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神明社(曽根)


元伊勢伝承は根拠のないものではないかもしれない



曽根神明社

読み方しんめい-しゃ(そね)
所在地名古屋市緑区曽根2丁目 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明
アクセス名鉄名古屋本線「左京山駅」から徒歩約6分
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 一見すると町によくある普通の神明社なのだけど他とはちょっと違うふたつの特徴がある神社だ。ひとつは諏訪山の諏訪社地図)の飛び地境内社であること、もうひとつは元伊勢を称していることだ。
『愛知縣神社名鑑』の諏訪社(諏訪山)の項を見ると、「昭和27年8月鳴海町字神明千八番地もと村社神明社を合併、飛地境内神社とした」とある。
 現在は曽根という地名になっているこのあたりは以前は神明という地名だったようだ。
 曽根の町名は昭和51年以降のことで、字名の曽根田から来ている。
 曽根というと一般的には河川の氾濫があって自然堤防ができた土地のことをいうのだけど、曽根田から来ているとすれば石の多い痩せた土地を意味する埆(そね)から来ているかもしれない。
 手越川と扇川の合流地点手前だから河川の氾濫があった可能性は充分にあるけれど。



 元伊勢というのは、倭姫が天照大神(アマテラス)の鎮まる場所を探して各地をさまよっているとき、その御神体である八咫鏡(やたのかがみ)を一時的に祀った場所をいい、元伊勢と称する神社は愛知県にもいくつかある。
『倭姫命世記』によると、尾張国には中島宮があったとされ、一宮市の酒見神社をはじめ、浜神明社(真清田神社境外末社)、丸宮神明社(中嶋宮に合祀)、坂手神社、御園神明社(清須市一場)などに伝承が残っている。
 津田正生は『尾張国地名考』の中で稲葉通邦曰くとして、御園神明でも酒見神社でもなく萩原の丸宮神社が中島宮だと書いている。
『倭姫命世記』は768年(神護景雲2年)に禰宜(ねぎ)の五月麻呂(さつきまろ)の撰という説もあるのだけど、実際は度会神道(伊勢神道)の正当性を主張するために鎌倉時代の建治・弘安(1275-1288年)の頃に外宮の神官だった渡会行忠(わたらいゆきただ)によるものというのが通説になっている。
 伊勢神道の根本経典である神道五部書のうちのひとつとされる(他は『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』、『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』、『豊受皇太神御鎮座本記』、『造伊勢二所太神宮宝基本記』)。
『倭姫命世記』の信頼性については意見が分かれるところなのだけど、倭姫が辿ったルートとしては、13番目の淡海国「坂田宮」の後、北上して美濃国(14番)の「伊久良河宮」(いくらがわのみや)に到り、そこから南下して尾張国(15番)の中島宮に入り、更に南下して伊勢国の「桑名野代官」(くわなののしろのみや)に向かったとしている(豊鍬入姫の倭国(1番)「笠縫邑」(かさぬいむら)から始まり伊勢国の内宮は26番)。
 今でいうと一宮から桑名に真っ直ぐ南に下ったとされるから名古屋は通らない。実際のところ、名古屋市内の神社で元伊勢の話が出てくるのはここだけで、他ではちらりともそんな話は出ない。一体、元伊勢云々というのはどこか来た話なのか。



 名古屋と伊勢の神宮との関わりでいえば、平安時代までは伊勢の神宮の荘園、一楊御厨(いちやなぎみくりや)があったことが挙げられる。ただしそれは、今の中村区岩塚から中川区の高畑、荒子あたりで、緑区のこのあたりではない。
 では元伊勢云々というのはまったく根拠がない作り話かというと、そう決めつけていいわけでもない。話が唐突すぎるがゆえに何らかの根拠があったのではないかとも思える。
『緑区の歴史』の中で『蓬州旧勝録』の記事を紹介していて、それにはこうあるという。
「天照皇太神宮社 拝殿 鳴海宿下り方街道左側山続キ鎮座 往古神皇暫鎮座ノ地也と云也」
 曽根の神明社がいう元伊勢伝承というのはこのあたりから来ているのかもしれない。
『蓬州旧勝録』(ほうしゅうきゅうしょうろく)は江戸時代後期の1779年(安永8年)に出された尾張国の地誌なのだけど、それにしてもまったく無視していいとも思えない。
 神明社の創建(創祀)がいつだったのかはっきり伝わっていないものの、前々除となっていることから江戸時代以前だったことは間違いなく、神社の西側一帯が鳴海潟と呼ばれる海が広がっていた時代からあったとすれば、ここは海岸に当たり、まっすぐ南に伊勢の神宮があるという場所に位置している。神宮の遙拝所だったという話もあり、倭姫が滞在したということはないとしても、伊勢の神宮にまつわる何かがあった可能性は考えられる。



『尾張志』(1844年)には「神明ノ社 神主菊田數馬」とあり、『尾張徇行記』(1822年)は「神明祠祠官菊田備前守書上ニ境内四畝八歩御除地」とある。
 手水の鉢には「宝暦六年 神主菊田八郎大夫」とあり(宝暦六年は1756年)、『鳴海旧記』には「祢宜平部町八郎大夫 祭礼湯立 毎年九月十六日」とある。
 古くから菊田家が神主をつとめていたようで、平部町には菊田備前の家があったとも伝わっている。
 湯立て神事(ゆだてしんじ)は古い祭礼で、神前に大きな釜を置いて湯を沸かし、神がかりになった巫女が笹や幣串に湯を浸して振りかけるというものだ。一種の祓いには違いないのだけど、神がかりになるというのが普通ではない。
 江戸時代から祭礼は夜祭りとして夜行っていたというから普通の神明社の祭りとは違っている。



 このように、ここは歴史を秘めた神社で、ただの神明社ではない。そんな神社を諏訪社の飛び地境内社としてしまったのはもったいないようにも思えるけど、合祀してしまうよりはましで、こうしてなかば独立した格好で残ったからこそ伝承も消えなかったといえる。
 神明社の皮を被った別の神社というのは少なくない。




作成日 2018.11.6(最終更新日 2019.4.7)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

古くから神宮と関わりがあったらしい曽根の神明社

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