牧野ヶ池緑地の中にこの神社はある。 緑地の名前の由来になっている牧野池は、江戸時代前期の1646年に造られた灌漑用の溜め池だ。 ここは丘陵地帯で水田をやるには水が足りず、あちこちに溜め池を作って田んぼに水を引いていた。今も残る五合下池と五合上池もそうだ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、このあたりの地形や江戸時代から続く状況が見てとれる。北の牧の原に広い水田があり、そこから南の五合下池にかけて細い農地が延びている。 尾張藩郡奉行の勝野太郎左衛門の尽力によるところが大きく、名古屋城下では最大の溜め池だった。 このあたりの地名を牧といっていたことから牧ノ池と名付けられ、江戸時代は牧ノ大池などとも呼んでいた。 『尾張名所図会』は「牧大池(まきのおおいけ)」と題してこんなふうに書いている。 「高針村にあり。昔旱魃(かんばつ)に此辺村々用水に乏しく、苗枯槁(ここう)して苦しみ、勝野某村長に謀(はか)りて、此池を穿ち田に漑(そそ)がしむ。今の其澤恩(たくおん)を報じ、新穀熟すれば必其墓前に供す、実に功績といふべし。さて此池尤廣大にして、大池の稱空(しょうむな)しからず、眺望も亦打開きて、月下の秋景殊に賞するにたへたり」 尾張藩の狩猟場にもなり、冬には渡り鳥の飛来地にもなった。 「月下の秋景殊に賞するにたへたり」というように、秋の月を愛でるような名所でもあったようだ。 『尾張志』に「勝野太郎左衛門某此人の墓所は名古屋の永勝院にあり」とある。 村人たちは勝野太郎左衛門に感謝して秋の収穫があると墓を詣でて新穀を供えたらしい。 永勝院と勝野太郎左衛門の墓がその後どうなったか調べがつかなかった。
牧野池は牧野ヶ池ともいっていたのだけど、統一してほしいという住民の願いによって2009年(平成21年)に正式に牧野池となった。牧野ヶ池緑地も牧野池緑地にしてほしいという要望が出てるそうだけど今のところ変更はされていない。 牧野ヶ池緑地は、昭和15年(1940年)に、防空緑地とする計画が立てられたのが始まりだった。戦時中の避難所とする予定だったようだ。 戦後の昭和32年(1957年)に広域公園として利用が始まった。 それに先立って昭和28年(1953年)、この場所にゴルフコース(愛知カンツリー倶楽部)が作られることになった。 ゴルフコースの建設中、工事関係者によってたびたび巨大な白蛇が目撃されることになる。それを見た者は高熱を出して倒れるなどしたため、御嶽教の行者を呼んで見てもらったところ、森の主の龍神が怒っているという話になり、このままではよくないということで龍神を祀る神社を建てることになった。それがこの羽白美衣龍神社だ。 白蛇そのものは江戸時代からすでに目撃されていたというから、実際に森の主的な白蛇がいて代々この場所に棲みついていたのかもしれない。目撃者の話では6メートルくらいあったという。 以前は「白美龍神」だったのが、現在は「羽白美衣龍神」となっている。正式名は分からないのだけど、とりあえず羽白美衣龍神社としておく。
昭和28年(1953年)の創建から50年に当たる平成15年(2003年)には社を建て替えて遷座式が行われた。御嶽教の神職15人が儀式を執り行った。 近年は白蛇を見たという話は聞かないから、怒りを収めておとなしく神社で祀られているのだろうか。 ゴルフ場は今も続いており、牧野ヶ池緑地も特にこれといった事件や事故があったというニュースもない。ここら一帯はわりと平穏に鎮まっているようだ。
北側の鳥居から歩くと10分ちょっとかかる。雑木林の中の散策路で、雨降りの後などは道がぬかるんでいるから注意が必要だ。西の散策路から行くと5分もかからない。 私が最後に訪れたのは2009年だから、そろそろまた行っておかないといけないかもしれない。たまには人がやってこないと龍神さんも寂しいだろうから。
作成日 2018.1.16(最終更新日 2019.1.31)
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