金山駅の東の桜田町にある櫻田神社。 大正12年(1923年)に建てられた新しい神社だ。 町の東を新堀川が流れている。これはかつての精進川で、熱田社(熱田神宮/web)の南で堀川と合流していた。 神社創建当時、すでに町の西を東海道本線の線路が通っていたものの、まだ金山駅はない。初めて金山駅ができたのは昭和19年(1944年)で、国鉄ではなく名鉄だった。
『愛知縣神社名鑑』によると、「創建は大正十二年四月附近の住人の熱望により氏神を建立した」とある。 これは東邦瓦斯の進出が大きかったに違いない。 東邦瓦斯は関西電力が九州電灯鉄道と合併して東邦電力となったときにガス事情部門が独立してできた会社で、名古屋瓦斯を買収して東邦瓦斯としてスタートした。それが大正11年(1922年)のことだ。 今昔マップを見ると明治中頃(1888-1898年)までは田んぼしかなかったところに大正9年(1920年)には突然大きな工場が建ったことが見てとれる。これは東邦瓦斯の前身といえる名古屋瓦斯の工場だろう。 瓦斯工場の南には兵器製造所も建って貨物線も敷かれ、大正から昭和にかけてこのあたりは工場と住宅が増えていった。 しかし、兵器工場と瓦斯工場は当然のように米軍の攻撃目標となり、大きな被害を出すことになる。 戦後復興の中で、このあたりは工場地帯と住宅地が共存する町となった。今も東邦瓦斯の工場は残っている。兵器製造所があった場所にはイオンモールが建った。
大正時代というと、神社の管轄は内務省の神社局ということになるだろうか。住人が希望して神社を建てるとなったとき、どういう手続きが必要だったのかはよく分からない。どこかの神社からの勧請という手続きを踏んだのか、そうではなかったのか。 祭神の顔ぶれは、宇迦之御魂命、猿田彦命、大宮能売命となっている。 これは伏見稲荷大社(web)を思わせる。伏見稲荷は下社(中央座)に宇迦之御魂大神、中社(北座)に佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)、上社(南座)に大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)を祀っている。 佐田彦大神はサルタヒコ(猿田彦)のこととされているので、櫻田神社の祭神はこれと合致する。それでも、伏見稲荷大社から勧請した稲荷社ではないということなのか。見た目からしてもまったく稲荷社らしさはない。
大宮能売命(オオミヤノメ)は『古事記』、『日本書紀』には登場せず、『古語拾遺』(こごしゅうい)や延喜式の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞(のりと)に出てくる女神だ。 『古語拾遺』は天太玉命(アメノフトダマ)の子孫とされる斎部広成(いんべ の ひろなり)が平安初期の807年に編さんしたとされる書だ。 天地開闢(てんちかいびゃく)から天平年間(729-749年)までの歴史などが書かれており、アメノフトダマの子孫ということで天岩戸開きの場面ではアメノフトダマが主役となっている。 オオミヤノメはアメノフトダマの子として登場し、アマテラスに侍女として仕え、善言美詞(ぜんげんびし)をもって君臣の間を和らげる役割を果たしたとしている。 大殿祭の祝詞は以下のようなものだ。
「詞別きて白さく、大宮売命と御名を申す事は、皇御孫命の同殿の裏に塞り坐して、参入り罷出る人の選び知しめし、神等の伊須呂許比阿礼比坐すを、言直し和し坐して、皇御孫命の朝の御膳・夕の御膳に仕へ奉る比礼懸くる伴緒・襁懸くる伴緒を、手の躓・足の躓為さしめずて、親王・諸王・諸臣・百官人等を、己が乖乖在らしめず、邪意・穢心無く、宮進めに進め、宮勤めに勤めしめて、咎過在らむをば、見直し聞き直し坐して、平けく安けく仕へ奉らしめ坐すに依りて、大宮売命と御名を、称辞竟へ奉らくと白す」
天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする中臣氏と天太玉命(アメノフトダマ)を祖とする斎部氏(忌部氏)はともに祭祀を司る有力氏族だった。 しかし、大化の改新(645年)によって中臣氏が大出世して藤原氏となり、権力の中枢に近づいたことで大きな差が開いてしまった。 『古事記』、『日本書紀』にオオミヤノメが出てこないのは、それらが藤原氏の影響を強く受けたものだったからなどという見方もある。 ただ、宮殿の平安を守る女神として大事にされ、皇居にある天皇守護の八神殿(はっしんでん)の中の一柱として祀られている(他は神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、御食津神、事代主神)。 オオミヤノメを主祭神として祀る神社としては、大宮姫稲荷神社(京都市上京区)や大宮売神社(京都府京丹後市)などがある。 接客業の神として旅館や百貨店などで祀られることもあるそうだ。 稲荷社で祀られる場合は、ウカノミタマの巫女的な役割の神とも考えられるという。 あるいは、サルタヒコの妻の天宇受売命(アメノウズメ)の別名ではないかという説もある。
神社が建てられた大正12年当時、大きな瓦斯工場が建ったものの民家はまだ少なかっただろう。田んぼも多く残っていたはずだ。 これから町が発展していく上で住民たちが選んだのが宇迦之御魂命だった。どうしてそれを選んだのかと問いかけても意味はないのかもしれない。住人たちの総意だったのか、上の人間が決めたことだったのか。 いずれにしても祭神選びに正解はない。 神社創建からそろそろ100年が近い。それは決して短い年月ではない。その間にもいろいろあったし、この先もいろいろあるだろう。大切なのは続くことだ。
作成日 2017.8.11(最終更新日 2019.9.3)
|