1640年(寛永17年)から1643年(寛永20年)にかけて八田村の鬼頭景義が開発した東福田新田の中で、中央やや北寄りに位置する八百島。 八百島(はっぴゃくじま)の地名は、新田開発当時は湿田で、たくさんの小さな島があったことならそう呼ばれるようになったという。 住人達は田んぼと田んぼの間を舟で行き来していたようだ。 東福田新田は船頭場、子ケ須、八百島、七反野、知多郡屋敷、春田野などの集落に分かれていて、それぞれが半ば独立した格好になっていた。各集落に氏神があり、八百島はこの稲荷社がそれに当たる。 ただし、最初から稲荷社だったかどうかは何とも言えない。
『尾張志』(1844年)の福田新田村の項を見ると、「神明ノ社三社 山神ノ社 熱田大明神ノ社二所 六社共に福田新田村にあり」となっており、稲荷社はない。 『尾張徇行記』(1822年)も神明の他は大明神や山神が載っているだけで稲荷社はない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。八百島の産土神として崇敬あつく、明治9年8月28日、村社に列格する。昭和63年11月、本殿、弊殿、拝殿、社務所、神楽庫を改築した」
福田新田の完成は1643年でも、八百島の集落ができたのはその後だろうから、この神社の創建も集落の形成後ということになる。それがいつだったかは推測が難しい。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在地に鳥居マークは描かれていない。場所でいうと、現在神社があるのは八百島集落の北寄りということになる。 鳥居マークが現れるのは1968-1973年(昭和43-48年)の地図からだ。これは何を意味しているのだろうか。もともとは小さな社で神社と呼べるほどのものではなかったのを1960年代に入って社殿を建てたということなのか、別の場所にあったものを移したのか。そのあたりの経緯はちょっと分からない。 それまで田園地帯だったのが、1970年代になると急速に民家が増える。東には福田団地が建ち、南には福田小学校が創立した。 1990年代に入ると田んぼはめっきり少なくなってしまった。
祭神は稲荷社の定番である宇迦之御魂神/倉稲魂命(ウカノミタマ)ではなく保食神(ウケモチ)になっている。最初からそうだったのか、明治以降のことなのか。 ウケモチは穀物や動物を生み出した神として『日本書紀』の一書(第十一)に登場する。 アマテラスは、ツクヨミ(月夜見)に葦原中国(地上界)にいる保食神(ウケモチ)という神を見てくるように命じた。 ツクヨミを歓迎するためにウケモチは口から米や魚や獣を吐き出して歓待したところ、なんて汚いことをするのだとツクヨミはウケモチを斬り殺してしまった。 その話を聞いて怒ったアマテラスは、それ以降ツクヨミと仲違いをして会わなくなってしまったため昼と夜ができた。 アマテラスはウケモチの遺体を調べるために天熊人(アマノクマヒト)を送ったところ、ウケモチの体から五穀や牛や馬などが生まれたため、人々に与えたという。 『古事記』ではスサノオ(素戔嗚)と大宜都比売(オオゲツヒメ)の話として同じような穀物誕生神話が書かれている。そのことから、オオゲツヒメとウケモチを同一とする説もある。
屋根瓦の鉄筋コンクリート造白塗りの拝殿は、中川区あたりの熱田社に似ている。本殿は外削ぎの千木を載せた流造となっている。鳥居は神明鳥居で裏に大正三年とある。 名古屋市全般にいえるのだけど、港区の神社も社殿の形式にはあまりこだわりがないようで、系統と社殿様式が合っていないところが多い。神明造の秋葉社があったり、神明造ではない神明社があったりする。 この稲荷社もまるで稲荷社らしくない。赤く塗られた鳥居もないし狐像もない。 八百島の中で稲の神様を祀っていたものを明治になってウケモチを祀る稲荷社としたのかもしれない。
作成日 2018.8.10(最終更新日 2019.7.29)
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