櫻田神社

ここは稲荷社なのか違うのか

櫻田神社

読み方 さくらだ-じんじゃ
所在地 名古屋市熱田区桜田町14-11 地図
創建年 1923年(大正十二年)
社格等 十五等級
祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
大宮能売命(おおみやのめのみこと)
アクセス

・地下鉄/名鉄/JR「金山駅」から徒歩約13分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 金山駅の東の桜田町にある櫻田神社。
 大正12年に建てられた新しい神社だ。
 町の東を新堀川が流れている。これはかつての精進川で、熱田神社の南で堀川と合流していた。
 金山は名古屋を出た東海道本線と中央本線が分かれる場所でありながら長らく駅がなかった。最初に金山に駅を作ったのは国鉄ではなく名鉄で、昭和19年(1944年)のことだった。それは現在の金山駅の南東300メートルほどの場所にあった。
『愛知縣神社名鑑』によると、「創建は大正十二年四月附近の住人の熱望により氏神を建立した」とあるから、駅こそないものの鉄道路線沿いということで民家も増えて、そろそろ神社も欲しいということで建てられたのだろう。
 大正時代のこの時期というと、神社の管轄は内務省の神社局ということになるだろうか。住人が希望して神社を建てるとなったとき、どういう手続きが必要だったのかはよく分からない。
「氏神を建立した」ということは、どこかの神社から勧請したのではなく、どの神を祀るかを自分たちで決めて祀ったということになるだろうか。

 祭神の顔ぶれは、宇迦之御魂命、猿田彦命、大宮能売命となっている。
 これは伏見稲荷大社を思わせる。
 伏見稲荷は下社(中央座)に宇迦之御魂大神、中社(北座)に佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)、上社(南座)に大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)を祀っている。
 佐田彦大神はサルタヒコ(猿田彦)のこととされているので、櫻田神社の祭神はこれと合致する。それでも、伏見稲荷大社から勧請した稲荷社ではないということなのか。見た目からしてもまったく稲荷社らしさはない。

 大宮能売命(オオミヤノメ)は『古事記』、『日本書紀』には登場せず、『古語拾遺』(こごしゅうい)や延喜式の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞(のりと)に出てくる女神だ。
『古語拾遺』は天太玉命(アメノフトダマ)の子孫とされる斎部広成(いんべ の ひろなり)が平安初期の807年に編さんしたとされる書だ。
 天地開闢(てんちかいびゃく)から天平年間(729-749年)までの歴史などが書かれており、アメノフトダマの子孫ということで天岩戸開きの場面ではアメノフトダマが主役となっている。
 オオミヤノメはアメノフトダマの子として登場し、アマテラスに侍女として仕え、善言美詞(ぜんげんびし)をもって君臣の間を和らげる役割を果たしたとしている。
 大殿祭の祝詞は以下のようなものだ。

「詞別きて白さく、大宮売命と御名を申す事は、皇御孫命の同殿の裏に塞り坐して、参入り罷出る人の選び知しめし、神等の伊須呂許比阿礼比坐すを、言直し和し坐して、皇御孫命の朝の御膳・夕の御膳に仕へ奉る比礼懸くる伴緒・襁懸くる伴緒を、手の躓・足の躓為さしめずて、親王・諸王・諸臣・百官人等を、己が乖乖在らしめず、邪意・穢心無く、宮進めに進め、宮勤めに勤めしめて、咎過在らむをば、見直し聞き直し坐して、平けく安けく仕へ奉らしめ坐すに依りて、大宮売命と御名を、称辞竟へ奉らくと白す」

 天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする中臣氏と天太玉命(アメノフトダマ)を祖とする斎部氏(忌部氏)はともに祭祀を司る有力氏族だった。
 しかし、大化の改新(645年)によって中臣氏が大出世して藤原氏となり、権力の中枢に近づいたことで大きな差が開いてしまった。
『古事記』、『日本書紀』にオオミヤノメが出てこないのは、それらが藤原氏の影響を強く受けたものだったからなどという見方もある。
 ただ、宮殿の平安を守る女神として大事にされ、皇居にある天皇守護の八神殿(はっしんでん)の中の一柱として祀られている(他は神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、御食津神、事代主神)。
 オオミヤノメを主祭神として祀る神社としては、大宮姫稲荷神社(京都市上京区)や大宮売神社(京都府京丹後市)などがある。
 接客業の神として旅館や百貨店などで祀られることもあるそうだ。
 稲荷社で祀られる場合は、ウカノミタマの巫女的な役割の神とも考えられるという。
 あるいは、サルタヒコの妻の天宇受売命(アメノウズメ)の別名ではないかという説もある。

  大正12年(1923年)当時、このあたりはまだ桜田町という町名ではなかった。桜田町が誕生するのは1937年(昭和12年)のことだ。
 その頃この辺りがどういう風景の町だったのかを想像することは難しい。田んぼが広がっていたのか、まばらに民家があるだけだったのか。
 神社南を東西に走る八熊通(やぐまどおり)が整備されたのはおそらく戦後のことだろう。
 何故、住民たちはこれらの神を自分たちの氏神として選んだのか。商売繁盛を願うような土地柄ではなさそうだし、農耕神を祀る時代でもなかった気がする。大正時代の人たちにとってウカノミタマというのはどういう神だったのだろう。
 昭和20年の空襲で社殿は炎上している。熱田への攻撃の巻き添えを食ったのか、もしくは今東邦ガスがあるあたりに工場でもあったのか。
 社殿が再建されたのは昭和24年のことという。
 本殿左右の小さな社に祀られている神は分からない。
 

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

櫻田神社といっても桜は関係なさそう

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