歴史と格式のあるいい神社だ。しかし、古い歴史にあぐらをかいて威張っているようなところはなく、懐が深くて温かみがあるように感じられる。 あくまでも庶民の方を向いて町を見守り、町に守られてきた神社といった印象を受ける。 『延喜式』神名帳(927年)の尾張国海部郡の漆部神社(ぬりべじんじゃ)の論社のひとつとされるのだけど、その可能性は低いだろう。 ここは海部郡ではなく愛智郡だし、庄内川の流路が変わったといっても、そもそも庄内川と新川の河口に挟まれたこの地で1000年以上もずっと鎮座していたとは考えにくい。 漁村になる以前の土地としてはそれほどの古さは感じないというのもある。 あま市の漆部神社が一応、式内の漆部神社ということになっているけど、あそこもたぶん違う。津島神社の境外社の市神社や、弥富市の八幡神社、甚目寺観音なども候補として名前が挙がっているものの、結局のところどこも違って、『延喜式』神名帳の漆部神社は古い時代に失われてしまったのではないか。 『特選神名牒』でもそのように結論づけられており、私もそう思う。甚目寺観音は漆部神社が寺になったものという説はなかなか面白くはあるのだけど。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は古く明らかではない。『尾張志』に浅間社、下之一色村ありと、天正六年(1578)6月、寛永七年(1630)貞享元年(1684)7月の棟札を社蔵すと、明治5年5月、郷社に列格する」 戦国時代末の1578年に修造した棟札が残っているということは、少なくとも創建はそれ以前ということになる。最大限さかのぼるとして鎌倉時代だろうか。それくらいの可能性はある。 ただ、江戸時代の書を見ると、どれもあっさりした記述しかなく、さほど重視されていた感じがない。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「浅間壱社 社内壱畝拾五歩 前々除 横井村祢宜 甚大夫持分」
『尾張徇行記』(1822年) 「浅間社界内一畝十五歩前々除 府志ニナシ」 「横井村祠官書上張ニ、界内四畝十五歩備前検除、此社勧請ハ知レズ、再建ハ寛永十六卯年也」
『尾張志』(1844年) 「浅間社 下之一色村にあり」
他の神社と扱いは変わらないどころか、むしろあまり興味がなさそうにさえ見える。 『尾張徇行記』の「府志ニナシ」が気になる。『張州府志』は1752年に完成した尾張藩の最初の地誌で、『尾張志』の元になったものだ。その『張州府志』に下之一色の浅間社が載っていないというのはどういうことなのか。 『尾張徇行記』がいう再建の寛永16年は1639年に当たる。
この神社が重要視されるようになったのは、戦国時代に下之一色城主の前田与十郎が再建して以降のことだったかもしれない。 下之一色城がいつ誰によって建てられたのかははっきりしない。天正年間(1573年-1592年)に前田種利が建てたという説がある一方、1485年に前田与十郎利治が城主だったという記録もあるようで、前田家の本拠地がそのときすでにあったという意味では神社の創建もそれに伴うものだったかもしれない。 尾張前田家の本筋は与十郎家で、代々当主は与十郎を名乗ったとされる。前田利家を生んだ荒子の前田家は庶流に当たるようだけど、そのあたりの関係もはっきりしない。与十郎家と荒子前田家は婚姻関係を結んだりもしている。 下之一色城があったのは三日月橋が架かっている南あたりだったと考えられている。新川を掘り広げたときに川の底になってしまったため、遺構は残っていない。かつて河原にあった碑などは正色小学校の敷地内に移されている。 前田城というと下之一色城のことだったようで、前田村にあった前田城はまた別だったらしい。庄内川を挟んだ東には前田東起城があった。 小牧長久手の戦いの流れの中で起きた蟹江城合戦(1584年)で前田家は敗れ、下之一色城は取り壊された。 当時、城主を務めていた前田種利は、息子の長種・定利とともに蟹江城主の佐久間正勝に従っており、最初は織田方についていたのが、滝川一益の説得工作により秀吉側に寝返ったため、織田・徳川軍に攻められ殺されることになってしまった。 息子の長種だけは生き残り、利家の娘婿となる。
下之一色あたりでいつ頃から漁業が行われていたかはよく分からない。人が暮らし始めた頃から魚介類は獲っていたには違いないけど、漁村として成立したのは江戸時代前期だったと考えられている。 明治にかけて漁師町として栄え、戦前までは大変な賑わいだったという。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見るとその頃の様子が想像できる。東の荒子村よりも集落は大きく、庄内川と新川に挟まれた場所にびっしり家が建ち並んでいたことが分かる。 ただ、浅間社の鳥居マークがこのときの地図に描かれていないのは少し気になる。次の1920年(大正9年)の地図以降に現在地に描かれる。 第二次大戦の空襲で焼け、昭和34年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けて町は大きく様変わりすることになった。 町を守るための防波堤を建てることになり、漁協は漁業権を放棄せざるをえなくなり、漁師町としての下之一色は幕を閉じることになった。 かつては所狭しと百件以上の店が建ち並び、数軒あった銭湯も次々と閉じていった。 今でもその頃の名残が少なからず残っていて、町を歩くと昭和にタイムスリップしたような気分になる。夕方の道ばたで、買い物かごをさげたおばさまたちが魚屋の前で井戸端会議をしているような光景が当たり前のようにそこにある。その横をランドセルを背負った小学生たちが駆けていく。 そういう街角の一角にこの浅間社はある。
いつ誰がこの神社を建てたのか、それがやはり問題だ。 何故、浅間社だったのか? もともとは浅間社ではなく違う神を祀る神社だったかもしれない。 もし最初から浅間社であったのなら、その当時の浅間大神に対する信仰心とはどういうものだったのか。それは富士山信仰とイコールなのか違うのか。 個人的に久しぶりの再訪となって嬉しかった。町は変わっていなかったし、浅間社も変わらずそこにあった。 また訪れたいと思った。そう思わせてくれる神社はそれほど多くない。
作成日 2017.11.5(最終更新日 2019.7.7)
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