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那古野神社

名古屋の那古野はナゴヤのナゴノ

那古野神社拝殿

読み方 なごの-じんじゃ
所在地 名古屋市中区丸の内2丁目3-17 地図
創建年 911年(平安時代中期)
旧社格・等級等 県社・七等級
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
奇稲田姫神(くしいなだひめのかみ)
兵主神(ひょうすのかみ)
八柱神
アクセス 地下鉄鶴舞線/桜通線「丸の内駅」1番出口から徒歩約5分
駐車場 なし
電話番号 052-231-4030
その他 例祭 7月16日
オススメ度 **

 名古屋城(web)の南約900メートルに名古屋東照宮と並んで建っている。
 那古野は名古屋よりも古くから使われた表記で、「ナゴヤ」とも「ナゴノ」ともいっていた。かつては名護屋、那古屋、名護屋などという表記もあり混乱するので江戸時代に名古屋に統一したものの、明治になって那古野村(ナゴノ)が誕生し、今も那古野(ナゴノ)の町名が残っている。
 那古野神社は『愛知縣神社名鑑』に「ナゴノ」とフリガナが振ってあるのでそれが正式名なのだろう。ただ、境内の名古屋市教育委員会が書いた説明板には「ナゴヤ」とフリガナがある。

 那古野神社の前身である天王社が創建されたのは、平安時代中期の911年(延喜11年)3月16日で、醍醐天皇の勅命によるものと伝わっている。
 その頃すでにあった八王子の隣に建てられた。八王子の創建は飛鳥時代後期の697-707年とされる。すぐ近くには同時期に創建されたとされる若宮もあった。
 若宮は『延喜式』神名帳(927年)にある孫若御子神社のことではないかという説があり、天王は『尾張國内神名帳』の愛知郡従一位素戔鳥名神ではないかともいう。それぞれ可能性としは低そうなのだけど、まったくない話ではない。愛知郡従一位素戔鳥名神は洲嵜神社かもしれないと個人的には思っている。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、天王社(那古野神社)が素戔鳥名神で、熱田社の素戔鳴社は遙拝所という説に触れつつ、天野信景が『本国帳集説』の中で、尾張藩主の義直がこの神社のことを素戔鳥神社と書いたことは故があることだと書いていることを紹介している。

 醍醐天皇がどうして那古野に天王を祀れと命じたのかは分からない。ただ、時代背景を考えるとある程度想像はできる。
 醍醐天皇は数々の功績を残し、親政による理想の政治をしたといわれる第60代の天皇だ。在位期間は897-930年と30年以上に及ぶ。
 紀貫之に『古今和歌集』を作らせたり(本人も和歌をよく詠んだ)、『延喜式』の編さん(905-927年)を藤原時平に命じたのも功績として挙げられる。
 醍醐天皇と藤原時平の名前が出たところで歴史に詳しい人ならピンと来るものがあっただろう。そう、菅原道真を左遷したコンビだ。
 901年、時平はライバルだった道真を追い落とすべく、天皇を廃位しようと道真が企んでいると嘘の告げ口をして、醍醐天皇はそれを真に受けて道真を太宰府に左遷した。一説では、父親の宇多上皇の勢力をそぐためだったともいわれる。宇多天皇は藤原一族に権力が集中しすぎるのを避けるために道真を重用した。
 909年に藤原時平が39歳で死ぬと、2年後には醍醐天皇の皇太子が21歳で亡くなり、孫を皇太孫にするも5歳で死んでしまう。都では道真の怨霊の仕業に違いないとささやかれるようになる。
 那古野に天王社が創建された911年というのは、ちょうどその頃のことだ。頭を悩ませていた道真の怨霊問題と無関係とは思えない。全国で日照りや疫病、餓死などが続出していた時代でもある。
 道真の霊を鎮めるために太宰府天満宮(web)を建てたのが919年。923年には左遷命令を取り消して道真を右大臣に復帰させるなど、なんとか怨霊を鎮めようとしている。
 しかし、930年に起きた清涼殿落雷事件が決定打だった。道真左遷に関わった貴族たちが落雷の火事で死ぬと、恐れが頂点に達したのか、醍醐天皇は体調を崩して、そのまま亡くなってしまう(46歳)。
 醍醐天皇は皇室以外の身分として生まれて天皇になった唯一の人だ。父親が皇室を離れていたときに生まれ、源維城(みなもとのこれざね)といった。父が皇室に復帰して宇多天皇となり、その後を継いで醍醐天皇となった。
 立派な業績を残しながら道真左遷にまつわる問題で傷がついてしまった天皇、ひと言でいうとそうなるだろうか。

 道真は亡くなってすぐに天満大自在天神という神格で祀られた。最初に祀ったのは臣下の味酒安行だったとされる。
 清涼殿落雷事件をきかっけに道真の神格は雷神と結びつけられ恐れられることになる。
 北野天満宮(web)が建てられたのはもともと地主神の火雷神が祀られていた場所だった(947年)。
 その道真の怨霊を鎮めるために醍醐天皇は各地に怨霊鎮めの神を祀ることを命じたのではなかったかと思う。天王というから牛頭天王だったのだろう。怨霊には牛頭天王をぶつけるのが効果的と思ったのかどうか。各地に天王を祀る勅命を出したのか、いろいろな神を祀ることを命じたのかは分からない。那古野の場合はすでにあった八王子との関係で天王を選んだのかもしれない。八王子は牛頭天王の八皇子を祀る社だっただろう。
 この天王は津島牛頭天王社(津島神社/web)から勧請したという話だけど、京都の祇園社(八坂神社/web)から勧請したとも考えられる。祀られている神の顔ぶれが素戔嗚尊(須佐之男命)、櫛稲田姫命、八柱御子神は現在の八坂神社と同じことからしてその可能性は高いのではないか。津島神社の現在の祭神は須佐之男命一柱となっている。
『尾張志』(1844年)、『尾張名所図会』(1844年)、『尾張名陽図会』(高力猿猴庵 1756-1831年)でも祭神は素盞烏尊となっているので、江戸時代の人は祭神を素盞烏尊と認識していたようだ。
 今の那古野神社で祀られている兵主神は尾張藩初代藩主の義直が1629年(寛永6年)に建てた摂社を本社に合祀したものだ。
 兵主神は武神とも外来の神ともされ、関西地方に兵主神社が集中してある。名古屋の神社で兵主神を祀っているのはここだけではないかと思う。

 飛鳥時代から奈良時代、平安時代中期のこのあたりがどういう状況だったのかはよく分からない。
 地形的にいうと熱田台地(名古屋台地)の北西角で、古代は西と北は入り海だった。
 熱田台地の南端には熱田社(熱田神宮)や断夫山古墳などがあり、その北には高座結御子神社や高座古墳群が、中央部には旧石器時代から縄文時代、弥生時代の遺跡、尾張元興寺(願興寺/7世紀)、那古野山古墳や大須二子山古墳などがある。熱田台地北部でいうと、少し東の長久寺、片山神社一帯で縄文時代の遺跡や貝塚が見つかっている。
 名古屋台地北西部に古墳は見つかっていないものの、縄文時代の名古屋城天守閣貝塚や弥生時代から古墳時代にかけての三の丸遺跡などが確認されている。
 江戸時代に名古屋城と城下町が上書きする格好になったため、古代の詳細は不明ながら、名古屋城の濠から見つかったとされる銅鐸もあり、若宮、八王子が建っていた場所からしても、これらの勢力には連続性がありそうだ。
 平安時代中期、那古野は京都の中央から見てどういう場所という認識だったのか。醍醐天皇は天王を祀る勅命を出したとき、八王子の隣を指定したのかどうか。
 平安時代末になると那古野は那古野庄という荘園になったことが「建春門院法花堂領尾張国那古野庄領家職相伝系図」などから知れる。建春門院は左大臣平時信の娘で、後白河天皇の后になって高倉天皇を産んでいる。

 鎌倉時代から室町時代にかけての那古野庄がどうなったかもよく分からない。戦国時代になると駿河の今川と尾張の織田が争う最前線になった。
 今川の庶流の那古野氏が領していたとされ、斯波氏が尾張国の守護となった後も那古野氏がとどまっていたという。
 今川義元の父、氏親が拠点として柳ノ丸を築いたのが那古野城の始まりとされる。その後、今川氏豊が守っていたのを織田信秀で計略で奪い取り、自らの居城とした。那古野城と呼ばれるようになるのはそれ以降ともいう。
 信秀が奪った年は1532年説と1538年説がありはっきりしない。信長は1534年生まれで、那古野城生まれ説と勝幡城生まれ説がある。
 今川と織田の戦いの最中、天王は兵火にかかって焼けてしまったという。それを信秀が再建したのが1539年(1540年とも)というのだけど、そうなると信秀が那古野城を奪ったのは1538年と考える方が自然か。
 ただ、信秀は1534年に古渡城を築いてそちらに移ったとされており、そうなると那古野城奪取が1538年では話の流れが合わないことになる。
 信長は生まれてすぐ、もしくは3歳のときに那古野城主とされ、22歳で清須城に移るまでここで過ごした。当然、天王や八王子、若宮なども訪れていたことだろう。
 那古野城は信長が清須に移った後に廃城となった。

 1610年、家康は名古屋城築城の地として熱田台地北西角の那古野城跡を選んだ。清須城を改築するか、古渡城跡にするという案もあったようだけど、発展性を考えて那古野城跡にしたといわれている。
 その当時、ここには天王、八王子、若宮、山神、天神、荒神などの社があった。それらを城外に出すことになり、神意を問うために神籤(みくじ)を引いたところ、天王に関しては三度引いていずれも城外に出すことは不可となったため、天王はそのまま残すことになった。
 八王子は清水に移し、今は八王子神社春日神社となっている。
 山神は山神社(上宿)、天神は武島天神社としてそれぞれ現存している。荒神についてはよく分からない。
 若宮は江戸時代になって若宮八幡社となり、名古屋総鎮守とされた。
 初代藩主の義直は、1619年に家康の三回忌にあわせて天王の隣に東照宮を建てた。それが今の名古屋東照宮だ。
 江戸時代、天王は亀尾天王などとも呼ばれていた。これは別当寺として真言宗の亀尾山安養寺があったためだ。神仏習合時代、神社を管理する寺を別当寺といい、そこの責任者を別当といった。別当は神前で経を読んだりもしていた。

 明治の神仏分離令によって天王は正式に牛頭天王から須佐之男に祭神を変えられた。しばらく須佐之男社と名乗っていた時代がある。
 明治4年(1871年)の廃藩置県で領地を没収され、別当も廃止となり、安養寺は取り壊された。
 明治9年(1876年)、名古屋鎮台が城内に置かれることになり、須佐之男神社は東照宮とともに外に出されることになる。
 鎮台というのは、軍の駐屯地というか、地方を守るための大きな陸軍の部隊だ。明治の初めには各地に鎮台が置かれた。
 今の神社がある場所は、旧藩校の明倫堂があった跡地で、明倫堂は明治4年(1871年)に廃校となった(1899年に明倫中学、のちに明和高校として復活する)。
 明治32年(1899年)に那古野神社と改称した。
 昭和20年(1945年)の空襲で本殿などを焼失。昭和32年(1957年)から昭和34年にかけて再建された。

 江戸時代、東照宮祭、若宮祭、天王祭が名古屋城下の三大祭だった。若宮祭と天王祭は同じ日に行われ、車楽(だんじり)2両と見舞車(みまいぐるま)10数両が曳き出され、市民総出の大変賑やかな祭りだったという。
 それらも空襲で失われ、現在は車楽1両を残すのみとなった。5月16日の若宮祭では、それを曳いて若宮八幡社と往復する。
 平安時代から現在まで、長い歳月が流れ、多くの変化があったことを今更ながら思う。

 

作成日 2017.2.22(最終更新日 2019.9.20)

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