九番町(くばんちょう)の名前は、熱田新田の中の九番割だったことから来ている。 昭和15年(1940年)に熱田新田東組の一部より成立した。 熱田新田は1647年から1649年にかけて尾張藩が開発した干拓新田で、1651年に縄入(検地)をして一番割から三十三番割に分けた。東の一番割から十一番割までを東組、十二番割から三十三番割までを西組と呼んだ。九番割は東の熱田に近い方だ。
この神社がいつ建てられたのかは調べがつかなかった。江戸時代という可能性もあるけど、八番割・九番割の氏神は寶田社(八番)だったので、番割の氏神社ではない。 『尾張志』(1844年)に記載はなく、神社本庁に登録していないようで『愛知県神社名鑑』にも載っていない。 ちなみに番割には氏神だけでなく西国三十三ヵ所にあやかって各番割で観音が祀られていた。江戸時代中期までには多くが失われてしまっていたようだけど、そのうちの一部が現存している。九番割は馬頭観音で、熱田区八番の観音堂に移されて残っている。
この神社は九番町公民館の二階のベランダに祀られている。なかなか斬新なスタイルだ。 入り口には立派な社号標があり、境内と呼んでいいのか公民館の敷地というべきなのか、そこに通常サイズの鳥居も建っている。狛犬と獅子もちゃんといる。 出向いたのは2018年の6月で、このときはなにやら大がかりな工事の最中だった。貼り紙を読むと、屋根から雨漏れしてきたのでそれを直すのと、社を新しくすると書いてあった。別の貼り紙には「仮遷座」とあり、社は一階の公民館の中に移してありますと書かれていた。 残念ながら公民館の扉は開かず、表から参拝する格好になった。 本遷座が7月28日(土)らしいから、工事が済んだら再訪することにしたい。 翌7月29日(日)には夏祭りを行うとあった。
今昔マップで明治中頃以降の九番割界隈の歴史を追ってみる。 現在の素盞嗚神社がある場所は田んぼのど真ん中で周囲には家もない。集落があったのは南の堤防と平行する道路(今の東海通)沿いだ。 ただ、寶田社は田んぼの真ん中にあって、今と場所は変わらない。あぜ道の脇にでも祀られていただろうか。 1920年(大正9年)の地図では西に鉄道の線路が敷かれている。これは明治40年(1907年)に名古屋港が開港したのを受けて、名古屋駅と名古屋港の間を結んだ貨物鉄道だ。明治44年(1911年)に開通した。 1932年(昭和7年)になると区画整理が行われ、宅地化が始まっている。ただ、田んぼはまだ多く残っていたようだ。 1937-1938年(昭和13年)になると田んぼはほぼ消え、住宅地になっている。北部には工場も建った。 戦後になると、北半分が工場で南半分は住宅地となった。 工場の跡地に九番団地が建設されると人口が増え、昭和52年には東海小学校が開校した。 団地北の南郊公園は、中川運河の支線だった南郊運河を埋め立てて作ったものだ。
以上のような流れを考えると、この神社の創建は昭和に入ってからではないかと推測できる。 須成町の素盞嗚神社の分社ということもあるか。 石灯籠には昭和三十二年と彫られているので、それより新しいということはないだろう(石灯籠を奉納した年が創建年とは限らない)。 再訪したときにもう少し何か手がかりがないか探してみよう。
<追記> 2018年8月の終わりに訪ねたら、社が新しくなっていた。遷座が無事に済んだようだ。 このときは三度目の訪問で、ようやく参拝できてホッとした。
作成日 2018.7.6(最終更新日 2019.7.21)
|