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秋葉社(新茶屋)

この神社にも茶屋家は関わっているのか

新茶屋秋葉社

読み方 あきば-しゃ(しんちゃや)
所在地 名古屋市港区新茶屋4丁目1013 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 十五等級
祭神 迦具土神(かぐつちのかみ)
アクセス 新茶屋南バス停留所」から徒歩約21分
駐車場 なし
その他 例祭 10月2日
オススメ度

 江戸時代に開発された茶屋後新田(ちゃやのちしでん)の南端、南の小川新田との境界堤防上にこの神社は鎮座している。
 堤防の南側だから小川新田なのではないかと思うのだけど、ぎりぎり茶屋後新田の内のようだ。
 現住所でいうと新茶屋4丁目で、旧住所は南陽町大字茶屋後新田字大手堤外法だった。
 このあたりは境界線が複雑で、隣り合う家の片方が新茶屋で、もう一方が天目町だったりする。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「社蔵の棟札によれば大正9年10月20日、本殿新築とある。昭和34年9月26日、伊勢湾台風により拝殿倒潰する。昭和55年5月、再建した」

 無格社ですらないということは明治以降に建てられた新しい神社とも思えるのだけど、『尾張徇行記』(1822年)の茶屋後新田の項に「庄屋書上帳ニ、秋葉社内六畝村除 観音堂地十歩年貢地」という記述があり、この秋葉社が今の新茶屋秋葉社だとすると、江戸時代にはすでにあったということになる。
 ここでいう秋葉社が別の秋葉社、たとえば茶屋後神明社の境内社になっている秋葉社という可能性もある。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、このときはまだ鳥居マークはない。
 神社近くに家が描かれているようないないようなではっきりしない。
 北の用水路もなかったのか、西側に溜め池がある。
 1920年(大正9年)の地図にも鳥居マークはなく、1932年(昭和7年)の地図から鳥居マークが現れる。
『愛知縣神社名鑑』が書く「大正9年10月20日本殿新築」の棟札は文字通りの新築で、この年が創建の年ということかもしれない。
 昭和に入っても相変わらず民家は少ない。ほんの数軒程度だ。
 戦後まで大きな変化はない。この頃は日光川の河原がもっと広くて中州も見られる。
 1960年代になると区画整理されて、北側は民家が多少増える。神社周辺は特に変化がない。ようやく6、7軒といったところだろうか。
 1976-1980年に、南の天目町が突如工場地帯になる。
 1990年代まで神社周辺の集落はほぼ変わらない。現在はもう少し家が増えて十数軒程度だろうか。
 道が細くて車で入っていけずに少し遠くから歩いて向かったのだけど、懐かしいような農村風景が広がっている。

 白塗り鉄筋コンクリートの拝殿はまだ新しい。
 拝殿をくぐった先の石垣の高台や石灯籠、本社などはけっこう古びている。戦後か、伊勢湾台風の後に建てられたものだろうか。
 鳥居は神明鳥居で、社も内削ぎ千木の神明造になっている。その脇に小さな板宮造の社がある。小さい方が秋葉社で本体は神明社ではないのかと思うけど違うのだろうか。
 社号標の裏には「昭和五十五年吉日 天目氏子中」と彫られている。天目町はかつての小川新田の内なので、今は天目町が管理しているのか、もしくは天目町と新茶屋の共同管理になっているだろうか。

 神社の外に2つ石碑が並んでいて、「故陸軍歩兵上等兵 鬼頭矢満次墓」と「故海軍飛行兵曹長 鬼頭重義碑」とある。
 福田新田などを開発した鬼頭景義の子孫がこの地に住んでいて、徴兵されて戦死したということだろう。

 秋葉社を建てたのが茶屋家の人間だったかどうかは分からない。
 茶屋家はなんとなくだけど滅びゆく一族という印象がある。同じように尾張の新田開発をした鬼頭家とはずいぶん違っている。どこか悲劇性というものがつきまとう気がするのは私の思い違いだろうか。
 けれど、東茶屋の神明社を訪れたりすると、茶屋家の無念というか執念みたいなものを感じるのだ。

 

作成日 2018.8.20(最終更新日 2019.7.31)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

農村風景の中にある新茶屋秋葉社

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