尾陽神社

最初と最後の尾張藩主ふたりを祀る

尾陽神社鳥居前

読み方 びよう-じんじゃ
所在地 名古屋市昭和区御器所二丁目9-19 地図
創建年 1910年(明治43年)
社格等 県社・四等級
祭神

天照大御神(あまてらすおおみかみ)
徳川義直(とくわがよしなお)
徳川慶勝(とくがわよしかつ)

アクセス

・地下鉄鶴舞線「荒畑駅」から徒歩約10分。
・駐車場 あり(境内)

webサイト 公式サイト
オススメ度

 創建されたのは明治43年(1910年)と新しい神社だ。
 祀られているのは、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)と、最後の藩主となった徳川慶勝(よしかつ)のふたり。
 江戸期が終わって明治の世になったとき、旧尾張藩士たちの間で義直を祀ろうという話が持ち上がった。
 明治8年(1875年)に義直を、明治31年(1898年)に慶勝を、それぞれ名古屋東照宮に合祀したのが尾陽神社の始まりだ。
 明治43年(1910年)、名古屋城築城から300年を記念して、ふたりを祀る神社を建てることになった。愛知県と名古屋市によって尾陽神社は創建されることとなり、大正101年(1922年)に県社に列せられたのち、大正13年(1924年)に社殿が完成して現在の御器所の地に移された。
 尾陽神社の名称は、義直の法号、二品前亜相尾陽侯源敬公から来ている。諡号の源敬公で呼ばれることもある(源公といえば義直のこと)。
 昭和20年(1945年)の空襲で社殿を焼失。焼ける前は神明造だったという。
 昭和24年(1949年)に天照大御神を主祭神として合祀。
 昭和45年(1970年)、社殿再建。
 昭和48年(1973年)、徳川家本邸にあった栄世稲荷神社をここに移す。
 昭和51年(1976年)、大神神社の末社・久延彦神社(くえひこじんじゃ)から分霊を受けて摂社として祀る。

 神社がある場所は御器所台地の一番高いところで、境内は更に一段高くなったところにある。
 かつてこのあたりに佐久間氏が居城とした御器所西城があったと伝わっている。築城したのは佐久間家勝で、1440年頃というから応仁・文明の乱が始まる1467年以前のことだ。
 佐久間氏は盛次の代に織田信長の家臣となり、その息子の盛政は柴田勝家の甥だった関係で賤ヶ岳の戦いに参加することになる。しかし、戦いに破れて命を落としたため、御器所西城はほどなして廃城となったという。

 義直という人は、その後の尾張藩の基礎を築いたとされる立派な殿様だった。少々堅物だったのが難点とされつつも、文武両道を地でいく人物だったと伝わっている。義直が自らの基盤とした尊皇思想は、幕末の慶勝の決断にも少なからぬ影響を与えることになる。
 家康の11男5女のうち、義直は9男に当たる。遅くできた子ということもあって家康は大事にして目にかけた。
 関ヶ原の戦いがあった1600年に大坂城(京都伏見城とも)で生まれ、ほどなくして家康が隠居する駿府城に移り、家康から直接帝王学を仕込まれた。
 1606年に元服し、翌1607年に、死去した兄の松平忠吉の後を継いで幼くして清洲の藩主となった。
 義直を城主とするための名古屋城築城が始まったのが1610年。天守の完成が1612年で、本丸御殿ができたのが1615年だった。翌1616年に家康が死去すると、義直は完成した名古屋城に入り、初代尾張藩藩主となる。
 1614年の大坂冬の陣では義直も初陣を飾っている。
 藩主になってすぐはまだ10代半ばということで家老任せだったものの、成長してからは積極的に藩政に取り組み、数々の業績を残すことになる。
 新田開発や検地、税制改革などを行い、儒教を奨励し、自らも学問、武道の鍛錬に余念がなかった。
 家康を祀る名古屋東照宮を建て、家康から譲り受けた蔵書に加えて自ら多くの書物を収集し、図書館の前身ともいえる蓬左文庫を創設した(現在も徳川美術館の敷地内にある)。
 柳生利厳から新陰流兵法を学び、鷹狩りを好んだ。よく出かけていたのが水野(瀬戸)の定光寺方面で、自らの墓所を定光寺にするようにと遺言を残して今もそこに眠っている。
 正室は浅野行長の娘・春姫で、浅野行長は浅野長政の長男だから、秀吉ともつながっていく。長政は秀吉の正室・おねの義理の弟になる。このあたりの人間関係は少しややこしいのだけど、お福稲荷を紹介したときに書いた。
 春姫との間に子供は恵まれず、二人の側室を迎え、そのうちの大森村の百姓の娘とされるお尉の方との間に生まれた長男が二代藩主・光友となる。
 ちなみに、名古屋の結婚式が派手なのは、春姫の嫁入りが豪華だったからだという話もある。
 1650年、中風症が元で死去。享年51。

 摂社の久延彦神社をどういういきさつで勧請したのかは分からない。
 祭神の久延彦命(クエヒコ)はなんでも知っている案山子(かかし)の神様として『古事記』の中で登場する。
 オオクニヌシ(大国主命)が国造りをしているとき、海の向こうから小さな神様がやってきた。名を訊ねると何も答えない。誰に訊いても正体を知らないという。
 するとヒキガエルの多邇具久(たにぐく)がクエヒコ(久延毘古)なら知っているはずだというので会いにいって訊ねてみると、それはカミムスビ(神産巣日神)の子の少彦名神(スクナヒコナ)だと教えてくれたのだった。
 クエヒコは「山田のそほど」とあり、それは案山子の古名とされる。田んぼの中に一日中立って世の中を見渡していることからなんでも知っているとされた。案山子は本来、単なる鳥除けではなく、田んぼの神様だったのだ。
 クエヒコは「崩え彦」、崩れた男を意味し、風雨にさらされて朽ちた案山子の様子を表しているともいう。
 タニグク(多邇具久)はヒキガエルで、ヒキガエルはどこにでもいることから、地面を這い回って地上の隅々まで知っている神とされた。
 サルタヒコ(猿田彦大神)を祀る二見興玉神社では、カエルが神の使いとされている。
 久延彦神社の社殿は200年ほど前の奈良・春日大社の本殿だったものとされている。大阪枚方市の山田神社から贈られたものだという。

 徳川慶勝については、愛知縣護國神社のところで紹介したい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

尾陽神社にも寄ってみる

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