この神社は熱田新田の十四番割の氏神として創建されたものだ。 ただ、創建年についてややはっきりしないところがある。
『愛知県神社名鑑』はこう書く。 「創建は正保四年(1647)という。天王社と称して農民の信仰あつく近在よりの参詣者多数ありと。明治初年、社名を改め明治5年7月、供進指定社となる」
『尾張志』(1844年)はこうだ。 「天王ノ社 當社は慶安四卯年初て勧請すといへり十四番割の氏神也」
『尾張徇行記』(1822年)ではこうなる。 「熱田社人松岡太夫書上ニ、十四番割氏神天王社内四畝十六歩、外ニ供田九畝七歩共ニ御除地、此社慶安三庚寅年勧請ナリ」
熱田新田の開発は尾張藩初代藩主の義直の発案で行われた尾張藩直轄事業で、1647年(正保四年)に始まり、1649年(慶安2年)に完成した。 『愛知県神社名鑑』の1647年が正しいなら熱田新田の開発と同時期に創建したということになり、『尾張志』や『尾張徇行記』が正しいなら熱田新田の開発が成った後ということになる。 1651年(慶安4年)というのは、熱田新田の縄入(検地)が行われた年で、このとき一番割から三十三番割まで定められた。なので、番割神社の創建年としてはこの年の方が正しいのではないかと思う。『尾張徇行記』がいう「熱田社人松岡太夫書上」の記載が正しいなら1650年(慶安3年)ということになるだろうか。
津島市の津島神社(web)から勧請して、江戸時代は天王社と称していた。 中世から近世にかけての津島神社は津島牛頭天王社という名で牛頭天王を祀っていた。だから、須成町の天王社も当初は牛頭天王が祭神だったのではないかと思う。 ただ、『尾張志』の他の番割神社で素盞鳥尊を祀るとしている神社が2社あることからすると(一番割の神明社と十七番割の神明社)、天王社の祭神も江戸時代から素盞鳥尊だったかもしれない。少なくとも江戸時代後期の人たちの中に素盞鳥尊を祀るという意識はあったということだ。
ちょっと興味深い話がある。神社のある須成町は、海部郡蟹江の須成神社の御神体が流れ着いたことに由来するというものだ。 須成神社は奈良時代前期の733年に行基(ぎょうき)によって蟹江山常楽寺(じょうらくじ)の鎮守として祀られたのが始まりとされ、後に冨吉建速神社(とみよしたけはやじんじゃ)と八劔社(はちけんしゃ)が合体して須成神社となった。 木曾義仲(1182年)や織田信長(1548年)も再建したと伝わる本殿は、国の重要文化財に指定されている。 冨吉建速神社の祭神は素盞鳴尊(スサノオ)で、八劔社は草薙剣と熱田五神(天照大神・日本武尊・宮簀姫命・建稲種命・素盞鳴尊)を祀るとしている。 須成神社は天王祭である須成祭がよく知られている。2012年には重要無形民俗文化財に指定された他、2016年には「山・鉾・屋台行事」としてユネスコの無形文化遺産に登録された。 私が見にいったのは2012年で、そのときはローカルな祭りといった風情だったけど世界遺産登録後は見物客も増えているのではないかと思う。 蟹江の須成祭を撮りにいく(ブログ記事) 須成町の由来は須成神社のある蟹江の人間がこの地に住みついたことによるものという説もあり、いずれにしても須成神社・牛頭天王・スサノオとのゆかりが深い。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社の場所は今と変わっておらず、集落の北の外れに位置していたことが分かる。江戸時代から集落の場所は大きな変化がないだろうから、神社も最初からここに建てられたのだろう。 西はずっと農地が広がり、東を中川が流れ、今の東海通と中川が交差するあたりに集落の中心があった。 南西に向かって道は延び、道沿いに家が建ち並んで、その中に本宮町の龍神社がある。そこは熱田前新田の中ノ割だったところだ。 大正から昭和初期にかけてはほとんど変化がなかったのが、中川を開削して中川運河にした昭和5年(1930年)に風景は大きく変わることになった。中川沿いの集落は立ち退きを余儀なくされ、素盞嗚神社だけがぽつりと残された。 戦後に田んぼをつぶして区画整理を行い、住宅地となった。 江戸時代前期から周りの状況に左右されず、こんなにずっと動かなかった神社もあまりないのではないか。
毎年10月には秋祭りが行われている。空襲でも焼けなかった神楽が今も残る。 牛頭天王・スサノオ系の神社は災害に強い印象があるのだけど、統計を取ってみると実際にそういう傾向が表れるかもしれない。
作成日 2018.7.6(最終更新日 2019.7.21)
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