那古野神社

名古屋の那古野神社はナゴノなのかナゴヤなのか

那古野神社拝殿

読み方 なごの-じんじゃ
所在地 名古屋市中区丸の内二丁目3-17 地図
創建年 911年(平安時代中期)
社格等 県社・七等級
祭神

須佐之男命(すさのおのみこと)
奇稲田姫神(くしなだひめ)

八柱神
兵主神(ひょうすのかみ)

 

・地下鉄鶴舞線/桜通線「丸の内駅」1番出口から徒歩約5分。
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度 **

 名古屋城の南約900メートルほどのところに那古野神社と名古屋東照宮が並んで建っている。
 どちらも「ナゴヤ」と呼ぶことが多いけど、那古野神社の正式名は「ナゴノ」のようだ。『愛知縣神社名鑑』ではそうなっている。
 名古屋よりも那古野の方が古くからある表記で、「ナゴノ」と読んだり「ナゴヤ」と読んだりしていた。江戸時代になって名古屋城が築城されると、今度は名護屋という表記も使われるようになってますます混乱したため、名古屋に統一しようということになったのだけど、明治になるとまた那古野が復活して那古野町などが誕生して、現在も那古野(ナゴノ)という地名が残っている。

 那古野神社の前身である天王社が創建されたのは、平安時代中期の911年(延喜11年)。醍醐天皇の勅命によるものと伝わっている。
 当時、尾張国那古野荘がどういう状況にあったのかはよく分からないのだけど、おそらく中央から派遣された国司が権力を握って収めていたのだと思う。土地の有力豪族たちとの争いも当然あっただろう。国司は藤原一族の誰かだっただろうか。
 何故、尾張の片田舎にわざわざ天皇の命令で天王社が建てられることになったのか? 最初、勅命というのは信じられなかった。ただ、時代背景を考えるとなるほどあり得る話だと思い直した。
 ちょっと脱線して醍醐天皇と時代背景についておさらいしておくことにする。

 醍醐天皇は数々の功績を残し、親政による理想の政治をしたといわれる天皇だ。
 紀貫之に『古今和歌集』を作らせたり(本人も和歌をよく詠んだ)、『延喜式』の編さんを藤原時平に命じたのもそのひとつだ(905年-927年)。
 醍醐天皇と藤原時平の名前が出たところで歴史に詳しい人ならピンと来るものがあっただろう。そう、菅原道真を左遷したコンビだ(901年)。
 時平はライバルだった道真を追い落とすべく、天皇を廃位しようと道真が企んでいると嘘の告げ口をして、醍醐天皇はそれを真に受けて道真を太宰府に左遷したというやつだ。一説では、父親の宇多上皇の勢力をそぐためだったといわれる。宇多天皇は藤原一族に権力が集中しすぎるのを避けるために道真を重用したとされる。
 909年に藤原時平が39歳で死ぬと、2年後には醍醐天皇の皇太子が21歳で死に、孫を皇太孫にするも5歳で死んでしまう。都では道真の怨霊の仕業に違いないとささやかれるようになる。
 那古野庄に天王社が創建された911年というのは、ちょうどその頃のことだ。頭を悩ませていた道真の怨霊問題と無関係とは思えない。全国で日照りや疫病、餓死などが噴出していた時代でもある。
 道真の霊を鎮めるために太宰府天満宮を建てたのが919年。923年には左遷命令を取り消して道真を右大臣に復帰させるなど、なんとか怨霊を鎮めようとしている。
 しかし、930年に起きた清涼殿落雷事件が決定打だった。道真左遷に関わった貴族たちが落雷の火事で死ぬと、恐れが頂点に達したのか体調を崩してしまい、そのまま亡くなってしまう。46歳。
 結局、後を継いだのは第十一皇子の朱雀天皇だった。
 醍醐天皇は皇室以外の身分として生まれて天皇になった唯一の人だ。父親が皇室を離れていたときに生まれ、源維城(みなもとのこれざね)といった。父が皇室に復帰して宇多天皇となり、その後を継いで醍醐天皇となった。
 立派な業績を残しながら道真左遷にまつわる問題で傷がついてしまった天皇、ひと言でいうとそうなるだろうか。
 話を戻したい。

 創建されたのは、のちに名古屋城三の丸となる場所で、創建時から若宮八幡社と隣り合っていたとされる。
 若宮八幡社も古い神社で、創建は700年頃といわれている。延喜年間に再興されたというから、天王社の創建の時に建て直されたのかもしれない。
 津島牛頭天王社(津島神社)から勧請したという話だけど、京都の祇園社(八坂神社)から勧請した可能性も考えたい。
 というのも、スサノオと一緒にクシナダヒメも祀っているからだ。加えて八柱神(スサノオとアマテラスのうけいから生まれた五男三女神)というのは八坂神社と同じ顔ぶれだ。
 津島神社も540年に創建されて810年に現在地に移ったとされる古くて格式のある神社ではあるけれど、醍醐天皇の勅命だとすれば、京の祇園社から牛頭天王をお迎えするという方が自然なんじゃないだろうか。
 津島神社の祭神にクシナダヒメは含まれておらず、相殿として大穴牟遅命(大国主命)が祀られている。
 祭神がスサノオになったのは明治の神仏分離令以降のことで、この頃は神仏習合の牛頭天王だった。
 天王社が亀尾天王社(かめのおてんのうしゃ)とも呼ばれたのは、別当として真言宗の亀尾山安養寺があったからだ。別当というのは神社を管理する寺で、神宮寺とも呼んだりするのだけど、神職ではなく僧侶が責任者となり、祭祀も仏式で行われていた。なので、明治になるまでは神社よりも寺の性格が濃かった(神職が置かれたのも明治になってから)。
 津島神社が古い歴史を持ちながら神名帳に入れてもらえなかったのはそういうことがあったからかもしれない。京都の八坂神社(祇園社)も式内社ではない。

 創建された時はまだ名古屋城の前身の那古野城もない。今川氏親(義元の父)が築いた柳之丸を織田信秀(信長の父)がだまし取って那古野城と名付けたのが1532年。2年後に那古野城で信長は生まれたとされる(異説あり)。
 那古野合戦のときに天王社の社殿は焼けてしまう。
 信秀によって再建されたのは1540年だった。
 信長は3歳で那古野城主となり、22歳で清洲城に移ったあと、ほどなくして那古野城は廃城になった。
 1610年、那古野城跡に名古屋城を築城することが決まり、天王社と若宮八幡社をよそへ移すことにする。その際、神意を問うため家康がおみくじを引いたところ、何度引いても天王社を移してはいけないと出たため、若宮八幡社だけ外に移して、天王社はそのまま残すことにした。
 三の丸に取り込まれる格好となり、1619年、藩主の義直は家康の三回忌にあわせて隣に東照宮を創建した。
 江戸時代、城外の若宮八幡社は名古屋総鎮守となり、城内の天王社は名古屋城の守り神となった。

 再び転機が訪れたのが明治の時代。
 神仏分離令によって祭神は牛頭天王からスサノオになり、天王社は須佐之男神社と改称させられた。廃藩置県で領地も没収された。別当も廃止となり、寺も壊された。
 明治9年(1876年)、名古屋鎮台が城内に置かれることになり、須佐之男神社は東照宮とともに外に出されることになる。この時代なので、もうおみくじを引いたりはしない。
 鎮台というのは、軍の駐屯地というか、地方を守るための大きな陸軍の部隊だ。明治の初めには各地に鎮台が置かれた。
 現在、神社がある場所は、旧藩校の明倫堂があった跡地で、明倫堂は明治4年(1871年)に廃校となった(1899年に明倫中学、のちに明和高校として復活する)。
 昭和20年(1945年)の空襲で本殿などを焼失。
 戦後の昭和32年(1957年)から昭和34年にかけて再建された。

 江戸時代、東照宮祭、若宮祭と並んで天王祭が名古屋城下の三大祭だった。若宮祭と天王祭は同じ日に行われ、車楽(だんじり)2両と見舞車(みまいぐるま)10数両が曳き出され、市民総出の大変賑やかな祭りだったという。
 それらも空襲で失われ、現在は車楽1両を残すのみとなった。5月16日の若宮祭では、それを曳いて若宮八幡社と往復する。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

ナゴヤでもナゴノでもどっちでもいいけど那古野と名古屋に歴史あり

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