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八幡社(万場)

戦国時代前期にはすでにあったようだ

万場八幡社

読み方 はちまん-しゃ(まんば)
所在地 名古屋市中川区万場5丁目 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス 地下鉄東山線「岩塚駅」から徒歩約40分
駐車場 なし
その他 例祭 5月8日
オススメ度

 名古屋高速5号万場線が通る道路沿いにある神社。もともとここにあったとは思えなかったのだけど、今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、大きくは動かされていないようだ。変わったのは神社の場所ではなく周囲の環境ということになる。
 萬場宿は東海道の脇街道として整備された佐屋街道とともに開設された宿場町だ。江戸時代前期の1634年のことだった。2年後には庄内川を挟んで東に岩塚宿が設置され、ふたつの宿場が半月ごとに交代で宿場の機能を果たしていた。庄内川を渡る萬場の渡しに関しては萬場宿の担当だった。
 名古屋高速の高架がある道ができたのは昭和に入ってからで、大正時代までは少し南を通る道が佐屋街道だった。その頃は萬場大橋も今より南に架かっていた。
 今昔マップで確認すると、八幡社は萬場村の集落の北西外れにあったことが分かる。田んぼの中で樹林マークに囲まれているので鎮守の森に守られた恰好だったのだろう。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張志』天神ノ社、八幡社、八劔社、三社万場村にありと、明治6年、据置公許となる」
 八劔社はのちに國玉神社( 国玉神社・八剣社合殿)とされることになる神社のことで、江戸時代は八劔社と呼ばれていた。

 江戸時代の萬場村の項を見るとそれぞれこうなっている。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「社弐ヶ所内 大明神 八幡 同祢宜 惣大夫持分 社内壱反五畝歩 前々除」

『尾張徇行記』(1822年)
「大明神 八幡社界内一反五畝歩前々除 府志云、八剣祠 天神祠 八幡祠倶在万場村」
「祠官溝口豊後書上帳ニ、八幡社内五畝前々除 灯明田九畝五歩、此内八畝五歩御除地一畝村除 此社勧請ノ初ハ不知、再建ハ永正八未年也」

『尾張志』(1844年)
「八劔ノ社 天神ノ社 八幡ノ社 三社共に萬場村にあり此天神社を右近の馬場より勧請し奉りしより馬場が村名となりしなるへし」

 前々除とあるので、1608年の備前検地のときにはすでにあったことが分かる。
 創建年は不明なものの、再建年の永正八年は1511年だから、少なくとも戦国時代前期にはあったということだ。室町か鎌倉時代までさかのぼるかもしれない。

 本殿は小さいながらもわりと古そうだ。拝殿はけっこう新しい。
『愛知縣神社名鑑』は本殿を板屋造としているのだけど、現状は流造だ。
 何故か鳥居が神明鳥居になっていて少し違和感があった。
 真新しい小さな境内社は何を祀るものだろう。

 

作成日 2017.11.25(最終更新日 2019.7.7)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

見た目よりも意外と古い万場八幡社

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