とも言えない。昭和40年代に区画整理されたときに移された可能性の方が高い。
 村合町は昭和53年(1978年)に大字牛牧・大字大森垣外・大字大永寺の一部より成立した。字名としてはそれ以前からあったものだけど、村合の由来については調べがつかなかった。

 社の前に置かれたミニチュア鳥居はちょっと面白い。こういった小さな社に合っているから、他のところでも採用すればいいのにと思う。

作成日 2019.10.6

【森孝3御嶽碑】+堂

森孝3御嶽碑

所在地

名古屋市守山区森孝3 地図

アクセス

基幹バス「三軒家停留場」から徒歩約7分
駐車場 なし

 出来町通りから北へ入っていって、八劔神社(森孝)を過ぎた裏手の住宅地の中にある。
 家の空き地なのかそうではないのかよく分からないのだけど、土を盛って回りを固めた高台になっている。このあたりは矢田川からも香流川からも遠い微高地だから水害対策ではないだろう。
 中央のお堂の中にはやや大きめの役行者と思われる石像があり、小さな弘法像が二体収まっている(片方は掌サイズの木像)。御札の文字がよく読めないのだけど、「金剛□□尊」だろうか。
 向かって左にあるのが御嶽教の霊神碑だ。
 今昔マップを見るとここは明治中頃の森孝新田村の中心付近だったことが分かる。森孝のあたりは江戸時代後期にようやく人が住むようになったところで、新田村として開発されるのは明治に入ってからだった。
 ただ、今昔マップでは今の森孝2丁目・3丁目から向台3丁目にかけてけっこう家が建っているので、江戸末期にはすでにそれなりの人が住んでいたかもしれない。
 森孝の八劔神社の創建は江戸時代後期の1826年と伝わっている。
 こういう経緯を踏まえると、このお堂が建てられたのは江戸後期から明治前半にかけてという推測ができる。
 霊神碑には「明治三十五年」(1902年)とあるので、こちらははっきりしている。

森孝霊神碑

 覚明霊神・明覚霊神と心願講中という文字が読める。
 覚明霊神は御嶽教を開いた祖だからお馴染みだけど、明覚霊神は知らない。心願講社関係の人だろうか。
 その下には発起人の名前が刻まれている。
 覚明霊神や御嶽講社のことなどについては御嶽神社(高針)のページに書いた。

作成日 2019.10.7

 

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

喜多山にあるけど小幡一番組天王社らしい

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