江戸時代は西福田新田だった場所にある小さな秋葉社。 西福田新田の南端近くで、社があるあたり一帯は田んぼだった。集落はここより少し南、福田前新田とを隔てる堤防沿いにあった。 六軒家という町名は平成27年(2015年)に誕生した新しいものなのだけど、字名としては古くからあった。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、すでに西福田六軒家とある。地図上でも家は六軒どころではなくたくさん描かれているので、六軒家と呼ばれるようになったのは江戸時代ではないかと思う。由来は文字通り家が六軒だったからだろう。 六軒家という町名の前のここは南陽町大字西福田字雁島(がんじま)といっていた。鳥の雁(がん)と関係があるのだろうか。 ちなみに、南陽町というのは非常に広い範囲の町で、かつての東福田新田、西福田新田、茶屋新田、茶屋後新田、福田前新田、小川新田、藤高新田、藤高前新田、七島新田の全域がそれに当たる。昭和30年までは海部郡南陽町だったものを名古屋市港区に編入した。その後、各地区が独立する形でそれぞれの町になっていった。 名古屋の南の陽(ひなた)のような町になるようにという願いを込めてつけられたという。
今昔マップで明治中頃以降の変遷を辿ってみる。 明治期はまだ完全な農村地帯で、集落以外に町といったものはない。蟹江川の左岸(東)に多く家が建ち並んでいるのは、西福田舩入の集落だ。名古屋市ではなく今も海部郡蟹江町に属している。 蟹江川と日光川の合流地点は今よりも北側で、当時は河合大橋という長い橋が架かっていた。今は中州を伸ばす格好で埋め立てたため、東の蟹江川に架かる河合小橋と西の日光川に架かる日光大橋とに分かれている。 1920年(大正9年)から昭和初期、戦後にかけて家はやや増えているものの、田んぼ地帯であることに変わりはない。 変化が現れるのは1960年代以降で、名古屋十四山線が町を横断したこともあって民家も増え、今の町割りはこの頃までにほぼできあがった。 1970年代以降は家も増えて田んぼが減り、東側に工場が建った。今そこは服部家具センターや正直屋の倉庫などが建ち並んでいる。 1980年代以降もゆるやかに発展はしたものの、基本的には1960年代以降大きな変化はない。今も福田川と蟹江川に挟まれたエリアは田んぼが多く残る。
この秋葉社がいつ建てられたかは分からない。さかのぼれば江戸時代だろうけど、可能性としては明治も昭和もあり得る。 石柱裏には「昭和四十七年十二月」・「町内有志一同」とある。 昭和47年創建ということはないだろうけど、そのときに移されたか建て直したかしたのではないかと思う。 紙垂を付けた棒に「六軒家秋葉社」とマジックで書かれている。今は六軒家の町内神社という位置づけなのだろう。
少し南にある神明社(福前1)(地図)が名古屋で一番西の神社だと思っていたのだけど、同じ通り沿いにある秋葉社の方が西側にあるので、この六軒家秋葉社が名古屋最西端神社ということになりそうだ。
作成日 2018.10.2(最終更新日 2019.8.3)
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