日置神社

ここは反逆の皇子を祀る神社なのか?

日置神社境内と社殿

読み方 ひおき-じんじゃ
所在地 名古屋市中区橘1-3-21 地図
創建年 不明
社格等 式内社・郷社・八等級
祭神

天太玉命(あめのふとだまのみこと)

配祀左:品陀和気命(ほむだわけのみこと)
配祀右:天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

 アクセス

・地下鉄鶴舞線「大須観音駅」から徒歩約12分
・地下鉄名城線「上前津駅」から徒歩約13分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

 日置神社について知るにはまず、日置とは何かを考える必要がある。
 全国に同じ名前の神社がある。『延喜式神名帳』に載っている日置神社は7社(尾張、信濃、近江、若狭、加賀、越中、但馬)。
 加賀国江沼郡の日置神社などは「ヘキ」と読ませるものの、基本的には「ヒオキ」と読ませるところが多い。もしくは「ヒヲキ」が正しいとも。
 ヒオキは一般的に「日招き」から転じたもので、古代の太陽信仰、祭祀に関わった人や一族を指すとされる。
 また、そこから発した日置部(ひおきべ)が基となり、地名が付けられたのだともいう。
 日置部に関してはいくつか説があって、暦を作る人々だとか、太陽信仰にまつわる祭祀を行った者だとか、聖なる火を司るということから鍛冶や土器作りに関わった一族などなど。
 名古屋の橘にある日置神社は、古代このあたりに日置部の一族が住んでいて、土地の名前になり、神社の名前もそこから来ているというのが定説となっている。
 しかし、これには疑問がある。いくら長い時間が流れたとはいえ、現在の日置神社から古代祭祀や太陽信仰のようなものはまったく感じられないからだ。ここはそんな原初的な神社ではなく、単純に言ってしまえば八幡社だ。途中で八幡社に変わったとしても、古代の祭祀云々ということがあれば多少は痕跡が残るものではないか。
 全国の式内日置神社にしても、その由来はひとつではないはずで、必ずしも共通項はないと思われる。

 現在の主祭神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)となっている。
 アメノフトダマというのは、アマテラスが天岩戸(あめのいわと)に隠れてしまったとき、出てきてもらうための策を練るため天児屋命(アメノコヤネ)とともに占い(太占/ふとまに)をしたとされる神だ。
 一説では高皇産霊尊(タカミムスビ)の子ともされ、天孫降臨のニニギにお供して地上に降り、アメノコヤネと一緒にアマテラスの神殿を守る役割を与えられたともいう。
 奈良県橿原市の天太玉命神社の他、徳島県鳴門市の阿波国一宮・大麻比古神社や千葉県館山市の安房国一宮・安房神社、千葉県君津市の大原神社などで祀られている。
 古代氏族の忌部氏(いんべうじ/のち斎部氏)の氏神とされる。
 しかしこの神社は長らく八幡社だった。それも若宮八幡と呼ばれていたという。
 若宮八幡というと、通常は八幡神である応神天皇の息子、仁徳天皇が祀られることが多い。けれどここで、大山守命(オオヤマモリ)の名前が出てくる。
 明治になって書かれた『神名帳』の注釈書、『特選神名牒』(明治9年完成)に、日置朝臣が応神天皇の子の大山守命を祀っていたのに、途中で応神天皇を配祀したら、いつの間にか主格逆転してしまってオオヤマモリ(大山守命)が消えてしまったとしている。
 これはひとつ重要なヒントだ。この日置朝臣というのはオオヤマモリの後裔だという。
 オオヤマモリは応神天皇の皇子で、仁徳天皇(大鷦鷯尊/おほさざきのみこと)や菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)の異母兄に当たる。
 応神天皇は菟道稚郎子がお気に入りで、次の天皇として菟道稚郎子を皇太子にしていた。しかし、年長である自分が選ばれなかったことを恨んだオオヤマモリは、応神天皇が死去すると菟道稚郎子を殺そうと企んだ。しかし、大鷦鷯尊に知られることとなり、菟道稚郎子と大鷦鷯尊の計略で菟道川(うじがわ)を渡っているときに舟を転覆させられ逆に殺されてしまう。
 菟道稚郎子と大鷦鷯尊の間でもいろいろもめたようで、3年間、天皇位が空白になったとされる。結果的に菟道稚郎子が死に、大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位した。
 オオヤマモリの遺骸は考羅済(かわらのわたり)で見つかり、引き揚げられて那羅山(ならやま)に葬られたという。那羅山墓は奈良県奈良市に現存している。
 こののち、オオヤマモリの一族は各地に散らばり、土形君(ひじかたのきみ)や榛原君(はいばらのきみ)、幣岐君(へきのきみ)となったとされる。
 幣岐(へき)が日置(へき)に転じ、日置朝臣もその末裔で、尾張に流れてきてここに定住し、オオヤマモリを祀る神社を建てたのではないか。
 年代としては、仁徳天皇のものとされる大山古墳(大仙陵古墳)の制作時期から考えて400年代前半ということになるだろうか。もう少し後かもしれない。
 日置荘も日置神社も日置部から来ているのではなく、幣岐君もしくは日置朝臣一族が住む土地から名付けられたと考えた方が、日置神社の祭神からしても納得がいくのだけどどうだろう。

 鎌倉時代あたりに、山城国男山より八幡大神を勧請して合祀したと神社の案内にある。
 これが石清水八幡宮のことなのか、同じく京都の若宮八幡宮のことなのかは意見が分かれているようだけど、いずれにしても勧請したのは八幡大神で、応神天皇(ホムタワケ)のことだろう。合祀というからにはすでに祭神が他にいたということに他ならない。その主祭神こそがオオヤマモリで、時代が進むにつれていつしか八幡神が主祭神として扱われるようになったのだろう。
 八幡社と呼ばれていたこの神社が日置神社と名前を変えるのは明治に入ってからのことだ。そのとき、祭神をどうするかというのは難しい問題だっただろう。本来の祭神であるオオヤマモリでは都合が悪い。というのも、オオヤマモリは応神天皇の皇太子を殺そうとしたいわば反逆者だからだ。天皇主導の世の中に戻そうというとき、天皇の反逆者を神として祀るのはまずい。
 そこで選ばれたのが天太玉命(アメノフトダマ)ではなかったのか。日置からの連想で、かなり強引にアメノフトダマを持ってきたような印象を受ける。
 ここでアメノフトダマを据えたことで日置部云々という話になってしまったように思う。あるいは、私が知らないだけで、アメノフトダマを持ってくるだけの確かな根拠があったのだろうか。

 1560年。桶狭間の戦いに向かう信長は、夜明け前に清洲城を出て、美濃路沿いを馬で駆け、まず榎白山神社で戦勝祈願をしたあと、この日置神社にも立ち寄り、戦勝祈願をして、「敦盛」を舞ったとされている。
 信長が清洲城を出たのが夜明け前、午前4時くらいだったといわれている。熱田神社(熱田神宮)に着いたのが午前8時。美濃路を真っ直ぐ行けば距離は13キロほどで、自転車を普通に漕いでも1時間ちょっとで行ける。それを信長は馬に乗って4時間かけている。途中で何をしていたかといえば、あちこちに立ち寄って戦勝祈願をしている。もちろん、味方の合流を待つとか、戦況を見極めるとかもあっただろうけど、それにしてはのんびりしている。すでに清洲を出たときには信長の頭の中に勝利の方程式ができあがっていたのではないだろうか。
 榎白山神社で戦勝祈願をしたのは、織田家の守り神がどうやら白山明神だったらしいことと関係がありそうだ。熱田の宮には草薙剣があるし、地理的にも味方と合流するのにちょうどいい。では、日置神社に寄ったのは何故だったのか。
 やはりここが戦の神・八幡神を祀る神社だったからではないか。少なくともこの時代の認識として日置神社は八幡社だったのだろう。日置部の暦云々などという神社に戦勝祈願をしようとは思わないはずだ。
 頼朝は上洛した際、石清水八幡宮と若宮八幡宮の二社のみで参拝を行っている。信長もそのことを知っていた可能性が高い。日置神社がどちらかの勧請だったにせよ、京都の八幡宮から勧請した神を祀る神社は戦勝祈願をするのにふさわしいと思ったのだろう。
 あと、平安時代から戦国時代にかけてここが日置荘と呼ばれる荘園で、日置城があったということも付け加えておく必要がある。日置城の城主は織田家の寛定もしくは忠寛とされる。
 日置流(へきりゅう)と呼ばれる古い弓道の一派も信長に従っていたとされるから、その関係があったということは充分に考えられる。
 戦いに勝ったお礼として、神領に多くの松を贈ったとされ、以降、千本松八幡などと呼ばれるようになる。
 近くの松原の地名は、この千本松が由来だ。

 明治4年(1872年)、郷社に列格。
 明治29年(1896年)、千本松の最後の1本が枯れる。
 明治42年(1909年)、西北にあった神明社を合祀。
 昭和20年(1945年)、空襲で被災する。
 昭和33年(1958年)、社殿造営。
 なお、1592年、1608年、1629年、1662年、1779年の修理の棟札が残る。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

日置神社はいい神社だけどそれだけじゃない

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