妙見宮(浄昇寺)

名古屋に現存する数少ない妙見信仰の名残

浄昇寺妙見宮

読み方 みょうけん-ぐう(じょうしょうじ)
所在地 名古屋市昭和区妙見町110 地図
創建年 不明(浄昇寺は1853年)
社格等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄名城線「八事日赤駅」から徒歩約6分
駐車場 あり(東側)
webサイト 浄昇寺公式サイト 052-832-1051
その他  
オススメ度

 かつて盛んだった北辰妙見菩薩信仰の名残がここにあった。完全な神社とはいえないまでも神社寄りの妙見宮として残っているのは名古屋ではここだけだと思う。
 本体は浄昇寺(web)という日蓮宗の寺だ。
 お堂は二つの破風とを持ち、向かって右手には「北辰殿」の額が、左手には「浄昇法堂」の額が掛かっている。
 寺の入り口は南と東の二ヶ所ある。南入口には妙見宮の社号標があり、階段の途中には鳥居が建っていて額にも妙見宮とある。
 東入口は妙見山浄昇寺の石柱と妙見宮の額が掛かった鳥居がある。
 現在進行形で神仏習合のお寺といえるだろうか。

 大阪の能勢妙見(web)、熊本県八代市の八代神社(web)、福島の相馬妙見(相馬中村神社 web)を日本三大妙見と呼んでいるのだけど、浄昇寺は大阪の能勢妙見と深い関わりがある。
 鈴木文七という禅宗の信者が若い頃に眼病にかかってついに失明してしまったとき、人に勧められて八事の奥にあった御場の滝(今の八事火葬場近く)で水をかぶる三十七日の水行祈念を行ったところ、満願の前夜に旅の僧が夢の中に出てきて、摂津国の能勢妙見に行って分身をいただいてこの地で供養しなさいというお告げがあり、翌日滝に打たれていると急に光が目の中に飛び込んできて目が見えるようになった。
 そこで鈴木文七はさっそく摂津の能勢妙見に出向いていって本尊の妙見大菩薩と同じ木から彫った像をいただいて八事に持ち帰り、妙見堂と名づけたお堂に祀ったのが浄昇寺の始まりなのだという。天保3年というから江戸時代後期の1832年のことだ。
 開祖となった鈴木文七は日諦上人と名乗り、二代目を妹が継いで、長らく尼僧がこの寺を守っていたという。最近のニュースでは住職は山川潮暎となっているので今は尼僧ではないかもしれない。
 妙見宮としてどんな神を祀っているのかなどの情報がなく、詳しいことは分からない。

 仏教における妙見信仰は北辰妙見菩薩に対する信仰で、菩薩とは名づけられているものの天部に属する。
 元を辿ると北極星や北斗七星を神格化した道教の星辰信仰に行きつく。
 北天にあって動かない北極星を宇宙の最高神・天帝として、北斗七星を天帝の乗り物と考えた。
 その思想は仏教に取り込まれて北辰妙見菩薩が生まれ、神道では天御中主神(アメノミナカヌシ)と習合した。
 日本には推古天皇の頃に妙見信仰(北辰信仰)が伝わったとされるもはっきりしない。明日香の高松塚古墳の石室天上に北極星が描かれ、キトラ古墳には北斗七星も描かれていることから7世紀の終わりまでは北極星に対する何らかの信仰があったことが分かる。
 妙見というのは優れた視力といった意味で、物事を見通す者のことをいう。
 日本では何故か星信仰というのがあまり流行らなかったようで、星信仰にまつわる神社は少ない。アマテラスの弟のツクヨミは月の象徴なのにツクヨミの神社は少なく、他の星の神といえばまつろわぬ神とされた天香香背男(アメノカガセオ)くらいしかいない。
 北極星や北斗七星を神格化した妙見信仰も、一部の人たちが支持しただけで広く浸透することはなかった。
 摂津の能勢は鎌倉時代に源満仲を祖とする能勢氏が領主となったとき妙見菩薩を祀ったことに始まるとされる。
 霊山とされた妙見山(標高660メートル)の山頂に行基が建てた為楽山大空寺に始まり、1603年に能勢頼次が妙見堂を建立した。現在の能勢妙見堂は眞如寺の飛び地境内となっている。
 千葉道場の北辰一刀流といえば坂本龍馬好きにはお馴染みだけど、千葉氏が妙見菩薩を一族の守護神として千葉妙見宮(千葉神社)に祀ったことに始まる(創建1000年)。
 ここは日蓮とも関わりがあったことから日蓮宗で妙見菩薩がよく祀られるようになったという経緯がある。
 妙見信仰は江戸時代までに道教や天御中主信仰、密教、陰陽道などが入り交じった複雑な信仰となっていった。
 三大妙見の他に星田妙見宮(大阪府交野市 / web)、人見神社(千葉県君津市 / web)、喜多川神社(埼玉県飯能市 / web)、星宮神社(茨城県龍ケ崎市 / web)などの神社に妙見信仰が今も続いている。
 妙見信仰関係の寺社は名古屋や東海圏にはあまり残っておらず、私の知る限り、春日井市の内々神社の隣の内津妙見くらいしかない。

 天保3年の妙見堂はおそらく小さなお堂だっただろうと思うのだけど、浄昇寺と名を改めたのがいつだったのか、ちょっと調べがつかなかった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、わりと大きめの建物に妙見堂と書かれている、
 1920年(大正9年)の地図では建物が増えているので、大正か昭和初期には浄昇寺としただろうか。
 大正時代のこのあたりにまだ家はほとんどなく、後の八事日赤の前身、愛知県支部八事療養所が大正3年(1914年)に建てられた。
 大正から昭和初期にかけて八事には4つの球場が相次いで建設された。滝川町にあった山本球場では第一回のセンバツ高校野球大会(第一回全国中等学校選抜野球大会)が開催された。その他、尾電八事球場、中京球場、名医大球場のいずれも今はもうない。
 南の飯田街道に八事電車が走っていたときは「山中」という停留所があり、妙見口と呼んでいたというから、そこから坂道を登って浄昇寺に参っていたようだ。
 1932年(昭和7年)までには縦横に道路が通り、住宅地になっていった。
 1968-1973年の地図では何故か鳥居マークになっている。
 1976-1989年までは鳥居マークと卍マークが両方描かれ、その後卍マークだけになった。
 現在のお堂は昭和56年(1981年)に日蓮聖人第七百遠忌を記念して建てられたものだそうだ。
 現在、妙見宮の北には正福寺、南には円立寺がある。

 日本において星信仰があまり一般化しなかった理由は何だろうとよく考えるのだけど、その答えはいまだ見えてこない。月の象徴でもあるツクヨミはいつもマイナーで、妙見信仰も明治以降廃れてしまった。惑星を神になぞらえることもなく、星座を神に見立てることもなかった。月の満ち欠けをカレンダーにしていたにもかかわらず。
 太陽神であるアマテラスによって星神は隅に追いやられてしまったというのか。陰と陽で一体という思想もなくはないけど、中心的な思想とはならなかった。
 山や瀧や木や石や風や雷や水といったあらゆるものに神性を見出していた日本人が星々にそれを見なかったとは思えない。流れ星や隕石などという事象も目にしていたはずで、それらを神として祀らなかったのは何故なのか。
 光あるところに影あり。表があれば裏もある。あるいは星神は裏で祀られていたということなのか。
 星神信仰についても今後の宿題として残った。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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