同じ中村区内にある椿神明社と対になる神社。 江戸時代の牧野村には椿社、厳島社、天王社、稲穂社、神明社があり、それらは今も残っている。 牧野にある神明社は牧野村の東南にあり、今昔マップ(1888-1898年)を見ると田んぼの中に鎮守の森に囲まれてあったことが分かる。 鎌倉時代以前より中村区、中川区一帯に伊勢の神宮(web)の神宮領があり、一楊御厨(いちやなぎのみくりや)と呼ばれていた。そのため、椿神明社を外宮に、牧野神明社を内宮に見立てて、それぞれトヨウケヒメとアマテラスを祀っていた。近くを流れる川は御伊勢川(笈瀬川)と呼ばれていた。
創建についてはっきりしたことは伝わっていない。神宮の荘園が成立したのは平安時代末というから、早ければその頃という可能性もある。 『寛文村々覚書』(1670年)に前々除とあるので、1608年の備前検地以前に建てられたことは間違いない。 荘園制度は鎌倉時代になると幕府から任命された守護、地頭が奪い取るようになり、室町時代には利権が複雑に絡み合い、戦国時代には力で奪い合う事態となったことを考えると、この神明社が古くから伊勢の神を祀り続けたかどうかは何ともいえない。 『尾張徇行記』(1822年)は江戸時代後期の牧野村についてこう書いている。 「此村ハ柳海道筋老瀬川西ニ濃屋建ナラヒ、街道通リハ少シ町並アリ、其南北ニ小路アリテ宇ハナク一村立ノ所也、農業ヲ以テ専ラ生産トス、又春冬ノ間ニハ畳表芫筵ヲ織リ余業トス、禰宜町問屋ヘウリツカハスト也、元ヨリ此村ハ高ニ準シテハ佃力不足ナルニヨリ、広井村平野村又ハ納屋ウラ辺マテモ田畝ヲ按ル也、サレハ佃力不足鍬数モ少キ所ユエ、近年老瀬川東街道トホリニ長屋ヲ二棟取建、佃力ノ助ケトセシカ、今ハ多ク小商ヒヲシ、又ハ茶店ナトヲスルモノツトフ様ニナレリ」
牧野村の由来については、津田正生は『尾張国地名考』の中で「馬飼の約るなり」としている。 しかし、このあたりで馬を飼っていたといった歴史があったかというと疑問が残る。 明治22年(1889年)に愛智郡笈瀬村大字牧野となり、明治37年(1904年)に愛智郡愛知町大字牧野になった。その後、大正10年(1921年)に名古屋市中区に編入され牧野町となる。
この神社は第二次大戦の空襲で社殿が焼けた。戦前までにびっしり家が建ち並ぶ住宅地になっていたのが、1947年の今昔マップを見ると神社の西一帯が空白地になっている。 昭和20年3月19日は、名古屋への大規模な空襲が行われた日で、それまでの軍需工場から都市部へと目標を変えたことで多くの犠牲が出た。 家屋など3万戸以上が焼け、一夜にして15万人が被災し、死者は800人を超えた。そんな中で牧野神明社も社殿を焼失することになった。 再建されたのは戦後の昭和27年のことだ。
神社の隣には、名古屋朝鮮初等学校がある。戦後すぐの昭和20年(1945年)9月25日に開校した愛知朝鮮第一初級学校を母体としている。 2017年3月、北朝鮮のミサイル発射に対抗する措置の一環として、名古屋市は補助金の一部を凍結した。 名古屋市内の神社を紹介するとき、多くの神社で空襲によって社殿が失われた歴史を繰り返し書かなければならない。とても残念なことだ。 名古屋城天守も空襲で焼けなければ国宝というだけでなく世界遺産に登録されていただろうし、木造で再建するのどうのともめることもなかった。 神社にはそういった歴史を語り継ぐ装置としての役割もある。悲しいことだけど忘れないためには必要なことだ。
ところでこの神社、どの入り口にも社号標がない。この規模の神社で社号標がないのは珍しい。傷んで撤去したままになっているのだろうか。最初からなかったはずはないと思うのだけど。 境内の雰囲気は明るく軽やかで、なかなかいい空気感だったことを書き加えておきたい。
作成日 2017.4.26(最終更新日 2019.4.13)
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