熱田新田三十三番割の中の十七番割の氏神だったのが昭明町にある神明社だ。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は慶安四年(1651年)9月16日という。『尾張志』に”神明ノ社天照大御神、素戔嗚尊、日本武尊を併せ祭るといへり十七番割の氏神也”とあり、明治5年7月、村社に列格した。氏子の崇敬あつく社殿の修復数次に亘り行う」
尾張藩主導で熱田新田の開発が始まったのが1646年。3年後の1649年に干拓地ができて、熱田新田の完成はその2年後の1651年だった。 この神明社の創建が1651年ということは、十七番割に集落ができると同時に建てられたということだろう。 江戸時代後期の人たちの認識では、神明社ではありながらアマテラスだけでなくスサノオとヤマトタケルもあわせて祀っていたということのようだ。熱田社と混じっている感じがする。 中川区は八劔社も多い土地柄で、そのあたりの影響もあっただろうか。 現在の祭神からはスサノオとヤマトタケルは消えて、アマテラスのみとなっている。
昭明町になる前は、小碓町字十七番割と、十七番割の地名が残っていた。 小碓町(おうすちょう)は、ヤマトタケルの名前である小碓命(おうすのみこと)から来ている。 現在は、小碓通(こうすどおり)という町名が一部残っている。 昭明町は、昭和35年に小碓町の一部より成立した。 昭和の昭と、神明社の明を取ってつけられた町名だ。 熱田新田の番割でいうと、十六番割と十七番割に当たる。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在地に鳥居マークが描かれているから、元からこの場所に建てられたと考えていいのではないかと思う。 北に通っている国道1号線は、もともと熱田新田を干拓するときの北側の堤防で、のちに堤防道路となり、百曲街道と呼ばれていた。 東に中川運河ができたのが昭和5年(1930年)で、昭明町が区画整理されたのは戦後のことだ。 西の環状線が拡張された頃にはこのあたりも住宅密集地になっていた。
江戸時代に建てられた神社というと新しい神社に思えるけど、前期に建てられたものは350年以上の歳月が流れている。1651年といえば、関ヶ原の戦いに参加した人間がぎりぎりまだ生きているくらいの年代だ。けっこうな昔といえる。 できたての熱田新田だった時代から江戸、明治、大正、昭和、平成を経て令和の今、このあたりも大きく様変わりした。田んぼなどどこを見渡しても見つからない。 その間、ずっと変わらず神社がそこに在り続けたことのすごさをあらためて思うのだった。
作成日 2017.12.30(最終更新日 2019.7.14)
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