矢田川の南、旧木曾街道沿いの小山に、お福稲荷社、山神社、白竜社の3つの小さな神社が集められている。 地図には、お福稲荷とあり、入り口に近いことからもお福稲荷がメインと思いがちだけど、元からあったのは山神社だった。
南北朝時代(1336年-1392年)の1379年、北朝側の犬飼頼隆がこのあたりの領主となったことに始まる。 それから約200年後の戦国時代、織田信長に弓衆として仕えた浅野長勝や安井将監などが安井城を築いた。1573年頃のこととされる。 浅野も安井も犬飼頼隆の子孫なので同族だ。 安井城は山神社から見て南西にあり、160メートル×150メートルというわりと大きな館城だったようだ。 山神社は安井城の鬼門(東北)を守る守護神として創建されたという。 その後、浅野長勝は中島郡大里村(稲沢市)に所領が移ったことで浅野城は廃城となった。現在は住宅地になっていて城の遺構は確認できない。 山神社は村の守り神として残った。
江戸期の書の安井村の項はそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社弐ヶ所 内 六所大明神 山神 社内弐畝歩 前々除 当村祢宜 稲垣越後持分」
『尾張志』(1844年) 「六所社 山神ノ社 天道社 安井村にあり」
『尾張徇行記』(1822年) 「社二ヶ所内六所大明神山神社内弐世前々除 府志ニ、六所祠在安井村 社人稲垣多宮書上ニ、六所明神社内東西六間南北十間外神領田三畝共御除地山神社内東西十間南北五軒年貢地天道守境内東西五間南北三間年貢地」
六所明神は今の別小江神社のことで、天道社というのは今はもうない。
戦国武将というと八幡神などの戦の神を信仰していたイメージが強い。ただ、戦国武将といっても戦いに明け暮れるだけが人生ではない。日々の生活もあるし家族もいる。城も大事だし、領民も守らなければならない。 そういうこともあって、わりと山の神を大事にしたことがうかがえる。織田家の守護神も白山明神だったし、山神を守り神とした武将も多い。自分たちを守ってくれる大きな存在という共通認識だっただろうか。 山神社を創建したのが浅野長勝だったのか、安井将監だったのか、それ以外の人物だったのか、どこから勧請したのかなど、くわしいことは伝わっていない。 祀られている神は大山祇神(オオヤマツミ)とされる。 『日本書紀』にはイザナギがカグツチを斬ったときに生まれた神として書かれている。しかし、これといった活躍の場面はなく、その後に登場する面々がオオヤマツミの子を名乗ったりしている。富士山の神、コノハナサクヤヒメ(木花之開耶姫)もオオヤマツミの子とされる。 オオヤマツミは大(大きい)山の神霊(ミ)といった意味だから、個人名というよりも山の神の総称と捉える考え方もある。 オオヤマツミを祀る神社の総本社は、伊予国(愛媛県今治市)一宮・大山祇神社(web)で、伊豆国(静岡県三島市)一宮の三島大社(web)も大山祇神社ゆかりの神社とされる。 それぞれ海にも関係する神社で、別名の和多志大神の「わた」が海の古語を指すという説から、海の神ともされる。 のちに海軍の神ともされ、戦の神としての性格も併せ持つようになる。 ちなみに、山神社は、さん-じんじゃ、やま-じんじゃ、やまがみ-しゃ、やまのかみ-しゃとも読ませるので、その山神社がどの読み方をするかはそれぞれ確認しないと分からない。北区安井の場合は「やま-じんじゃ」が正式な読み方のようだ。
ついでに安井城の浅野長勝についても少しだけ補足しておきたい。 浅野長勝の姉が同族の安井重継(やすいしげつぐ)に嫁いで長吉を産む。これがのちに豊臣政権における五奉行筆頭の浅野長政になる。 長勝は七曲殿と結婚するも子供に恵まれなかったため、妻の妹婿であった杉原定利(すぎはらさだとし)の遺児となったふたりの女の子を養女として引き取った。 姉のおねは木下藤吉郎に嫁ぐことになる。豊臣秀吉の正室の「ねね」といった方が通りがいいか。 妹のらくは浅野家を存続させるために安井長吉を婿養子にとった。これが浅野長政だ。 おねの生母は妻・七曲殿の妹(朝日殿)で、その子が秀吉と結婚して、浅野長政は婿養子という、やや複雑な関係性になっている。 そんな血縁関係があるようなないような一族の結びつきもありつつ、浅野長政は秀吉の家臣となり、大活躍することになる。
お福稲荷は、昔からあった小さな稲荷に、あらためて京都伏見の稲荷大社(web)から勧請して、お福神社と名付けて山神社のある場所に遷座させたのが昭和のはじめのことだ。 おめでたそうな名前が受けたのか、戦前までは多くの参拝者で賑わったという。
白竜社も昭和のはじめ頃、静岡県の御前崎から勧請して建てたものだ。 御前崎というと桜ヶ池に棲むという龍神のことだろうか。そこにある池宮神社(web)から勧請したのであれば、祭神は瀬織津比詳命(せおりつひめのみこと)ということになるけどどうだろう。 セオリツヒメは『古事記』、『日本書紀』には登場せず、神道の大祓詞(おおはらえのことば)に出てくる水の神だ。 天津神、国津神によって祓い清められた罪は、山の頂から勢いよく流れ落ちる急流ににいるセオリツヒメ(瀬織津比売)が持ち去って大海原まで運び、大海原の沖にいる速開津比売(ハヤアキツヒメ)が飲み込んでしまうだろう、とある。 そこから、水の神、川の神、瀧の神となり、竜神となっていったと考えらえられる。 北区安井の白竜社は、殺された白蛇の祟りを鎮めるために建てられたという話も伝わっている。
神社のある小山のすぐ東を旧木曾街道が通っている。 上街道(うわかいどう)とも呼ばれた名古屋城(web)下と中山道を結ぶ脇街道で、名古屋城から犬山の楽田追分までは稲置街道(いなぎかいどう)と重なっていた。 安井城時代に山神社が建てられた頃はまださほど整備されていなかっただろうけど、江戸時代以降はかなり賑わった。 尾張藩付家老の成瀬正成(なるせまさなり)が犬山城(web)主となってからは、名古屋城と犬山城を結ぶ街道として整備され、中山道の伏見宿(岐阜県可児郡御嵩町)を結ぶ脇街道として参勤交代にも利用された。 その頃は山神社に立ち寄って参拝していく旅人も少なくなかったのではないか。当時の道中の楽しみといえば、食べることと風景を眺めることと寺社に参拝していくことくらいだっただろう。 昭和の矢田川付け替え工事まではすぐ北を矢田川が流れていた。矢田川は徒歩で渡り、その北の庄内川には渡し船があった。 かつて600メートルほど南にあった一里塚はもう残っていない。 神社周辺はいい感じにひなびた昭和の風情が残っている。
作成日 2017.3.17(最終更新日 2019.1.5)
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